CHIKU-CHANの神戸・岩国情報

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朝鮮通信使と兵庫津

2016年11月07日 05時11分04秒 | 神戸情報
2016年10月14日に兵庫県立考古博物館 秋季企画展 
「江戸時代の兵庫津」
を観てきました。

この展示の中の朝鮮通信使に関わる展示に焦点を絞って紹介します。
これを機に朝鮮通信使に関する入門的な知識を勉強整理してみましたので
主に写真で紹介します。

まず上述の「江戸時代の兵庫津」展示の朝鮮通信使に関する展示は

上の写真は宝暦14年(1764)の寄港時の兵庫津のおける朝鮮通信使宿舎の
割り当て図です。

三使はじめ上官は浜本陣と呼ばれる大商人宅に、中・下官はその他の商家や
集会所、僧は阿弥陀寺に分宿した。
宝暦14年(1764)では正使・従事官は絵屋右近右衛門の家に副使・上々官
は網屋新九郎の家に中官は肥前屋粘右衛門の家が宿泊に供されています。
兵庫津南浜の船大工町、関屋町、新在家町、出在家町の4町が担当。


朝鮮通信使の写宇官 金義信(雪峰)によって書かれた禅昌寺(神戸市須磨区)
に残る扁額の写真
禅昌寺には第5次・6次(寛永20年(1643)と明暦元年(1655))の二度
にわたり写宇官として来日した 金義信(雪峰)が書いた「神撫山」「禅昌寺」
の扁額が禅昌寺に残されています。
 上記の展示に関連して葛飾北斎「東海道五十三次 由比」で清見寺の僧と
 思われる人物が墨をすり、通信使の随員が揮毫している下の写真を添付


 出典:「朝鮮通信使」中尾 宏著(岩波新書)(2007)



上の2枚の写真は天和2年(1692)7月22日の夕食に室津で出された
饗宴料理の復元模型と饗宴料理のすべての写真。

上記の展示を補完する意味で2004年10月30日~12月26日に神戸市立博物館で
開催の特別展  よみがえる兵庫津の展示から朝鮮通信使に関する
写真を紹介していきます。


上の写真は上の写真は朝鮮通信使行列図屏風 江戸時代初期 二曲一隻 
個人蔵 神戸市立博物館寄託 
朝鮮通信使の行列の様子が判ります。


上の写真は兵庫津から大坂に至る朝鮮通信使の警護にあたった尼崎藩松平家
の警護船の様子を記録した記録で宝永8年(1711)の松平忠喬の入封から
間もない頃の絵図です。

次に朝鮮通信使の入門的基礎知識として基本的な事項について記載しておきます

まず、2016-02-20 朝日新聞 夕刊 1総合にキーワード解説として下記の
説明をされていますのでそのまま引用させていただきます。

「豊臣秀吉による出兵後、江戸幕府は朝鮮との国交を戦後9年で回復。
1607年~1811年に12回、幕府の将軍交代などの時期に合わせて
通信使が来日した。友好を確認する国書交換など外交のほか各地で学問や
文化の交流を繰り広げた。通信使を招く外交交渉は対馬藩が担い、対馬の
役人や通詞が滞在する倭(わ)館が現在の韓国・釜山にあった。 
「朝鮮通信使に関する記録 17~19世紀の日韓間の平和構築と文化交流
の歴史」として世界記憶遺産登録を申請する史料は111件333点。
日本側は、対馬藩が国交回復実現のため改作したものも含めた「朝鮮国書」
(京都大総合博物館、東京国立博物館所蔵)、「朝鮮国信使絵巻」
(長崎県立対馬歴史民俗資料館所蔵)などの記録画など48件209点。
韓国側は各回の使行録(通信使の日記)など63件124点。 
記憶遺産の候補は1カ国2件の枠があり、日本ユネスコ国内委員会が審査で
2件を選ぶが、2カ国以上が共同申請する場合はこれとは別枠で、
朝鮮通信使は2017年の登録をめざす。」


江戸時代の12回の朝鮮通信使の概要については「朝鮮通信使」中尾 宏著
(岩波新書)(2007)の巻末に一覧表でまとめられていますのでそのまま
添付させて頂きました。



第1回から3回までの使節団の目的は豊臣秀吉による朝鮮名「壬辰倭乱」
(日本名「文禄・慶長役」)で、日本へ拉致された朝鮮人(3万人とも
5万人ともいわれている)の被虜人を本国へ送還することや徳川政権の
対外姿勢の確認ということから「通信」は妥当でないとして
「回答兼刷還使(かいとうけんさっかんし)」の名が用いられています。

兵庫津には第12回が対馬とまりであった為寄港していないが他の11回は
寄港しています。

通信使のメンバーは、「正使」「副使」のほかに、「書記」「通訳」「画家」
「書家」「医者」「僧侶」「楽隊」などでした。

一回の使節の人数は、400~500人で平均人数は450人、そのうちの100人(水夫)
は大阪に留まり、350人が江戸に行きました。

朝鮮の釜山を出発してから、江戸に着くまでに、4ヶ月~半年かかっています。


また、江戸以前の朝鮮通信使としては室町期に3回の交流がありました。
 (Wikipediaより引用)
第1回 1428年(正長元年)
 通信使正使 朴瑞生 副使 李芸 書状官 金克柔
 将軍就任祝賀,前将軍致祭 足利義教の引見
 
第2回 1439年(永享11年)
 通信使正使 高得宗 副使 尹仁甫 書状官 金礼蒙
 旧交 足利義教の引見

第3回 1443年(嘉吉3年)
 通信使正使 卞孝文 副使  尹仁甫 書状官 申叔舟 
 将軍就任祝賀,前将軍致祭 足利義教の引見

また、豊臣秀吉の時代には2回朝鮮通信使が派遣されています。

第1回 1590年(天正18年・宣祖23年)12月3日(旧暦11月7日)に秀吉に謁見
  豊臣秀吉は対馬の宗氏に対して朝鮮国王を服属させるように命じた。
  朝鮮との貿易を重視する対馬では服属は求めず、日本を統一した
  新しい王である秀吉を祝う使節を朝鮮に求めた。

第2回 1596年(慶長元年・宣祖29年)
  日本と明の休戦交渉の締めくくりとして行われた明の冊封使に同行した
  ものであった。冊封使は楊方亨が正使、沈惟敬が副使に任命された。
  朝鮮では当初は通信使派遣に反対したが、派遣しなければ再度侵攻の
  可能性があるという議論になり、朝鮮の正使は黄慎(行護軍兼敦寧都正)
  副使は朴弘長(大邱府使)の随行が決まった。


朝鮮通信使の来日の経路


 出典:「朝鮮通信使」中尾 宏著(岩波新書)(2007)

通信使の主な経路は、釜山―対馬―壱岐―藍島(あいのしま)―下関―瀬戸内海―
三田尻―兵庫―大阪―京都―江戸―日光でした。

朝鮮通信使関連年表


 出典:「朝鮮通信使」中尾 宏著(岩波新書)(2007)
 
我々が学校時代に教えられた歴史では「江戸時代に日本が鎖国をして唯一の門戸
は長崎で中国及びオランダとの民間貿易が認められていた」であるが実際には
本日のテーマ朝鮮通信使、さらに松前藩のアイヌとの交易、薩摩藩が琉球王国を
支配下において展開した琉球王国の徳川将軍への服属儀礼と交易と長崎以外に
3つの窓口を持っていた。これらの点から見て江戸時代は鎖国であったという認識
は正しくない。18世紀後半に初めて鎖国という用語が現われ幕末の開鎖論争の
中でいつのまにか「江戸時代の日本は鎖国状態であった」という誤った認識が
広まっていったと言って良いだろうと思います。


上の写真は「朝鮮通信使 来朝図」江戸での朝鮮通信使の様子が描かれています

現在、朝鮮通信使の行列を真似た祭が各地に残っているので簡単に紹介します。

厳原港祭り 
 長崎県対馬 8月第1日曜日

唐子踊り
 岡山県牛窓 10月第4日曜日

唐人行列
 三重県津市 10月10日

唐人踊り
 三重県鈴鹿市 4月第1日曜日

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