徒然なるままに~地球クン

ラマナ・マハルシについて語っています

第1巻 対話203

2017-05-18 21:25:22 | 日記
妻を亡くしたばかりの人に、マハルシは語り始めました。

マハルシ「「妻は身体の半分を占める」と言われています。それゆえ、彼女の死は苦痛に満ちたものに違いありません。しかしながらこの苦痛は、私たちの視点が身体的なものだからなのです。もしその視点が真我のものであれば、それは消え去るでしょう。もし妻や他の人たちを真我と同一と見たなら、どうして苦痛が起こりえるでしょう?それにもかかわらず、このような悲劇は哲学者の心さえ揺さぶるのです。
私たちは深い眠りの中で幸せでした。そのとき、私たちは純粋な真我としてとどまっていました。今この瞬間でさえそうです。深い眠りの中では、妻も他の人も、「私」さえも存在していません。彼らは今、(目覚めの状態に)現れ、喜びや悲しみを湧き起こらせるのです。深い眠りの中で至福に満ちていた真我の至福は、なぜ今も続かないのでしょうか?その唯一の障害こそ身体と真我との偽りの自己同一化です。
あなたが仕事場に行ったとき、あるいは深い眠りについたとき、あなたの妻はあなたとともにいたでしょうか?彼女はあなたから離れていたのです。あなたは彼女がどこかにいると思っていたため、安心し、満足していました。一方、今のあなたは彼女がいないと思っています。違いは考え方にあるのです。それが苦悩の原因です。妻がいないという想いが苦悩をもたらしたのです。これはすべて心の悪戯です。心は快楽があるときでさえ、自らに苦痛を与えます。しかし苦痛も快楽も心の産物なのです。
なぜ死者について嘆くのでしょうか?彼らは束縛から解放されたのです。嘆きとは、心がそれ自身を死者に結びつけるために創り出した鎖です。
自我が存続するかぎりは、人は死を恐れ続けるでしょう。人は他の人の死を嘆きますが、もし(自我を殺して自我の夢から目覚めることで)人より先に死ねば、嘆く必要もありません。深い眠りの体験は、身体なしに在ることの幸福をはっきりと示しています。賢者も身体を放棄した後の解脱について語り、そのことを承認しています。それゆえ、賢者は身体を捨て去ることを待ち望んでいるのです。何の喜びもなく賃金のためだけに重い荷を頭に担ぐ運搬人が、目的地まで運び終え、ついには重荷から解放されて喜ぶように、賢者もこの身体に耐え、それを捨て去るための定められた正しいときを待ち望んでいるのです。もし今あなたが妻という重荷の半分から解放されたなら、それに感謝して喜ぶべきではないでしょうか?」

死というのは自他ともに克服するのがとても困難なように思います。
完全な自我の死を迎えると、克服するようなことなど何もないことがわかるのでしょう。
恐れているのは「私」ではなく、自我なのです。
真我として在ることこそが死からの解放なのです。


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