徒然なるままに~地球クン

私の永遠のグルであるラマナ・マハルシの対話本について自分なりの解釈で語っています。

第1巻 体験248

2017-08-09 23:30:45 | 日記
マハルシ「真我実現した聖者は「私は身体だ」と言い、真我実現していない人も「私は身体だ」と言います。違いはどこにあるのでしょうか?「私は在る」が真理です。身体は限りあるものです。真我実現していない人は「私」を身体に限定します。眠りの中の「私」は身体に依存していません。その同じ「私」が今、目覚めの状態にあるのです。「私」は身体の中に存在すると想像されていますが、実際は身体なしに存在しています。「私は身体だ」が誤った観念だというわけではありません。そう言うのは「私」なのです。身体に生命意識はなく、「私」と言うことはできません。
誤りは「私」ではないものを「私」だと考えることにあります。「私」は意識のないものではありません。「私」は生命意識のない身体でもありません。身体の動きを「私」と混同するために不幸は起こるのです。身体が働こうと働くまいと、「私」は自由で幸福なままです。真我実現していない人にとっての「私」はただ身体だけを意味します。それがすべての過ちのもとです。真我実現した聖者にとっての「私」は、身体とその他のすべてを含んでいます。問題となるのは、明らかに、ある媒介となる実体(自我)が現れて混乱を起こすことにあるのです。」

真我を垣間見ても、日々気づきが訪れます。以前読んで何も感じなかった対話ですが、今日再び読んでハッとさせられました。

「私は身体だ」が誤った観念だというわけではありません。そう言うのは「私」なのです。身体に生命意識はなく、「私」と言うことはできません。

これに尽きます。
「私」は身体でも自我でもないのです。「私」の意味合いがそれぞれ違います。
それを一つ一つ丁寧に紐解いていくと見えてくるものがあります。

「私は在る」ただそれだけで、いたってシンプルなのです。

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