ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

「聖書をよむぞ~」

2014年06月10日 | 見る

              
 
 毎日、聖書をひらいて通読しながら、エッセイCoffee Breakを書いています。
 すでに、1300回を超え、創世記から出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の「モーセ五書」、ヨシュア記、士師記にはじまる「歴史書」を終え、現在、「預言書」イザヤ書を読んでいます。

 聖書の素晴らしさを実感するとともに、やはり、立ち往生していることしばしばです。

 ガイドブックや聖書注解書のお世話にもなっています。牧師や先輩クリスチャンの考え方やご意見をうかがうこともあります。
 たくさんの先達の踏み固められた道を踏みながら、感謝と喜びに満たされる時間なのです。

 ひとりでも多くの方が、この喜びを体験して下さればと、いつも思うのです。
 日本アッセンブリ・オブ・ゴッド教団正教師・佐々木正明牧師の、やさしい聖書通読のガイドブック「聖書を読むぞ~」から、引用させてください。


 佐々木先生の著述は、さとうまさこのブログCoffee Breakのページにリンクを載せさせていただいています。
 




                                      



                

聖書は百科事典ではありません


 「聖書にはどんなことでも書いてある」とか、「どんな問題でも、聖書が触れていないものはない」などと言う人がいます。聖書と百科事典を取り違えているようです。聖書には書いてあることは書いてあるし、書いていないことは書いていないのです。当たり前の話なのですが。


 料理の本を開いて、音楽の勉強をしようという人はいません。ダイエットの本を開いて高層建築について調べるのだという人もいません。当たり前の話なのです。でも、聖書を読んで、地質学や生物学や科学を論じようとする人たちは、たくさんいます。聖書はそのような目的のために書かれた本ではないのですが。


 私たちの信じるところでは、聖書は間違いのない神の言葉です。神の霊感を受けて書かれていて、私たちの信仰と生活のための誤りない指針です。でも、聖書はどんな目的のために書かれたのかを、理解しなければなりません。水泳を教えるために書かれたのか、野球を教えるために書かれたのか、地球の生い立ちと成り立ちを教えるために書かれたのか、天地創造の経過を順序正しく教えるために書かれたのかということです。


 聖書の個々の書物を書いた人が、書くときに持っていたそれぞれの目的を知ることは重要です。でもその背後で、聖書の著者に霊感を与えて書かせてくださった神のもくろみ、書かれたものを聖書の中に加えてくださった神の意図を理解することが、もっと大切です。聖書全体に流れる、神の意図、目的こそ最も重要なのです。

    

 自然科学に興味のある人ならば、天地創造の物語が、果たして現代科学の教えるところと一致しているか、興味深い詮索の的になり得ます。だから、神が天地創造の物語を聖書に加えてくださった目的を理解しないと、とんでもない迷路に陥ってしまうわけです。恐竜はいたのかどうか、いたのなら、天地創造の物語のどの部分に挿入されるべきか、さらにはカーボン年代測定がどうの進化論がどうのと、ややこしい迷路に陥ってしまうのです。


 はっきりしておかなければならないのは、聖書は、そこから自分が学びたいことを学ぶ本ではありません。著者である神が、人間に伝えたいと願って書かせ、人間に贈られた書物です。神が聖書を書かせられた意図、神の目的をしっかりと把握しておかなければなりません。読む人が何を勉強したいかではなく、書いた方が何を伝えたいかが問題なのです。


   ◎◎◎ 中略◎◎◎


 聖書を読むとき、私たちは、自分が何を知りたいかではなく、聖書の著者である神が、何を伝えようとしておられるかを大切にしたいものです。神様が聖書を与えてくださった目的は、人間に対する神の救いのご計画と、その計画の遂行、そしてその救いの適用を示すことでした。その中で、真の神とはどのようなお方かを教え、人間の本来の姿と生き方を示し、神と人との関係はどうあるべきかを語っています。それから、人間がなぜ救いを必要としているかを教え、神の救いを得るためにはどのようにしたら良いのかも示されています。その上に、人間の輝く未来が教えられて、大きな希望を持てるようにしてくださっています。


 もう少し整えて言うと、聖書は、人間が礼拝すべき正しい神とはどのような方かを示し、その神が準備してくださった救いについて教え、その救いを得るためにはどうすべきかを伝え、その救いを得た人間の生き方を説き、その救いがもたらす輝きに満ちた未来の約束を啓示するために、与えられたのです。聖書はそれらのことを教えるという、太い主旨に沿って書かれていて、それ以外のことは、たまたまそれに触れられたということであったり、主旨を伝え伝えるために用いられた話や出来事だったりしたに過ぎません。


    ◎◎◎中略◎◎◎


 
神が聖書を与えてくださった目的、理由というものを理解しないで聖書を読むと、この天地創造の物語の一字一句が間違いのない神の言葉だと主張して、6日間で天地の創造が行われた、しかもあのような順番で行われたと言い張ることになります。創世記の天地創造の物語は、必ずしも科学的事実ではありません。しかしそれは一字一句真実を告げるものなのです。真実と事実の区別が付かない人は、それを嘘というかもしれません。


この天地創造の物語は、一字一句誤りのない神の言葉です。しかし、それは現代の科学知識と一致するという意味ではないのです。そのようなことは神の「もくろみ」の中には入っていないのです。神がもくろまれたことは、長い間エジプトで奴隷生活を強いられ、自分の生活リズムというものを管理することができなかったイスラエル人たちが、きちっとした生活をするために、6日働いて7日目は休むという、人間の肉体と精神の健康のために、もっともふさわしいリズムを教えるためだったのです。

 
ですから、人々が単純な団体生活から複雑な社会生活へ移行してきたとき、安息日を守ることに困難が生じました。そのときイエス様は、神に休むことなどありえないとおっしゃり、ご自分もまた安息日にも働き続けるのだと主張して、安息日の掟をわざわざ意図的に幾度もお破りになっています。(ヨハネ5:17)人が安息日のためにあるのではなく、安息日が人のためにあるのであると、安息日の正しい解釈をお与えになるためです。モーセが安息日の律法を与えた後、14世紀ほども経ってからのことです。人間のより良い生活のために与えられた法律は、人間の生活環境が変われば変わるのが当然なのです。


 つまり、神が6日間働いて7日目にはお休みになったという創世記の記事は、一字一句神の誤りのない言葉でありながら、科学的事実ではないとおっしゃっているのです。あの聖書の箇所は、字義通りに解釈すべき性質のものではなく、神の目的に沿った、つまり本当の神は、あらゆる偶像、多神教の神々とは異なった万物の創造者であり、人間が礼拝するにふさわしい唯一の神であるという、事実を伝えるための表現方法として、あるいは、人間が、規律を持った生活をしなければならないという事実を、厳しく教えるための表現手段として、読み取らなければならないものなのです。現代人の多くが、多くのまじめなクリスチャンたちも含めて、一字一句誤りがないという言葉の意味を取り違えて、聖書を科学の教科書でもあるかのように、科学的事実と付き合わせるから迷路に迷い込んでしまうのです。


 端的に言うと、創世記に書かれているように、太陽は地球が造られた後に造られたと信じていても、神の救いを受けることができます。そのようには信じていなくても、同じように救われます。神がすべての動植物を、いま見ているとおりのものとして、直接お造りになったと信じていても救われますし、単細胞動物から人間まで進化を重ねさせたと信じていても救われます。あるいは、神の創造の過程に何らかの進化があったと信じている人も、心配はありません。救われるのです。神はそのようなことを問題にしておられないのです。


 繰り返しますが、聖書を通して神が人間にお伝えになりたかったことは、神は万物の創造者であり、人間が礼拝するにふさわしい唯一の方であること。人間は神に似せて造られたこと。人間は罪を犯したけれど、神の愛によって救いの道が準備されたこと。誰でも、神の愛に信頼しておすがりすれば、神の救いを得ることができること。その救いは永遠の輝く希望をもたらすことなどです。聖書は、神が救いを明らかに教えようとして、お与え下さった本です。


聖書は自然科学の本ではありません。百科事典でもありません。聖書の大きなテーマを知った上で、聖書を読むにふさわしい読み方をしたいものです。

    


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