スポーツや冒険を通じて、それをメタファーとしていろんなことに気づくことがある。特に私はアウトドアスポーツや海外旅行が好きなので、そこからいろんな「気づき」や「教訓」を得ることが多い。しかし昔はアウトドアから得られた教訓に納得していたのだが、どうも最近違和感を覚えるようになってきた。
例えば山登りにしても、大好きなシーカヤックにしても、大自然から得られる英知はたくさんある。しかし、そのどれもが「ゴール」の存在を前提としているのだ。山登りには、当然ながら山頂を目指すというゴールがある。またシーカヤックも、向こう岸に着くというゴールがある。そうしたゴールを前提としたものからは、今までリーダーシップや障害の克服の仕方など、たくさんの「気づき」を得てきた。これらの教訓は、仕事でプロジェクトを動かすときや、部下指導に大きく役立ってきた。
しかし人生はについてはどうだろう?人生は仕事と違って、納期や決められた目的なんかない。自己啓発本には、ゴールをハッキリと決めて力を集中させれば目標は達成しやすい、なんて書いてある。だからみんな自分のゴールを見つけようとキリキリしている。でもそんな簡単に自分のゴールなど見つけられるものだろうか。どの自己啓発本も「ゴールを決めよ」と脅迫し、目的のない生き方をしては充実した人生が生きられないように宣伝するので、就職を控えた大学生などセンシティブな人は「私には人生の目的がない」などと言って落ち込み、ひどい時には鬱になったりする。最近、こうした目的や目標ありきの思想に疑問を持ち始めているのだ。
順番が違うのではないか?もしくは、手順を飛ばしているのではないか。人生の目的や目標を性急に作ることは難しいだろう。にわか作りの目的などは、どこかの自己啓発本から借りてきた信条や、誰かカリスマの生き方から拝借してきた仮の目的でしかないだろう。それでは、本当に自分にシックリ来る目的を得られないのではないだろうか。
また目的がない生き方はダメなのだろうか。人生の目的などという大仰なものがなくても、気持ちのいい状態が恒常的に継続すればそれで良い、特別に何かを達成しなければならないという拘束はない、という考え方はダメなのだろうか。
漂泊?それが近いかも知れない。漂泊というスタイルは、日本でも過去に存在した。西行、一遍、芭蕉。みな旅の中で創作して行き、旅を生きがいとした。旅には目的がない。旅をするというプロセス自体を楽しむことが目的化している。旅をする。新しい刺激を受ける。自分という器がそれに感応して、何かを反射する。その反射を繰り返すうちに、ひとつの型が出来る。その型は自分にとってなじんでいて、好きな反射だ。それが思想だとか、哲学だとか、スタイルだとかいうものであろう。
スタイルはゴール(目的)を必要としない。ゴールなんてなくても、スタイルは生きて空気を吸っている間中成立するものだ。目的を決めずにプロセスを楽しむ、結果を重視せずむしろスタイルを大切にする、そんなものは他にないだろうかと思いをめぐらしたところ、あった。私にとって「旅」がこれに該当する。
私はどちらかというと一人旅が好きだが、長期の休みが取れた場合、よく海外旅行に出かける。その際は、あまり詳しい計画は立てないようにしている。インドに行ってタージマハールを見ることが目的ではなくて、現地に降り立ち、情報を調べて、自分で考え、騙されたりボッタクられたり予想外の人情に触れたり、試行錯誤や色んな経験をすることが楽しいのだ。極論すれば旅の行く先はどこでも良くて、そこに至るプロセスや経験がより重要なのだ。
人生に引き戻して考えると、人生の目的など何でもよくて、日々生きている上で得られる経験こそが重要。メシ食ってクソして空気を吸って、そのプロセスが楽しければ上々の人生だ。ただし生きて行く上でスタイルや流儀といったことは大切で、美しく生きて行くためには一定のルールを自分に課さなければならない。腹八分目とか、体を鍛えるとか、友達は裏切らないとか、そんなの。
こうして考えると、曽野綾子さんが書いていたキリスト者の信仰生活に似ている。キリストの言葉はシンプルだが、それを本気で実行することは大変困難である。「汝の隣人を愛せよ」といわれたら、天なる神に対して嘘偽り無く隣人を愛さなければならない。この人は美人だから愛するけど、この人は腹が出ていてハゲだから愛さない、という生き方はキリスト者には出来ない。キリスト者は魂の救済を神と契約して、その契約に基づく責務として戒律を守る。アジアの宗教のような現世利益的な色彩が少ない。反論や例外はいくらでもあるだろうが、まぁそう感じるのだ。
翻って、私のスタイルはどうだろう。スタイル、ルール、掟、なんでもいいのだが、それは私が美しく生きるためには必要なものだ。ルールなのだから、今日は疲れてるから破ろうとか、上司に言われたから破ろうとかいうのは気持ち悪い。スタイルやルールは勝手に決めたものだから、私が生まれる前から存在している世間様とは衝突するかも知れん。けれどスタイルを守ることによって短期的には損するだろうが、長期的に見れば自分で納得できる美しい生き方ができるのだから、それはお得なのだ。キリスト者もこんな気持ちなのだろうか。
話を元に戻して人生の目的について。「目的を持て」という生き方は、支配者にとって都合のいい思想だ。だってその方が人間は精進するだろうし、生産性が高まるでしょ?スポーツ選手やエリートビジネスマンなど、短期的に爆発的な成果を上げなければならない人にとって、目的は大切なのかもしれない。そして、そんな人たちを束ねる支配者にとっても。けれど、それを個人の人生にまで当てはめるのは困難だ。無理にそれらしい目的を作っても、違和感があるし、今は「本当の目的だ」と思っていても長い間に変わってしまうだろう。だから個人が長い人生を生きて行くには、「目的」ではなくて「プロセス」が大切なのではないか。プロセスが充実していれば、人生を楽しんでいれば、後から振り返ってみたとき、きっといい人生になっているだろう。
そしてユルユルダラダラの人生にならないように、美しく生きるためにスタイルやルールが必要。スタイルは自分で見つけること。反復してみて、違和感がない、気持ちがいいものがきっと自分のスタイルだ。スタイルのある大人は、とても魅力的だ。自分のスタイルを作り上げることは大変難しいけれど、それが成熟するということだし、スタイルを作り上げることはカッコイイし、カッコイイ大人を見てもっと若い世代は自分もスタイルを作ろうと思うのだから、自分ひとりの問題じゃないと覚悟して、世の大人達はぜひスタイル作りに精進して欲しい。
例えば山登りにしても、大好きなシーカヤックにしても、大自然から得られる英知はたくさんある。しかし、そのどれもが「ゴール」の存在を前提としているのだ。山登りには、当然ながら山頂を目指すというゴールがある。またシーカヤックも、向こう岸に着くというゴールがある。そうしたゴールを前提としたものからは、今までリーダーシップや障害の克服の仕方など、たくさんの「気づき」を得てきた。これらの教訓は、仕事でプロジェクトを動かすときや、部下指導に大きく役立ってきた。
しかし人生はについてはどうだろう?人生は仕事と違って、納期や決められた目的なんかない。自己啓発本には、ゴールをハッキリと決めて力を集中させれば目標は達成しやすい、なんて書いてある。だからみんな自分のゴールを見つけようとキリキリしている。でもそんな簡単に自分のゴールなど見つけられるものだろうか。どの自己啓発本も「ゴールを決めよ」と脅迫し、目的のない生き方をしては充実した人生が生きられないように宣伝するので、就職を控えた大学生などセンシティブな人は「私には人生の目的がない」などと言って落ち込み、ひどい時には鬱になったりする。最近、こうした目的や目標ありきの思想に疑問を持ち始めているのだ。
順番が違うのではないか?もしくは、手順を飛ばしているのではないか。人生の目的や目標を性急に作ることは難しいだろう。にわか作りの目的などは、どこかの自己啓発本から借りてきた信条や、誰かカリスマの生き方から拝借してきた仮の目的でしかないだろう。それでは、本当に自分にシックリ来る目的を得られないのではないだろうか。
また目的がない生き方はダメなのだろうか。人生の目的などという大仰なものがなくても、気持ちのいい状態が恒常的に継続すればそれで良い、特別に何かを達成しなければならないという拘束はない、という考え方はダメなのだろうか。
漂泊?それが近いかも知れない。漂泊というスタイルは、日本でも過去に存在した。西行、一遍、芭蕉。みな旅の中で創作して行き、旅を生きがいとした。旅には目的がない。旅をするというプロセス自体を楽しむことが目的化している。旅をする。新しい刺激を受ける。自分という器がそれに感応して、何かを反射する。その反射を繰り返すうちに、ひとつの型が出来る。その型は自分にとってなじんでいて、好きな反射だ。それが思想だとか、哲学だとか、スタイルだとかいうものであろう。
スタイルはゴール(目的)を必要としない。ゴールなんてなくても、スタイルは生きて空気を吸っている間中成立するものだ。目的を決めずにプロセスを楽しむ、結果を重視せずむしろスタイルを大切にする、そんなものは他にないだろうかと思いをめぐらしたところ、あった。私にとって「旅」がこれに該当する。
私はどちらかというと一人旅が好きだが、長期の休みが取れた場合、よく海外旅行に出かける。その際は、あまり詳しい計画は立てないようにしている。インドに行ってタージマハールを見ることが目的ではなくて、現地に降り立ち、情報を調べて、自分で考え、騙されたりボッタクられたり予想外の人情に触れたり、試行錯誤や色んな経験をすることが楽しいのだ。極論すれば旅の行く先はどこでも良くて、そこに至るプロセスや経験がより重要なのだ。
人生に引き戻して考えると、人生の目的など何でもよくて、日々生きている上で得られる経験こそが重要。メシ食ってクソして空気を吸って、そのプロセスが楽しければ上々の人生だ。ただし生きて行く上でスタイルや流儀といったことは大切で、美しく生きて行くためには一定のルールを自分に課さなければならない。腹八分目とか、体を鍛えるとか、友達は裏切らないとか、そんなの。
こうして考えると、曽野綾子さんが書いていたキリスト者の信仰生活に似ている。キリストの言葉はシンプルだが、それを本気で実行することは大変困難である。「汝の隣人を愛せよ」といわれたら、天なる神に対して嘘偽り無く隣人を愛さなければならない。この人は美人だから愛するけど、この人は腹が出ていてハゲだから愛さない、という生き方はキリスト者には出来ない。キリスト者は魂の救済を神と契約して、その契約に基づく責務として戒律を守る。アジアの宗教のような現世利益的な色彩が少ない。反論や例外はいくらでもあるだろうが、まぁそう感じるのだ。
翻って、私のスタイルはどうだろう。スタイル、ルール、掟、なんでもいいのだが、それは私が美しく生きるためには必要なものだ。ルールなのだから、今日は疲れてるから破ろうとか、上司に言われたから破ろうとかいうのは気持ち悪い。スタイルやルールは勝手に決めたものだから、私が生まれる前から存在している世間様とは衝突するかも知れん。けれどスタイルを守ることによって短期的には損するだろうが、長期的に見れば自分で納得できる美しい生き方ができるのだから、それはお得なのだ。キリスト者もこんな気持ちなのだろうか。
話を元に戻して人生の目的について。「目的を持て」という生き方は、支配者にとって都合のいい思想だ。だってその方が人間は精進するだろうし、生産性が高まるでしょ?スポーツ選手やエリートビジネスマンなど、短期的に爆発的な成果を上げなければならない人にとって、目的は大切なのかもしれない。そして、そんな人たちを束ねる支配者にとっても。けれど、それを個人の人生にまで当てはめるのは困難だ。無理にそれらしい目的を作っても、違和感があるし、今は「本当の目的だ」と思っていても長い間に変わってしまうだろう。だから個人が長い人生を生きて行くには、「目的」ではなくて「プロセス」が大切なのではないか。プロセスが充実していれば、人生を楽しんでいれば、後から振り返ってみたとき、きっといい人生になっているだろう。
そしてユルユルダラダラの人生にならないように、美しく生きるためにスタイルやルールが必要。スタイルは自分で見つけること。反復してみて、違和感がない、気持ちがいいものがきっと自分のスタイルだ。スタイルのある大人は、とても魅力的だ。自分のスタイルを作り上げることは大変難しいけれど、それが成熟するということだし、スタイルを作り上げることはカッコイイし、カッコイイ大人を見てもっと若い世代は自分もスタイルを作ろうと思うのだから、自分ひとりの問題じゃないと覚悟して、世の大人達はぜひスタイル作りに精進して欲しい。