今日も人生の一日なり

その時々の見たこと、聞いたことを綴ります

久恒啓一BLOG日誌より オルテガ・イ・ガセット

2016年10月19日 | 啓一を追いかける

 

オルテガ・イ・ガセット(『大衆の反逆』ちくま学芸文庫)という名著は、現代を考える上で洞察に満ちている。ここでいう貴族とは、選ばれた者としての責任と義務を強く意識した人であり、高貴なる人を意味している。勤勉と怠惰、革新と堕落、賢者と愚者、、。貴族と大衆、自分はどちらになるのか。

 

「大衆の反逆」是非読んでみたい。


名言との対話 新渡戸稲造

2016年10月17日 | 啓一を追いかける

「名言との対話」1015日。新渡戸稲造。

「井を掘りて今一尺で出る水を掘らずに出ぬといふ人ぞ憂き」

新渡戸 稲造(186291日(文久288日) - 1933年(昭和8年)1015日)は、日本の教育者・思想家。農業経済学・農学の研究も行っていた。国際連盟事務次長も務め、著書 Bushido: The Soul of Japan(『武士道』)は、流麗な英文で書かれ、長年読み続けられている。日本銀行券のD五千円券の肖像としても知られる。東京女子大学初代学長。東京女子経済専門学校(東京文化短期大学・現:新渡戸文化短期大学)初代校長。

今から百年前の1900年前後には、日本人による英文で書かれた名著が出現している。内村鑑三「代表的日本人」、新渡戸稲造「武士道」、岡倉天心「茶の本」である。これらの本はそれぞれその時代に大きな影響を与え、その後も日本についての紹介書として長く読まれ続けている。

日本初 の植民地経営だった台湾統治は成功だったと評価されているが、総督は児玉源太郎、 民政長官は後藤新平、殖産局長は新渡戸稲造という豪華版だった。1898年から1905年度にかけて、台湾の財政独立を実現した功績は大きい。

「終生の業は、その日その日の義務を完了するより外にない」

「事の成る成らぬは天に任し、自分はひとえにその日その日の務めを全うすれば足る」

新渡戸稲造の「武士道」では日本を説明するのに神道・仏教・儒教をあげ、神道からは忍耐心、仏教からは慈悲心、儒教からは道徳心を学んだとしていて、納得した覚えがある。

後数十センチ掘れば水が出るのに、また違うところを掘る。その連続で一生が終わってしまう人が多く、それではものにならない。苦しい時に、もう一段、集中して掘り切れと新渡戸は語る。新渡戸は修養の塊のような人物だった。


啓一ブログより 大仙厓展

2016年10月15日 | 啓一を追いかける

仙崖(1750-1837年)。 1750年美濃生まれ。臨済宗古月派。39歳、博多の聖徳寺(栄西が建立)の住職。56歳、湛元が弟子に。宝満山、彦山に登る。88歳、米寿、死去。2000点に及ぶ作品。 40代、習画期。布袋画賛。 62歳、隠棲してから本格的に絵を描く。「書画を通して禅を広める」。型破り、滑稽味。博多の仙崖さん。重責から解き放たれて各地に遊び、市井の人々と交わり、語録を執筆し、書画制作に本格的に取り組む。 73歳、「崖画無法」を宣言。自身の画には他の作品のように一定の法がない。自由度が増した。 「○△□」 この作品のコピーを購入すると、実際は□△○の順番に次第に墨を濃くしながら描いていることがわかる。

□が天台宗、△は真言宗、○が禅宗 神道、儒教、仏教(真言宗と禅宗。円満完璧な教えが禅宗。「即心是仏」の悟りの境地に対応)

□は地、△は火、○は識。 □は修行以前、△は修行中(自身)、○は修行の成就。

この作品の英訳を仙崖の弟子と自称した鈴木大拙は「ユニバース(宇宙)」とした。出光佐三「宇宙を表した作品」。

はゼロ・無限、△は閉じた形を示して一つ、□は△が二つ合わさったもので多数。宇宙そのもの。

□の現実的世界から○という絶対無へと時間をさかのぼる。 三聖画賛 神道、儒教、仏教は大同小異。同じことを説いている。 三徳聖図 三教を三段に分けて比較し、異同を詳述。図形を交えながらそれぞれの要点を簡略にまとめた。互いに関連づけられる。内容はほぼ同じと示した。 円相図 茶を好む者は茶を薦め、図を好むものは図を作る。これが親子の道であり、それを天性と呼ぶのだ。 あくび布袋図 年をとってしまったが、まだやり残した仕事を山ほどある。新しい一日が来た。もう一がんばり双画画賛(出光佐三最後の蒐集品) 鶴は千年、亀は万年。我れは天年。 自戒五か条 欲を出さず、慎み深く、身分の尊卑にとらわれず、位階などに左右されず、公の事は不必要に論ぜず、人の短所を云々して悪口なども語らず。 気に入らぬ風もあろうに柳かな よしあしの中を流れて清水哉 うらめしや 我が隠れ家は雪ちんか くる人事に 紙置いて行く 老人六歌仙画賛 、、、、、、、 聴たかる死にともなかる 淋しかる心か曲る欲深くなる くとくなる気短になる 愚痴になる 出志やはりたかる 世話やきたかる 心かひかむ欲深になる 又しても同じ噺に子を誉る 達者自まんに人はいやかる

 

堪忍柳

出光クレジット創設時、初代社長亀山さんが好きで社長室に掲示。(勿論、出光美術館が販売するレプリカ)社長交代による社長室リフォーム時、私が貰い現在は実家座敷に飾ってある

 


久恒啓一BLOGより「名言との対話」 奥村土牛

2016年10月03日 | 啓一を追いかける
•「芸術に完成はありえない。夢はどこまで大きく、未完成で終わるかである。」
◦1889年生まれ。16歳、梶田半古に入門。23歳、逓信省為替貯金局統計課に勤務。5年間。28歳、父より土牛の号をもらう。31歳、2年間小林古径の画室に住みこむ。34歳、関東大震災で自宅消失。38歳、院展に初入選。40歳、古径の媒酌により結婚。43歳、日本美術員同人。55歳、東京美術学校講師。59歳、武蔵野美大講師。60歳、女子美術大学教授。62歳、武蔵野美大教授。64歳、多摩美大教授。70歳、日本美術院理事。73歳文化勲章。89歳、日本美術院理事長。101歳、日本美術院名誉理事長、長野県に奥村土牛記念美術館。101歳で永眠。
◦父が土牛という名前をつけた。奥深い村で、牛が土を耕す風景。1889年生まれ、1990年没。101才の長寿。「石ころの多い荒地を根気よく耕し、やがては美田に変えるように、お前もたゆまず画業に精進しなさいとの意味がこめられていたのだと思う」
◦「今日私の座右の銘としている--絵のことは一時間でも忘れては駄目だ--という言葉は、その頃先生(小林古径)からいただいたものです。」
◦日本美術院の院展への初入選が38才。代表作の多くは還暦後という遅さである。85才で書いた自伝のタイトルは「牛の歩み」というから徹底して、名前そのものの人生を歩んだ人だ。大器晩成とはこの人のためにあるような言葉だ。永遠の未完成のまま生涯を終わる。大いなる未完成、それが理想ではないか。

S48年出光興産入社同期会の名が「牛歩会」
名付け親は時の人事部人事課長渡辺茂太郎さん。
初勤務地が東京であった事、テーブルの上で青い山脈を踊る等目立ちやと思われ初代同期会会長を押し付けられたが、名付け親をお願いに行ったかは覚えていない!