あるベルリンのユダヤ人女流画家

 

 どこで眼にしたのか、もう分からないのだが、私の絵画鑑賞ノートには、ジュリー・ヴォルフトルン(Julie Wolfthorn)という画家の名がメモしてある。女流画家、テレジンで死去、とある。

 テレジンの強制収容所は、囚人たちの芸術活動が有名で、記念館には子供たちの描いた無数の絵が展示されている。囚人の作曲した音楽もあって、私たちが訪れたときには、珍しい東洋人へのサービスなのか、係員がその曲のレコードをかけてくれた。映写室では、「どすのマックの大道歌(モリタート)」を歌った映画監督クルト・ゲロンの、プロパガンダ映画を観ることができる。
 ナチスが強制収容所としてそのまま使用した要塞は、事情を知らなければ緑に囲まれた遺跡にしか見えない。室内の到るところに燕の巣があって、燕たちは、殺された子供たちの霊魂のように、要塞の庭を飛び交っている。

 で、ジュリー・ヴォルフトルンだが、彼女がテレジン(テレジエンシュタット)の強制収容所に送られたのは、退廃芸術家だったためではなく、ユダヤの出自であったため。テレジンは絶滅収容所ではなかったが、衛生状態はやはり劣悪で、体力のない弱い者は耐え抜けずに死んでいった。ヴォルフトルンがテレジンに送られたとき、彼女はすでに78歳の老齢。2年後に死んでいる。

 彼女の姓はヴォルフ(Wolf)で、生まれ故郷である、当時プロイセン領だったポーランドの要塞都市トルン(Thorn)の名をくっつけて、ヴォルフトルンと名乗っていた。

 ベルリンで絵を学び、途中、パリ留学(近郊のグレー・シュル・ロワンにも滞在)や、ダッハウ、ヴォルプスヴェーデなどの芸術家コロニーへの滞在があっても、自由を許された生涯のあいだ、ベルリンを離れなかった。1898年、ベルリン分離派結成の際には、その創立メンバーに名を連ねている。

 人物画に長け、当時のベルリン文化界の、特に女性の著名人の肖像画を多く手がけており、20世紀初頭にはケーテ・コルヴィッツ、ドーラ・ヒッツとともに、ベルリンで活躍する、ドイツで最も有名な女流画家として、数えられたという。
 直接的な制作以外でも、コルヴィッツらとともに、美術界での女性の地位向上のために尽力。200人を超える女性芸術家の署名を集め、プロイセン芸術院に女性会員を任命するよう嘆願書を提出した。1919年には、コルヴィッツが女性初のプロイセン芸術院の会員となっている。

 が、ナチス・ドイツの台頭に伴い、「退廃芸術」の排斥が始まり、コルヴィッツは公職を追われることになる。
 ユダヤ系だったヴォルフトルンのほうは、それどころでは済まなかった。情勢を甘く見ていたのか、あるいは死を覚悟した最後の戦いのつもりだったのか、後世からすれば無謀と見えるのだが、彼女は弾圧の強まるベルリンにとどまり、「ユダヤ系ドイツ人文化協会」とともに活動を続ける。
 が、1941年、ナチスは協会を非合法と宣告し、メンバーを逮捕、所有物を没収した。

 翌年彼女はテレジンへと移送される。過酷な状況下で、最後までデッサンを続けたと言われるが、力尽きた。

 画像は、ヴォルフトルン「青緑色の眼をした少女」。
  ジュリー・ヴォルフトルン(Julie Wolfthorn, 1864-1944, German)
 他、左から、
  「フルート奏者」
  「ヴォルプスヴェーデの少女」
  「フェルヒにて」 
  「ムテジウス庭園のユリ」
  「猫を抱いた少女」

     Bear's Paw -絵画うんぬん-
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