みよし福音キリスト教会です!

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父の日に…父の愛の話

2017-06-13 00:51:09 | 聖書の話
父の日はもうすぐという事で聖書の中に出て来る「父の愛」のお話をご紹介しましょう。実はこの話、かの芥川龍之介が短編小説の極みだと褒めちぎったとか。

この話は放蕩息子のたとえ話として有名です。新約聖書、ルカの福音書15章11節〜32節にあります。

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ある人に息子がふたりあった。
弟が父に、「お父さん。私に財産の分け前をください」と言った。それで父は、身代を2人に分けてやった。

それから、幾日もたたぬうちに、弟は何もかもまとめて遠い国に旅立った。そしてそこで放蕩して湯水のように財産をつかってしまった。

何もかも使い果たした後で、その国に大飢饉がおこり、彼は食べるにも困り始めた。
それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、誰ひとり彼に与えようとはしなかった。

しかし、我に返った時彼は、こう言った。「父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。

立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、また、あなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人の1人にしてください。」

こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。

息子は言った。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。」

ところが父親は、しもべたちに言った。「急いで一番良い着物を持ってきて、この子に着せなさい。それから手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」そして彼らは祝宴を始めた。



ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。

それで、しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、しもべは言った。「弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、お父さんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。

すると兄は父にこう言った。「ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え 、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友達と楽しめと言って、子山羊1匹くださったことがありません。

それなのに、遊女に溺れてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。」

父は彼に言った。「子よ、お前はいつも私といっしょにいる。私のものは全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが、見つかったのだから、楽しんで、喜ぶのは当然ではないか。」

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この話を読んだ時、こんな風に感じました。

豚の世話だって立派な仕事だよ。

私にも息子が二人おりますがこんな放蕩三昧して帰った息子、心配していたとはいえ、「このばかたれ!」ってゲンコツくらいはしますよ。

豚の世話…イスラエルの生活習慣、宗教の戒律を考えると話は違ってくるのです。ユダヤの律法に「豚は汚れたものである。食べてはならない」とあるように食べるはおろか飼うことなど考えられない事。弟はどん底に落ちてしまった状況だったんですね。

全て失って、孤独で、飢えて、やっと分かったのです。自分の歩んで来た道が、恵まれていたことが、父に愛されていたことを。

そうするとなんだか可哀想になってきました。このお父さんの愛は凄いなと思います。家からまだ離れたところにいる息子を認めて走り寄ったとあるのですから、きっとこうなることを見越していたのですね。きっと毎日息子が自分の元に帰るのを今か今かと待っていたのかもしれません。息子はどんな様子だったでしょう。ボロボロの服だったでしょうか、ガリガリに痩せていたでしょうか…。

息子も怒鳴られるのを覚悟し、拒否されるのも覚悟していたでしょう。でも走り寄って抱きしめキスしたお父さんにどれほど感謝したでしょうか。どれほどホッとしたでしょう。

実はこの話、私たちと神様を表した、たとえ話なんです。この話をイエス様がした背景はこうです。

イエス様の話を聞きに取税人、罪人たちがみもとに集まりました。
そこにはユダヤ教のパリサイ派や律法学者たちもいてこうつぶやいたのでした。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」彼らは罪人(律法に反している人)や当時忌み嫌われていた取税人を蔑んでいたのです。

そこで罪人や取税人(神様を信じずに自分勝手に生きている人々)を弟に、パリサイ派と律法学者を兄に、神様を慈愛に満ちた父親にたとえて話をしたのでした。

兄が最後怒るところは当然ともとれますが、兄は父と共にいて喜んで言いつけに従っていたとは思えませんね。どこか高慢で弟をさげすんでいたところもあるのではないでしょうか?

父親に喜んで仕えるわけでもなく、これだけやったんだから当たり前という高慢な気持ちで、改心した弟の様にへり下る気持ちは見受けられません。律法学者、パリサイ派の人達は律法に忠実であるけれどもふだん差別され、虐げられている人に対して心は冷たく神様の愛から離れているのです。

これは先にクリスチャンになった人々も律法学者の様にならない様にという戒めでもありますね。σ^_^;

パリサイ派や律法学者たちも私たちも人間です。でも生まれながらに罪があるんですよ。

神様を神様として認めず生き、悪い考え、不品行、盗み、殺人(殺意)、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、妬み、そしり、高ぶり、愚かさ、人間の心はこうしたもので汚れています。

しかし、神様から離れても、罪を犯していても、その都度何回も悔い改めて神様に立ち返るなら神様は無条件でうけいれてくださるということなのです。人が自分の罪を認めて神様のもとに立ち返ることを「救い」といいます。

神様は罪を悔い改めて神様に立ち返って来られるのを待っておられます。あなたが救われるのを心からまっておられるのです。

💕💕聖書の御言葉💕💕

「だが、おまえの弟は、死んでいたのが生き返ってきたのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」新約聖書ルカの福音書15章32節

「わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。ー神である主の御告げー彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。」
旧約聖書エゼキエル書18章23節

「わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。ー神である主の御告げーだから、悔い改めて、生きよ。」
旧約聖書エゼキエル書18章32節
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