『藤原機関 インド独立の母』
責任表示:藤原岩市 著
出版者:原書房
出版年月日:1970
藤原 岩市(ふじわら いわいち、1908年3月1日‐1986年2月24日)
その名は『F機関』…大東亜戦争の英雄・藤原岩市
藤原機関
"藤原少佐は英語もできず、諜報活動の経験もなかったが、誠意と真心でもって敢然としてその使命に立ち向かった。"
皆さんがびっくりされたのと同様なので、改めて記載は省略。
それにしても、上記記載のように、ほとんど未経験で現地語はおろか英語もできない人物を、開戦の年の10月初めに現地入りさせて「何とかしろ」という無計画・乱暴さには驚くほかない。
それで指名された人物がまた何とかしてしまうというのが驚き。
よほど人物ができていて、周囲の人間を心服させたからなのだろう。
人物さえ間違いなければなんとかなるものだという、日本の伝統かな。
明石元二郎の時代から変わらなかった?
ある藤原(F)機関員の死~「老人タイムス」私説
"O氏の尊父は藤原岩市機関長の通訳をしていたが、17年3月、東京で開かれたインド独立会議に出席の途次乗っていた飛行機が北アルプスの焼岳に激突、プリタム・シンILL(インド独立連盟)書記長ら独立の志士と共に遭難死した。"
本書中に「四氏の遭難」という節があり、上記のエピソードが記載されている。
シンガポールから著者とともに東京に赴く際、飛行機の人数の関係で二組に分かれる。
サイゴンからは岩畔大佐が合流。
ところが、二組目の機が、上海から九州の太刀洗飛行場経由の最終航路途上で行方不明になる。
当日は、暴風雨接近の情報が明らかで、当然天候の回復を待つと考えられたにもかかわらず、出発を強行した。
じつは、上海から便乗してきた某(本書では記名)大佐が自分の都合(当日夜までに上京したかった)で操縦士に飛行を強要し、暴風雨の中で機位を失い遭難したという経緯が明らかになる。
インド国民軍の創設
責任表示:藤原岩市 著
出版者:原書房
出版年月日:1970
藤原 岩市(ふじわら いわいち、1908年3月1日‐1986年2月24日)
その名は『F機関』…大東亜戦争の英雄・藤原岩市
藤原機関
"藤原少佐は英語もできず、諜報活動の経験もなかったが、誠意と真心でもって敢然としてその使命に立ち向かった。"
皆さんがびっくりされたのと同様なので、改めて記載は省略。
それにしても、上記記載のように、ほとんど未経験で現地語はおろか英語もできない人物を、開戦の年の10月初めに現地入りさせて「何とかしろ」という無計画・乱暴さには驚くほかない。
それで指名された人物がまた何とかしてしまうというのが驚き。
よほど人物ができていて、周囲の人間を心服させたからなのだろう。
人物さえ間違いなければなんとかなるものだという、日本の伝統かな。
明石元二郎の時代から変わらなかった?
ある藤原(F)機関員の死~「老人タイムス」私説
"O氏の尊父は藤原岩市機関長の通訳をしていたが、17年3月、東京で開かれたインド独立会議に出席の途次乗っていた飛行機が北アルプスの焼岳に激突、プリタム・シンILL(インド独立連盟)書記長ら独立の志士と共に遭難死した。"
本書中に「四氏の遭難」という節があり、上記のエピソードが記載されている。
シンガポールから著者とともに東京に赴く際、飛行機の人数の関係で二組に分かれる。
サイゴンからは岩畔大佐が合流。
ところが、二組目の機が、上海から九州の太刀洗飛行場経由の最終航路途上で行方不明になる。
当日は、暴風雨接近の情報が明らかで、当然天候の回復を待つと考えられたにもかかわらず、出発を強行した。
じつは、上海から便乗してきた某(本書では記名)大佐が自分の都合(当日夜までに上京したかった)で操縦士に飛行を強要し、暴風雨の中で機位を失い遭難したという経緯が明らかになる。
インド国民軍の創設