環境ホルモン訴訟に関連して気になっていた一冊を購入しました。
環境リスク学 不安の海の羅針盤
中西準子著 日本評論社出版 2004年9月20日初版第一刷
ISBN4-535-58409-5
1800
一章 最終講義
苦労されてきたんだと改めて。
ところで環境ホルモン訴訟に関連して気になる点がありました。
中西さんの陳述書では過去の研究内容について
私は、下水道の分野で三つの大きな仕事をしました。
第1は、工場排水と家庭下水との共同処理の問題点を、調査結果と理論とを基に指摘し、家庭下水と工場排水は別に処理すべきであると主張しました。各地で下水道計画の変更が進み、下水道法第12条の大幅な改正となりました。この主張の基になった調査の方法自体が当時は非常に新しかったのです。
第2は、大規模な流域下水道に反対しました。基本的に使い捨ての思想でできていること、また、不経済である点を特に問題にしました。各地で、流域下水道計画の見直しや規模の縮小が進みました。
第3は、長野県駒ヶ根市での下水道計画の見直し過程で、個人下水道という概念を提案したことです。併せて、人口密度と選ぶべき下水道システムとの関係、その解き方を提出いたしました。個人下水道は、現在は行政的には戸別の「合併処理浄化槽」と呼ばれていますが、私が提案しました当時は、法的にも認められておりませんでしたが、その後、認められるようになり、多分、殆どすべての市町村で採用されていると思います。
第2と第3は関連するにしても、第1は明らかに別の研究課題に見えます。
それが松井陳述書では
(2)茨城県土木部技師時代(1972〜1975)
アメリカから帰国後、私は茨城県土木部の技師として、鹿島臨海工業地帯にある鹿島下水道事務所で勤務することになりました。鹿島の石油コンビナート(当時は約20社)からの工場排水を集中して処理する県営の新設の下水処理場(深芝処理場)の一部設計及び運転管理、技術教育等が主要な仕事でした。コンビナートからは極めて多種類の人工化学物質が排出されてきておりましたので、これを全て県営の下水処理場で処理することは不可能でした,そこで、私は、下水処理場での処理の基本である「活性汚泥微生物による分解作用」を用いた処理が可能かどうか(活性汚泥分解性)を処理場の受け入れ基準とし、各工場は責任をもって、分解し易いように前処理するなどしてこの基準を満たすようにするとともに、分解できない化学物質については排水しないこととする旨の行政指導基準を確立しました。いわゆる工場排水処理について生産者責任の原則を徹底した訳です。
この頃(確か1973年11月頃と思います)、被告がこの深芝処理場の立ち入り調査を求めてきたことがありました。被告は、工場排水には有害物質が含まれているので、それを公共下水道に入れるべきではないなどとして、流域下水道に強く反対し、個人下水道(合併処理浄化槽)を提唱していました。しかし、私は、流域下水道か個人下水道かという問題ではなく、工揚排水処理を生産者の責任できちんとさせるという生産者責任を法的に確立する必要があると考え、前述の行政指導基準を確立させていました。そこで、私は、被告の要求を受け入れ、全面公開に応じました。当初は、国・県の役人から懸念の声が出されていましたが、私は、同処理場の運転管理の技術責任者として、法律違反をしていない自信がありましたので、上層部を説得し、同僚や部下の了解を得て、全面公開に応じたのです。24時間にわたって毎時処理場の流入水や処理水から試料を採取し、同一試料を半分にして双方で分析を行いました。被告らのグループには活動場所としてテントを提供し、処理場内の分析室の使用も許諾しました。その結果、どの試料についても法律違反は認められませんでした。
とあり、中西さんが、「工場排水には有害物質が含まれているので、それを公共下水道に入れるべきではないなどとして、流域下水道に強く反対し、個人下水道(合併処理浄化槽)を提唱」していたことになっています。
一方の自分(松井)は「工揚排水処理を生産者の責任できちんとさせるという生産者責任を法的に確立する」ということで、どうも「中西とは違って」生産者責任追及という首尾一貫した態度を持って臨んできたと主張したいような感じです。
しかし中西陳述書とだいぶイメージがちがうなということで改めて環境リスク学中の中西さんの最終講義の内容と併せて見てみると
1967年 中西 東大工学部都市工学科助手になる
1969年頃 中西 浮間処理場問題 工場廃水を通常下水と共に処理することへの疑問
1971年3月 中西研学生へ大学院進学に関しての嫌がらせ
1971年7月 中西 浮間処理場に関する報告雑誌に掲載 新聞でも取り上げられ社会問題に
1972年 松井氏 茨城県土木部 鹿島下水道事務所で勤務(75年まで)
1973年 浮間処理場廃止
1973年11月 松井氏勤務の茨城県深芝処理場の立ち入り調査を中西が依頼
1980年頃 中西 流域下水道と個人下水道問題に取り組み(経済性の観点から)
といった時系列に整理できます。
この時系列どおりとすると、松井さんのやった行政指導基準の確立って、実は中西さんの研究成果とそれによる社会現象が先にありきで、実はそうした社会の流れに基づいて行ったものだった?ということになります。
仮に松井さんが「中西とは独自に考え付いた」のだとしても、時系列からして先人の仕事に敬意を表せずに、いかにも自分のオリジナルの仕事と見えるような書き方をするのは、研究者として褒められたものではないでしょう。
また、1973年当時の出来事について中西さんが1980年頃から取り組み始めた仕事と関連させて言及するのもある種の作為を感じます。
たまたま環境リスク学を読むのと、訴訟資料を読むのが同時だったので気づいたけど、こういった細かい所で「作為」が入っているのは、ここだけじゃないかもしれない、と普通に思わせるには充分ですね。
訴訟の場では、基本的に原告が先に手を見せて被告が反論するという、後出しじゃんけんですから、被告に反論されるのがオチで、こういったことの積み重ねがあるほど原告側の信用性が低下していくんじゃないかと。
それとも裁判官はどうせ科学的な事はわからないだろうから、と、水掛け論のようにして、どっちもどっち、を狙っているのか?
真意はわかりませんが、いずれにしても、タマタマ、と思うにはこういったことが多いような気がします。
環境リスク学 不安の海の羅針盤
中西準子著 日本評論社出版 2004年9月20日初版第一刷
ISBN4-535-58409-5
1800
一章 最終講義
苦労されてきたんだと改めて。
ところで環境ホルモン訴訟に関連して気になる点がありました。
中西さんの陳述書では過去の研究内容について
私は、下水道の分野で三つの大きな仕事をしました。
第1は、工場排水と家庭下水との共同処理の問題点を、調査結果と理論とを基に指摘し、家庭下水と工場排水は別に処理すべきであると主張しました。各地で下水道計画の変更が進み、下水道法第12条の大幅な改正となりました。この主張の基になった調査の方法自体が当時は非常に新しかったのです。
第2は、大規模な流域下水道に反対しました。基本的に使い捨ての思想でできていること、また、不経済である点を特に問題にしました。各地で、流域下水道計画の見直しや規模の縮小が進みました。
第3は、長野県駒ヶ根市での下水道計画の見直し過程で、個人下水道という概念を提案したことです。併せて、人口密度と選ぶべき下水道システムとの関係、その解き方を提出いたしました。個人下水道は、現在は行政的には戸別の「合併処理浄化槽」と呼ばれていますが、私が提案しました当時は、法的にも認められておりませんでしたが、その後、認められるようになり、多分、殆どすべての市町村で採用されていると思います。
第2と第3は関連するにしても、第1は明らかに別の研究課題に見えます。
それが松井陳述書では
(2)茨城県土木部技師時代(1972〜1975)
アメリカから帰国後、私は茨城県土木部の技師として、鹿島臨海工業地帯にある鹿島下水道事務所で勤務することになりました。鹿島の石油コンビナート(当時は約20社)からの工場排水を集中して処理する県営の新設の下水処理場(深芝処理場)の一部設計及び運転管理、技術教育等が主要な仕事でした。コンビナートからは極めて多種類の人工化学物質が排出されてきておりましたので、これを全て県営の下水処理場で処理することは不可能でした,そこで、私は、下水処理場での処理の基本である「活性汚泥微生物による分解作用」を用いた処理が可能かどうか(活性汚泥分解性)を処理場の受け入れ基準とし、各工場は責任をもって、分解し易いように前処理するなどしてこの基準を満たすようにするとともに、分解できない化学物質については排水しないこととする旨の行政指導基準を確立しました。いわゆる工場排水処理について生産者責任の原則を徹底した訳です。
この頃(確か1973年11月頃と思います)、被告がこの深芝処理場の立ち入り調査を求めてきたことがありました。被告は、工場排水には有害物質が含まれているので、それを公共下水道に入れるべきではないなどとして、流域下水道に強く反対し、個人下水道(合併処理浄化槽)を提唱していました。しかし、私は、流域下水道か個人下水道かという問題ではなく、工揚排水処理を生産者の責任できちんとさせるという生産者責任を法的に確立する必要があると考え、前述の行政指導基準を確立させていました。そこで、私は、被告の要求を受け入れ、全面公開に応じました。当初は、国・県の役人から懸念の声が出されていましたが、私は、同処理場の運転管理の技術責任者として、法律違反をしていない自信がありましたので、上層部を説得し、同僚や部下の了解を得て、全面公開に応じたのです。24時間にわたって毎時処理場の流入水や処理水から試料を採取し、同一試料を半分にして双方で分析を行いました。被告らのグループには活動場所としてテントを提供し、処理場内の分析室の使用も許諾しました。その結果、どの試料についても法律違反は認められませんでした。
とあり、中西さんが、「工場排水には有害物質が含まれているので、それを公共下水道に入れるべきではないなどとして、流域下水道に強く反対し、個人下水道(合併処理浄化槽)を提唱」していたことになっています。
一方の自分(松井)は「工揚排水処理を生産者の責任できちんとさせるという生産者責任を法的に確立する」ということで、どうも「中西とは違って」生産者責任追及という首尾一貫した態度を持って臨んできたと主張したいような感じです。
しかし中西陳述書とだいぶイメージがちがうなということで改めて環境リスク学中の中西さんの最終講義の内容と併せて見てみると
1967年 中西 東大工学部都市工学科助手になる
1969年頃 中西 浮間処理場問題 工場廃水を通常下水と共に処理することへの疑問
1971年3月 中西研学生へ大学院進学に関しての嫌がらせ
1971年7月 中西 浮間処理場に関する報告雑誌に掲載 新聞でも取り上げられ社会問題に
1972年 松井氏 茨城県土木部 鹿島下水道事務所で勤務(75年まで)
1973年 浮間処理場廃止
1973年11月 松井氏勤務の茨城県深芝処理場の立ち入り調査を中西が依頼
1980年頃 中西 流域下水道と個人下水道問題に取り組み(経済性の観点から)
といった時系列に整理できます。
この時系列どおりとすると、松井さんのやった行政指導基準の確立って、実は中西さんの研究成果とそれによる社会現象が先にありきで、実はそうした社会の流れに基づいて行ったものだった?ということになります。
仮に松井さんが「中西とは独自に考え付いた」のだとしても、時系列からして先人の仕事に敬意を表せずに、いかにも自分のオリジナルの仕事と見えるような書き方をするのは、研究者として褒められたものではないでしょう。
また、1973年当時の出来事について中西さんが1980年頃から取り組み始めた仕事と関連させて言及するのもある種の作為を感じます。
たまたま環境リスク学を読むのと、訴訟資料を読むのが同時だったので気づいたけど、こういった細かい所で「作為」が入っているのは、ここだけじゃないかもしれない、と普通に思わせるには充分ですね。
訴訟の場では、基本的に原告が先に手を見せて被告が反論するという、後出しじゃんけんですから、被告に反論されるのがオチで、こういったことの積み重ねがあるほど原告側の信用性が低下していくんじゃないかと。
それとも裁判官はどうせ科学的な事はわからないだろうから、と、水掛け論のようにして、どっちもどっち、を狙っているのか?
真意はわかりませんが、いずれにしても、タマタマ、と思うにはこういったことが多いような気がします。












色々考えると、あんまり攻撃的になるのは控えたいのですが、つい、こう言ってしまいたくなります。「研究内容を理解せずに批判しているのはどっちなのか?」と。
> 私がテキサス大学在学中に、ワトソンとクリックが書いたDNAの二重らせん構造に関する論文が全米で大きな関心を呼んでいました。
てなことも書かれてましたが、DNAの二重螺旋の発見は1950年代だしノーベル賞受賞は1962年、松井さんが証人尋問で応えた生年月日から考えると、受賞時でさえ松井さんが高校生か大学入学し立ての時なんですよね。
「全米で大きな関心を呼んで」って、松井さんがアメリカにいた当時は、日本でも色々と関心を呼んでたと思うけど、ある種のストーリーを作るためにあえてこういった書き方にしたのかも、などと勘繰ってしまったり。