ノアの小窓から

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神の国第3課Ⅲ神の国での成長(抜粋)

2017年04月05日 | 聖書



  本や・野の草が、近く発刊予定の本「神の国」の抜粋を掲載させていただいています。

  聖書における「神の国」とは、神の支配を受けるという意味です。神に似せて作られた人間が生まれつき持っている「善い性質」「聖い性質」に従っていくようになることです。
  キリストの教えは愛だと言われていますが、愛だけではとらえきれない広がりがあるというのです。
   キリストの教えの中心についてのこの解説にさとうは、目を開かれました。
  
   休み休みになっていますが、また、ご訪問下さい。本書は8課まであります。
   
   著者は日本アッセンブリ・オブ・ゴッド教団所属で、牧師、宣教師などの経験豊富で、草の根の伝道を続けて来られた佐々木正明師です。
 

  (これまでの記事は、記事に日付をさかのぼってお読みくださいますようお願い申し上げます)


Ⅲ. 神の国での成長

 神の国に入って間もなくの体験は、たいてい、突発的(とっぱつてき)で瞬間的(しゅんかんてき)な出来事が多いようです。賭(か)け事に狂っては酔いつぶれていた人間が、突然、手のひらを返すように、賭け事を止め酒を飲まなくなるなどというのは、はた目にも良くわかりますが、他にも、目立たなくても、ずいぶん似たようなケースがあります。それはじつに感動的で、神の力によるとしか言いようがありません。でも、賭け事はぱったり止まったが、短気はおさまらないなどということもあります。多情(たじょう)は失(う)せたが、陰口、悪口、うわさ話しが直らないという女性も少なくありません。神の国の体験は、瞬間的な体験であると同時に、継続的な体験です。悪魔の子であった人間が(ヨハネ8:44)、ある日、神の子としていただいたとしても、すぐさま、神の子らしい神の子になるのではありません。少しずつ、名実(めいじつ)ともに神の子と呼ばれるにふさわしくなるように、成長して行くのです。


Ⅲ.A. 人間の良い性質の回復

 人間は、もともと神の性質に似せて造られたのであり、美しく善い性質を持っていました。ところが、悪魔の誘惑(ゆうわく)に負けて神に従わないという罪を犯した時から、神の御許(みもと)から追放され、悪魔の支配の中に入れられてしまったのです。そのため、善い性質が抑圧(よくあつ)されてどんどん弱まり、ほとんど無力になってしまっただけでなく、たとえわずかに残った善い性質が力をふりしぼって活動しようとしても、悪魔の力によってねじ曲げられて、聖(きよ)い神の前には良いことではなくなってしまうのです(ヨハネ15:4-5)

 ところが、神の国に入って神との交わりを体験すると、神の聖(きよ)い力が人間の中に強烈な影響を及ぼします。まず、それまで自由に振舞(ふるま)っていた悪い性質が抑制され、抑圧されていた善い性質が解放されるのです。多くの場合、解放されてもすぐに力を発揮(はっき)するのではなく、ちょうどしびれていた足が、少しずつ感覚を取り戻し、指先を動かすごとに力を付けるように、人間の努力とあいまって、徐々に回復して来るのです。大切なことは、人間がすべてを神まかせにして、するべき努力をおこたっていては、解放された善い性質もその力を回復しないままに終わってしまうという事実です。ここでも、人間の意思が重んじられています。人間が努力をすると、神は神の力をもって、さらに助けてくださるのです。それは難業(なんぎょう)苦行(くぎょう)の努力ではなく、意思の証明、 意思の表現としての小さな努力です。それが、ひとつの勝利を得させ、次の勝利の励ましになるのです。



Ⅲ.B. 価値観の変化

  悪魔に支配されているこの世界に生きる人間は、悪魔的な価値観を持っています。何もかもが、みにくい悪だというのではありません。表面的には美しく、善良に見える人生観も、世界観も、大きなところで、基本的に歪(ゆが)められているということです。


  たとえば他人のため、社会のために尽(つ)くすのは良い事です。けれども、他人のため、社会のために善意で行われたことが、どれほど多くの人々を苦しめ、死に追いやってきたことでしょう。良心に従ってマルクス・レーニン主義に身を投(とう)じた人の数は膨大(ぼうだい)です。多くの人は善意によって動きました。ですが、この主義は億(おく)単位の人々を殺し、さらに多くの人々を不幸に追いやったのです。

  この点においては、キリスト教もきびしい裁(さば)きの対象になります。クリスチャンは、一般的に善意の人々です。ところが、キリスト教の2000年の歴史のほとんどは、まじめな信仰を持たない、つまり、神の国を体験していない支配者たちによって、治(おさ)められて来ました。彼らは金と権力のために欲望の限りを尽くして、本当の教会を破壊(はかい)し続けたのです。悪魔さえ気おくれがして、しり込みするようなことが、いくどもくり返されました。そのような中では、神の教えが記された聖書は、もっとも害のある危険な書物でした。ですから皮肉なことに、聖書は何世紀もの間、教会によって読むことが禁止され、狩(か)り集められては焼き尽くされていたのです。〈これを焚書(ふんしょ)と言います〉。

  人間は、自分の都合に合わせ、いろいろな哲学を考え出し、さまざまな思想を生み出し、多くの政治機構を作り上げました。キリストの名前や教えを用いて、悪事に精を出した人々も少なくありません。大航海時代から第二次世界大戦の後まで、世界中の人々はキリスト教国と言われる国々の、支配と搾取と殺戮に苦しめられました。ただいつの時代にも、神は本物の信仰を持った少数の人々、真実に神の国を体験した、わずかな人たちを置いてくださいました。その人たちが、社会の完全な腐敗をくい止める、地の塩の働き、完全な闇(やみ)を来たらせない、世の光りの働きをして来たのです。(マタイ5:13-16)


  時速300kmを越すレーシング・カーも、団地の奥さんたちの買い物の役に立たないではありません。ごみ収集車を飾り付け、新婚夫婦のハネムーンに使うことも、法律違反ではないと思いますが、それでは車がかわいそうです。それぞれの車には造られた目的があります。人間は神によって造られました。神の目的のために、目的に沿って、目的に合うように造られたのです。もしも人間が、造られた目的に沿わない生き方をしているならば、その人の人生が幸せであるはずがありません。しばらくの間は、順調で幸福そうに見えるかも知れませんが、かならずどこかに歪(ゆが)みができ、やがて破綻(はたん)をきたしてしまいます。

  人間は神の栄光のため、神の栄光を現すために造られたのです。それが聖書の教えです。しかし、神の国を知らない人に、そんなことが理解できるわけがありません。神との交わりの素晴らしさと、神の力を体験した人でも、長いあいだ自己本位な生活を送って来たあとで、すぐにこれを理解するのは無理な相談です。ところが神の国の中で成長を重ねるうちに、神の目的に合った生活をすること、人間が造られた目的に合った生き方をすることが、どんなにすばらしいかがわかって来ます。間違ってゴミ収集車にされていたレーシング・カーが、競技場に戻され、颯爽(さっそう)と本来の能力を発揮(はっき)するようなものです。

  自分の幸せのため、自分の安心のため、自分の家庭のためなどという、自分中心でわがままな初歩の信仰生活から、大人の信仰生活に育っていくのです。そのような生活においては、あれをしてはいけない、これをしてはならないという戒律(かいりつ)は、あまり意味を持たなくなってしまいます。神の命に生かされて、力いっぱい生きる喜びに満たされるからです。(Iコリント6:20、エペソ1:6、12)




※※※ まとめ ※※※  神の国に入ったらそれでおしまいと言うのではありません。神の国で、人間は信仰の成長を果たすのです。神の力によって解き放たれた人間の善(ぜん)を行う能力は、人間の意志と努力と、神の助けによって力を取りもどします。それだけではなく、成長のうちに理解が増し、人間に対する神の目的を悟(さと)り、その目的に合った生き方をする喜びを知るようになるのです。







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