薄皮を剥ぐようにまた真実が あらわれざりし戦時の悲惨
退去を禁ず――大阪空襲訴訟で問われたこと 水島朝穂 8/15
>防空法(1937年10月1日施行)はその第1条にあるように、軍が行う防空活動(軍防空)と不可分一体の形で、個々の国民が国防目的に奉仕して、国家体制を守る義務を負うことを、「国民防空」(あるいは、「民間防空」、「民防空」)として制度化した。
>「国民防空」が目指すものは国家体制の防護であって、国民の生命・財産の保護ではない。国民が保護されることは、国家を守ることにより生じ得る「反射的利益」に過ぎなかった。2度の法改正(1941年と1943年)により防空義務が強化され、国民は空襲から逃げることが許されない状況に置かれることになった。
>防空法施行令により、「たとひ六十歳前後の老人でも働き得る者は残らねばならない」
>罰則をもって禁止されたこと自体が、住民に対して強度の威嚇効果をもたらした
>他方、児童など弱者の疎開は「防空活動の足手纏ひ」であるから疎開させる
>内務省が隣組や町内会などでの宣伝・教育用に推薦した『防空絵とき』には、「火叩き」の作り方が解説されている。短いものでは1メートルの棒に縄をつけたもの。これで焼夷弾を消すというわけだが、これはまったく笑止千万だった。いや「焼死千万」だった。
>8月6日に原爆が投下されても、政府は「初期消火」の重要性を説いていた(『朝日新聞』1945年8月9日、10日、12日付)。原爆に対して毛布や布団をかけろとは…。
まえに強制疎開を詠んだことがあるが、防空法も恐ろしい法律だったと今になって知る。