私の旅日記

蝦夷地の山道歩き

10 濃昼山道パンフレット出来る

2006-03-28 09:39:26 | Weblog
 昨年(平成17年)秋に待望の濃昼山道の再開削が終わり、目下のところ山道は冬眠中です。5月の連休中には一度全コースを歩いてみたいと思っていますが、林野庁 北海道森林管理局石狩森林管理署のご協力を得てこのたび写真のようなパンフレットを作りました。近く関係ケ所に置く予定です。
 この地図の中で、大沢からルヘシベ峠を経て「旧濃昼山道分岐点」まで点線で記したルートが、安政4年(1857年)平田與三右衛門が開削した道です。ただし今ではまったく見分けがつかないほど荒れ果てています。 
 ところで今回再開発したこの山道でも、未だはっきりしていないことが多々あります。次回からはこの山道の生い立ちについて述べたいと思っています。

9 濃昼山道開通

2005-10-11 15:13:16 | Weblog
 生憎の曇天であったが平成17年10月8日、漸く開削した濃昼山道をみんなで歩く日を迎えました。10月1日に濃昼山道の地理上の行政区が石狩市となった,というわけでもないが「石狩浜夢の木プロジェクト」の一行外22名の参加者を得て濃昼側から安瀬へ向かいました。
 この道につていは前にも述べたとおり明治26年から翌年にかけ北海道開拓使の命で作られた道ですが、元々は安政4年にこの地の場所請負人であった浜屋与三右衛門が幕府の命を受けて開削したのが原形でした。しかしあまりに険しすぎるルートを選んだので明治26年北海道開拓使の手で改道したのがこの道です。昭和46年に国道231号が出来てトンネルが通過するともう忘れられた道として誰も通らず、以後34年間一面笹に覆われた廃道となってしまいました。この廃道になった道にもう一度光を当てよう!と言う運動にとりくんだのが元浜益中学校校長で、現在「濃昼山道の会」会長の田中秀隆氏であります。氏は平成10年4月にこの地に入り、残雪の残る山肌に一筋の道跡を見てこの道の再開発を思い立った、と述べています。以後6年の間毎年草刈を続け、荒れた道を補修しながら修復し漸く今日を迎えたのです。
ところで、「なんでいまさらそんな道を開いて何になるの?」という質問をよく受けます。又、「どうせそんな道を利用するのは山菜取りぐらいなものさ!」との答えも多く受けます。いずれの疑問にも的確に答えることが出来ませんが、「失われつつある道跡に対する愛惜の念」が駆り立てるのかもしれません。  

8 最後の難所

2005-09-26 15:03:13 | Weblog
 2005年9月25日14時、ついに最後の難所の開削が終わった。前回までは太島内(フトシマナイ)川より荒れ果てた山道跡を刈り進み、一方逆の濃昼峠からの道跡とドッキングする地点がかねてより斜面の崩落が続いており、道跡が完全に破壊されている部分がありました。直線距離にすれば僅か50メートルの距離ですが急峻な上に雑木が生い茂り全く道跡が消え去っています。しかしここを何とか突破しなければ濃昼山道の貫通はありえず、皆で手分けをしてルート探しに奔走しましたがついにわからず、しょうがないので田中会長の指示でこの部分だけは新規にルートを造ろう!ということになり、藪を切り払いついに開通となった次第です。これでやっと10月8日の開通式になんとかまにあいました。

7 ルーランの車石の事

2005-08-24 20:03:52 | Weblog
濃昼山道に取り付くためには現在3っのルートがあります。
出口、入り口の濃昼、安瀬のほかに、国道231号線安瀬の先、滝ノ沢トンネルを出て旧ルーラントンネルの上部に取り付き防火線を登るルートです。現在旧ルーラントンネルへはトンネルが閉鎖されたので危険防止のため金網が張られていますが、何とか超えてゆくと右側はルーラン(アイヌ語で懸崖の意味)の名のとおり高い崖が続いています。
この連続する崖の中に写真にあるとおり巨大な車石(玄武岩質の枕状溶岩)が見られます。
車石は根室市花咲港にあるのが有名ですが、このルーランの車石も見事だと思います。

6 濃昼山道の遺構

2005-08-23 20:10:19 | Weblog
この山道にはまだ多くの遺構が残されています。この地帯の特異性から急峻な崖に沿って道を作ったため道型を補強するための石垣や、写真で見られるとおり川の渡渉地点にの両側に石垣による橋げたを作り、コンクリートで固めた橋脚が2箇所ほど残っていたりしています。
いずれにしても当時この山道を通った人たちにとって心強い存在であつたと思います。

5 濃昼山道の水準点

2005-08-19 09:41:00 | Weblog
濃昼山道には7箇所に道路の高さを決める水準点が埋め込まれています。即ち安瀬の№8437から始まって濃昼村の№8443までの7箇所です。
そのうち現在まで確認されたのが4箇所、亡失が2箇所、未確認が1箇所となっています。この水準点は明治39年に選定され、同40年に埋石されたものです。即ちこの時代から濃昼山道は今で言う一級国道だったのです。
写真は水準点№8439、97.5599メートル前での記念です。

4 二つの濃昼山道

2005-08-18 11:24:24 | Weblog
 実は今回初めてわかったのですが、安政四年に平田氏が幕府の命を受けて開削した道と、現在私達が藪狩をしている濃昼山道は、入り口と出口は同じでも全く違うルートであった事がわかりました。
 即ち、平田氏が開削した当時のルートは山側を大きく迂回するルートであり、目下私達の開削しているルートはほぼ海岸線に沿った等高線沿いに作られているからです。
 この違いに気がついたのは蝦夷地の探険家として有名な松浦武四郎が安政四年閏五月に箱館奉行堀織部一行とこの山道を通過したときの一文「峠、このところ眺望よし、後ろはすべて山に隠れているが向かうはコガネ山よりショカンベツ岳まで一目に見え」(松浦武四郎 吉田常吉編 西蝦夷日誌アツタ領)とありますが、目下私たちが開削中の濃昼山道の何処からもコガネ山もショカンベツ岳も見えないのです。
 そこで色々調べた結果、今私達の開削中の道は実は明治二十六年に作られた道であることがわかりました。
写真は安政四年当時に通っていたと思われる尾根筋のルートです。

 3 濃昼山道を最初に開いた人

2005-08-17 08:52:43 | Weblog
濃昼山道を最初に開いたのは平田与三右衛門という滋賀県彦根市柳川出身、蝦夷地松前在住の厚田場所を請負っていた商人でした。平田与三右衛門はいわゆる近江商人として活躍した人で、厚田から濃昼一帯の漁業産物を取り仕切っていました。
しかし断崖絶壁の続くこの地帯は一旦海が荒れると交通が途絶し、所謂陸の孤島となってしまうのです。
カラフト島にロシアが進出したことにより幕府は急遽沿岸道路の開削を計画しましたが資金不足のためこの場所を請負っていた場所請負人たちに命じ道路開削を命じたのです。
写真は松前町専念寺にある平田与三右衛門の墓石です。

2 濃昼山道の歴史

2005-08-15 13:46:16 | Weblog
この山道の歴史は安政4年(1857年)まで遡ります。実はこの4年前の嘉永6年(1853年)にロシアのプチャーチンが長崎に来航して開国と北蝦夷地(サハリン島)の国境策定を迫り、さらに同年8月には北蝦夷地のクシュンコタンへ軍隊を上陸させる、と言う事件が起こりました。 これに驚いた江戸幕府は北方警備の一環として急遽道路の必要性を痛感し、松浦武四郎等の助言を得て蝦夷地西海岸の道路整備に取り掛かったのです。   写真は山道の藪苅風景です。背景にある鉄塔は北電の送電線です。

 1 濃昼山道の復活

2005-06-25 16:09:31 | Weblog
1 濃昼山道って何処にあるの?
 北海道の地図があったら一寸見てください。日本海側の石狩湾の北部に厚田村という小 さな漁村があり、さらにその先に安瀬(ヤソスケ)と呼ぶがあり、昔海岸の国道が 出来る前までこの安瀬から更に北に向かって濃昼(ゴキビル)まで山道があったので  す。
  この山道は昭和46年(1971年)に海岸側にトンネルが開通し、以後全く使われなくなり 廃道となってしまったのです。
 私達は平成12年に濃昼山道の会(会長田中秀隆氏)を結成してこの山道復活を夢見、同14 年以後数十回の藪苅をしていよいよ年内には安瀬橋から濃昼までの約7キロの開通のめ どがつきました。
写真は厚田村から見た山道のあった付近です。