老いぼれよれよれ道中記

ひまなじっさまが、余生のあるうちはと、内外のおもしろげな街や村をほっつきあるく旅日記

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インド譚11・駐屯悠々

2013年05月08日 | Weblog
ヨルダンを視察後、エジプトに陸路国境を抜き侵入。シナイ半島を南下して紅海の潜水保養基地<ダハブ>の海中にて、美麗にして群れ成す熱帯魚軍団の観閲をおわり、アフリカの帝都<カイロ>に進攻して早や1週間余。

この日本軍<宿営地>として名高き安宿<サファリー・ホテル>には我が友軍の姿あれど共闘する青年士官なし。

しからばと、老兵孤軍奮闘にて連日、市街戦に討って出れば、既に<ギザの3大ピラミット>やその膨大な墓場遺産を展示する考古学博物館、さらには<十字軍>をも撃退した巨大な城郭都市である世界遺産<シタデル>など、主要な観光基地はほぼ制圧。

昨日は、正面ゲートを守衛する監視員を屈服し、アフリカ大陸学問の盟主<カイロ大学>の構内に潜入を果たし、見事<日本語学科>の学棟に達すれば、光栄にもエジプト人<学部長>に表敬を果たしたり。

これ、実に最初に遭遇せし<助手嬢>が、先年<早稲田大学>に留学せしおりの帝国日本臣民から受けし恩義に対し、余にその一端を返したると推察するにはばからず。

加えて、広辞苑など数多の辞書や日本語関係の<全集>を書架に並べる<日本語図書室>では、うれしくも<日本語科講師>の日本人<小川>先生に謁見を果たし、氏より<カイロにて危機に陥りしときは、ここに電話されたし>と余の手帳に自己の電話番号を記載のご好意まで頂きしは、もって幸運というほかはなし。

なを、ここカイロに駐屯しつつ、余が想像を越えしは、あまたの古代遺産や史跡類の規模や数にあらずして、実に実に、アラブの民の<友好><親近><善意><笑顔>・・・など、この杖を引き摺りよろつき歩く日本老人に対しての際立つ<親切>でありしことに尽きず。

日本列島にて、経験するにするに例すくなきことを記載いたせば・・

ただ行き先の地名や写真を振り回し、<ここに行きたし>と陳情いたす余に

ある青年は、自身が向う方角と逆になる地下鉄駅入り口まで誘導のうえ、別れには
<ぼくは日本が好きだ>からと、考古学博物館の栞まで余の手に。

ある駅員は、改札を同僚にたのみ、<こちらにカム>と、ホームまで誘導し、乗るべき列車を待ち、来たれば、乗客に<この老人を、どこどこの駅でおろしてやれ>との言葉かけ。

その乗客、途中で下車するに際しては、車内にいる乗客に<お前さん、この先に行くならこの老人を・・>との親切リレー

地下鉄の出口なども当然迷うが、聞けばかならずの如く、最も適切な通路に誘導。その多くは雑踏で離れぬよう余の腕を抱え込み・・・

単独行動であれば<割高なタクシーは乗らぬ作戦>のこの老兵が、向うべき地下鉄や市バス乗り場を探す困難さは大東京駅や地下鉄出口など世界の大都会ならいずれも同じこと。

されど、同じでなきことは、ここカイロに限りて、かならず<援軍>の手がさし伸べられること。
指にて<あちらだ>と指し示すだけにあらずして、そのバス停まで案内。

所定のバスが来るまで待つか、さもなくば傍に立つ乗客に<この爺さんをどこどこ行きのバスが来たら乗せてやれ>の伝言までの行為。

その乗客、それが自身が乗るバスでなければ、大声で運転手に<いま乗る爺さんをどこどこで下ろしてやれ>とまたの伝言。

また駅を巡回しつつある青年警官は、なんとホームまで誘導しただけでなく、来たる車両に同乗して次の乗換駅まで。

そこの駅構内を案内しつつ別のホームに出れば、暫し共に待ったうえ次の車両に乗せ、それが職務であるごとく他の乗客に<この爺さんをどこどこの駅でおろしてやれ>と指示しそこで本来の勤務する駅に引き返して行く極めつけのご親切。

我が国の警官なら、勤務場所を離れてと、上司から<譴責>される行為とも思慮いたすところ。

乗り物にかかわる善意だけでなし。屋台の軽食に<値段に躊躇し離れようとすれば>余を呼び止め、なんとこの程度のモノは進呈しましょうと、そのパック皿のひとつを我が手に・・

ノーノーと、遠慮をすれば、腕を伸ばし天上を指差し<アラ-の神の思しめしだ>とニッコリ顔でおしつけてくるがごときの態度。

この数日。この類の話を語れば枚挙にいとまなし。

余が<老兵孤軍、未知の敵地にて勇猛果敢に前線の偵察行動を>の気負いも、善良なカイロ市民からみれば、おろおろしている単なる異国の爺ぃ。

その爺を<♪ これを見捨てておかれよか>とかくまで善意で包囲してくれるアラブの民。

この齢にして始めてアフリカ大陸の地を踏み、最大に心に残りしは、ピラミットの高さではなく、やはりそうしたアラブの民の親切さと思わざるをえず。

但し、いまだ省察するに余地が多いと思慮しつつ、その親切の根源を少し語れば・・

ムスリムの人々が<かっての勇猛果敢な遊牧民族>や近時の<原理主義からきたるテロ活動>さらには<アルカイダの勢力>から多くの日本人にイメージされている<血も涙もなき>獰猛な民族ではないのではないか。

むしろ、逆に<旅人に親切にせよ>とも教えを含むコーランを日々唱えリ、メッカの方位に跪く真摯な人々であることは、すでに、パキスタンを始め、イスラム圏の国々の旅で余に限りて多少は理解したきたところ。

その宗教心の深さは、ここカイロで乗り慣れてきた地下鉄の構内通路にてよく見かける光景なれど、そのひと隅にゴザを敷いた<お祈りのコーナー>では、たとえ通勤通学途上でもメッカの方位に頭を垂れる男たちのあまたの姿からも推察できるところ。

但し、さらに心に宿りしこと。旅人に親切が教えにもとずくにしても、余が老人にしてさらに日本人であることが、どうも最大の理由であるような感じが拭えず。

街中で<よろつき白人旅人>がおりしとき、余にたいするるがごとき彼らの親切行為を期待することはむつかしいように思い、またそうした光景を散見したことなし。

ここで、歴史を引けば、古くは<十字軍>近世では<欧米による植民地>さらには<中東戦争>など、ムスリムの民が、白人に好意を持たざるは当然とする経緯あり。逆に、わが日本は一度として彼らに<刃や銃口>を向けたことなし。

これは、まちがいなく国際社会において、日本の誇るべき外交遺産のはず。<日本人はいい仲間だ>と信ずるイスラムの民を裏切ることは、避けるべし。

懸念すべきは、現下の政府が<アメリカの尻馬>に乗る如く外交を展開し、時によれば自衛隊をキリスト勢力の<盾>ともして使う姿勢のあること。それだけは避けるべし。

イスラム勢力に加担せよというわけでなく、幸い現下においても彼らから好感を持たれている我が国が、中立の立場をいかして国際平和に貢献することが使命ではないのか・・・

すこし、ガラにもない硬い論議になったが、<ひとり異国のふらつき散策>で、よきアラブの民にふれる機会多く、これだけは<書いておきたい>ということで少し冗長になったことはお詫びです。

なを、この後の予定ですが・・・・

5月23日の飛行機で、カイロを発ち、途中アブダビで乗り継ぎ、24日、成田空港に。
25日、東京品川で開催の、わしも粗稿を寄せたある<旅本>の出版記念パーテェーに顔を出し、その日の夜行バスにて名古屋に。

それにしても、カイロの散策はほぼ終了。あと一週間余の暇があれば、荷物は宿に預け地中海方面および、さらに気合が入ればスエズ運河まで足を伸ばした小リュックを担いだ小旅行を検討中。

やるとすれば、明日、出発。何分、なんの知識もなき地域への独り旅であれば、これから、宿に置かれた地球の歩き方や情報ノートで付け刃ながら勉強する必要があれば、今回のカイロ日記はここまでとさせて頂きます。

      5月13日    カイロのサファリーホテルにて                         老兵敬助 敬白



カイロ大学です。この校門で光輝く菊の御紋章入りのパスポートを振りかざし<怪しきものにあらず。日本国外務大臣が保証する由緒ただしき日本老人である。暫し、構内視察を許されたし>に<紹介文書なければノウだ>と相手は拒否。双方、カタコトの英語です。

<はるばる大日本帝国から来たのだ>と押し問答が続けど、引き下がらぬわしに根をあげた守衛は、この爺を説得するには<日本語でなければならぬ>と、構内の外国語棟に同行。

で,おりよく顔を合わせた写真の娘さんが、前述の<早稲田大学に留学>されていた助手の方で、わしの日本語を理解して、それなら私が協力しますと、すぐにパスポートのコピーを取り奔走のうえ見学の許可や、学部長に面談の尽力を。ほんと、感謝でしたなぁ。

それにしても、写真背後の書棚がええでしょ。日本では過疎村の村立図書館分館程度の規模ながら、遠くアフリカ大陸の一隅で<広辞苑>や日本語の学術書がこうしてズラリと並べなれておると・・勉強ぎらいだったわしもなぜかうれしい気分になったのであります。
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インド譚8・印度鉄道

2013年04月15日 | Weblog

< おとどめくださるな、妙心殿。 落ちぶれ果てても平手は武士だ!。行かねばならぬ、行かねばならぬのだ~>

修羅場に駆け出す、平手深酒の心境ほどではないが、わしも、明日早朝、インドの首都<ニューデリー>に向け出撃することになりましたんで、その経緯をなも。

実は、今次の作戦期間は、いまだ50日ほどの余裕日数と手持ちの生活習慣病にかかわる常備薬があればかねて念願の<インド最北部はヒマラヤ山岳地帯の遊激戦>を、我がマイミクにしてこの前線の歴戦の戦士たる<のんぞむ氏>の支援を得て、共に駒を進める計画をなしたところ、これが、急遽、<不戦敗>の事態に。

戦運、われに利あらず。なんと、最終ツメの段階にきて高所山岳地帯であれば<飛行機券購入条件>に<2歳~70歳>の範囲に限るがありしことが判明。わがグルに<年齢を10歳下げ67歳で>再度の手続きをと上申すれど<パスポート・チェックでNOだ>さらに、<お前は、オールドだ。無理をすれば、こうなる>と自身の心臓に手をおきゼイゼイのゼスチャーをしつつ、永眠するところまでを演技し、余に断念するように宣告。

やむなしと思えど、この難関を乗り越えるためには、日本語可の援軍を必要不可欠とするも、このチャンデガルという街はデカイ州都なれど、観光名所なきが故、まるで旅行者を見ず、わし自身、この半月余、まるで日本人みかけず、日本語聞かず、日本語話さず。

故にここにては、もはや打つ手なし。しかれば、

♪ 勝ってくるぞと勇ましく 誓って国を 出たかりゃにゃ~

にしては、いかに老兵とて、このままこのアシュラムでさほどの戦果を上げぬまま朽ち果て草むす屍となるは口惜しければ、<わが友軍の駐屯が期待できる>デリーに数日間出向き、解決の糸口を掴みたし。

というこって、デリーの町に出撃すべく、とりあえず昨日、市バス<5ルピー=約10円>に乗って、繁華街にある<インド鉄道・チャンデガル・キップ・オフェイス>にひとり出かけ、なんとか切符をゲットして来ましで、次にそのコトをね。

ところで、インド国有鉄道。駅も車両もそれなりに汚いけで、その切符売り場というか窓口事務所はそれなりによう出来ておってなも。おっきな都市では、駅に行かんかて街中の専用オフェスでことたりるんでおます。

いうたら東京なら銀座、大阪やったら御堂筋てなもんですわ。さらにでっせデリーやコルカタなどの主要駅には、パスポート持参の外人専用の予約オフェスまであってからに、そこはエアコンがついたりソファーまであるさかい現地人からみればVIP待遇でおますなぁ。

日本も国際化の時代というとるけど、そないサービスあるんでっか。いうたらナンやけど、韓国ソウルの競馬場には外人専用の豪華な観覧席があってチョゴリの姐ちゃんが案内しおって、お好みの飲み物までタダコで運んでくるサービスぶりやで。わし、体験したけどよう。

まっ、そうはいうけど、いかに親切でも、外人やいうて事前に当たり券を教えよるとか、払い戻し金に上積みしてくれはるわけはおまへんが、結構、VIPなひと時をたのしめますよってあんさんもどないでっかなぁ。外国にいきよってオナゴの尻を追うのもええけど、たまには馬の尻を追っかけのもオツなもんでっせ。

話が、コースちゅうかレールから外れおったけどインド鉄道に戻すと、なんと長距離や寝台車がたしか<70歳以上>と思うけどマジ、30パーセント引きになりおるんですわ。パスポート出して自分でそのことを主張する必要はあるけどよう。

じゃで、日本からパック・ツアーで来る爺さんや婆さんはその差額を、エージェントにねこばばされとる?・・・へい。下種の勘ぐりで申し訳けござんせん。

というこって今回わしが、ひとりでヤミクモに購入した切符のあらましを以下にね。

4月11日朝7;33チャンデガル発→デリー12;00着

距離 266キロ
<走行に見合った正確な運賃です・・の表示ですかなぁ>

料金 90ルピー<約180円>
遊園地のオサルの電車やおまへんで。4時間半260キロ余乗車してからに、この値段。それも指定席でっせ。
日本の鉄道にはあほらしゅうて付き合っておられまへんわ。名古屋のマンインコ・渋滞しょっちゅうの市バスかて200円ですよって。

あと、本人を特定するためか、男性の<M>とわしの年齢<77>が刻印ね。だで、自分の年齢隠したがり屋の日本のおばはんは、インド鉄道はやめたほうがええでっせ。

という次第にて、乗車結果のレポートや写真は後日になりますよって、ここでは参考までに、先にコルカタ玄関口のハウラー駅から延べ3日かけてチャンデガルまでえんえんと揺られ続けた鉄道風景をチョイとばかり紹介させていただきます。




世界混沌NO・1<ハウラー駅のホーム>です。わしの荷物運びを兼ね駅まで見送りに来てくれた好青年<千葉のてっチャン>が撮影。彼とはこの日、チンチン電車に乗ってコルカタ郊外の散策にネ。




貨物駅じゃあないのにこの光景。東京駅とえろう違いますなあ。右の帽子を被ったインド人ではないりっぱな青年が、てっチャンです。
てっチャン、コルカタではほんとにお世話になりました。


この列車、日本人はおろかそれらしい白人旅行者もまるで見かけず。気の毒に思ってか、この現地青年たちが異国の爺いの相手にね。

右。お眼メをこらして、このべッドしたのわしのカバンを観察してほしい。三角形のとめ具に鎖鍵でしっかりネ。切断されて持ちだされればそれまでやけどよう。インド鉄道の盗難予防装置であります。

<photo src="v2:1919405290"> <photo src="v2:1919405289">

なげぇ乗車時間やけど、印度鉄道はいろんな芸人というか、乞食というか、時によれば楽器を演奏しつつ歌手まで車内を行ったり来たりするで、それなりに退屈しないもんですわ。で、この角兵衛獅子的かわいい姉妹は姉さんの太鼓にあわせ、幼い妹が通路をクルクル逆立ちしながらの演技披露でございました。

わし、周辺の乗客を代表して<10ルピー=約20円>の見物料金を払い、そのお駄賃としてこのタレント姉妹と記念撮影をネ。周辺の乗客がシャッターを押してくださいました。

なを、ついでながら、こうした夜行列車の掃除は乞食の子供たちが随時、乗車してきて床をはいずる様にしてほんと真面目にね。インド鉄道当局のやさしさ。彼らに無料で職場提供しておるんですなぁ。まっ、人件費もいらんしよう。

へい。わしは感心しながら、少年たちに1ルピー=2円ほどを見学料を含め御礼になも。随時、わしがヤルもんで周辺の乗客にはなんかこの日本爺いがおカネ持ちに見えた?・・・そんなことはおまへん。

<photo src="v2:1919405285"> <photo src="v2:1919405283">

乗っていた列車の外と内。いうならエアコンなし、夜具や枕・シーツもなしの3等寝台でおます。3日間のご乗車で800円程度ですので贅沢はいわしまへん。それに、わしは最高値の下段ベットでおましたよって。

<photo src="v2:1919405280"> <photo src="v2:1919396445">

下車時に世話になった好青年と通路風景です。右写真は沿線風景ですが牛がいたり窓からポイポイ捨てるゴミの散らかり具合が、インドの味をよくかもし出しているのでございます。

<photo src="v2:1919396444"> <photo src="v2:1919396436">

出発駅のコルカタはその際限なしの混乱と混沌で名をはすハウラー駅ですが、現地の方々はどこでも座る、列車は文字どうり貨客車両と呼ぶべきですのでどこでも荷物が山積みなる・・てなことで、プラットホームもまた混乱と混沌の舞台でございます。

うそやねぇ。犬だけならまだしも、この駅のホームには野良牛までノコノコ入って来ておったでよう。正直、たまげますわ。人命には影響がにゃあでええけどなも。

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<photo src="v2:1919396425"> <photo src="v2:1919405304">

すいまへん。本日は時間切れでこれでとりあえずアップさせていただきます。ニューデリーに入ったらまた続きをなも。尻切れトンボの敬助拝。とりあえずアシュラム最後の夜。:

2013年04月10日
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インド譚9・中東進攻

2013年04月15日 | Weblog
 
突然ですが来る4月20日、中東はヨルダンに向うことになりました。

<やむにやまれぬ 大和魂>により、一挙に戦線を拡大しようとした
帝国陸海軍の気負いではなく、今回は

♪ 人生てぇ~ 不思議な~ ものですねぇ~

へい。ひばりサンが唄う<川の流れのように>
ごくごく自然体というか、文字通り<行雲流水>による草枕でありますれば、その経緯の御報告でございます。

居心地よき北インドのヒインズー教アシュラムにて、のんびりこんと朽ち果てるのも、いかがなものか。老体であれば、少しは異国をわっせわっせと動かんことには、足腰さらに弱まるは必定。

加えて、海外を渡り歩くため、畏れ多くも菊の御紋章まで付けたパスポートをこの市井の名もなき一老人に交付して頂きし日本国外務大臣になんぞ顔向けができようぞ。

ということで、かねて膠着状態にありし<インド奥地ラダック作戦>の打開をはからんと、首都デリーに単騎、駒を進めたるは、前述したところであります。

しかるに、奥地突入の飛行機搭乗券取得が難行したるまま迎えた昨日。<人生とはふしぎなもの>。われ自身、予想だにせぬ事態にことは動き・・・急転直下、ヨルダン行きに作戦変更。

その朝、ホテル・ロビーで顔を合わせた静岡浜松のユーコちゃんと、
このデリーに出てきて以来、やっと使えるようになった日本語会話を
たのしんでおれば、
<私、明日、ヨルダンに飛びます>の彼女のお言葉。

<わしでも、いけるきゃあ>と将来の参考に伺えば、
<インドからヨルダンは、ビザも用意しなくていいので、かなりの日本人が行きますよ>

へ~、そうなんだ、と
中東などまるで不勉強なわしが頷いているところに、
運よくというか、悪くというか,兵庫のユウトくんが顔を出して・・・

<ボクも近日、ヨルダンにでますよ>とわしを煽り、付け加えて
<ヨルダンには日本人宿のコーダというゲストハウスもあるようです>

ここで、少し誘惑されたわしが
<残念だなぁ。飛行機キップがあれば付いて行くんやがなぁ>
と呟けば、ユウト君やユウコちゃんが<格安のエアー・アラビアなら
2万円ちょっとで行けますよ>の追い討ちでございました。

<わし、メールで航空チケ申し込むの苦手なんや>と防戦すれば、
親切青年のユウト君<ぼくが、手伝います>

わしのベットまで来て、パスポートやカード番号をこまごまと入力してくれ午前中には手配完了。その搭乗予約内容をパソコンごと受け付けにもっていけば、お宿管理人の香川のタッちゃんが、苦労して一旦UFBに移し変え印刷機でプリント・アウトしてくださいました。

その内容です。

4月20日 13;10 デリー空港→ドバイ空港 15;05

格安の悲しさで、途中乗り継ぎに加え、なんとトランジットのため、外にでれず空港内に16時間程度のかんずめ。まっ、いいように考えれば、体力もかんがえずすぐフラフラ出歩くわしとっては、まことよき休息時間ではございます。

で、ドバイ空港は翌日21日8;50発、
アンマン空港に11;00着。一人心配顔で着いた後は・・・

空港からは、黄色い市内バスで出ているので<ダウンタウン行き>を
確かめ乗車して終点で降りる。

タクシーを捕まえホテルの名前メモを見せ<ここに行ってくれ>
ふっかけて来るから料金はとりあえずは半額に値切る。

老兵、単騎で未知のアンマンに突入するにあたり、お二人の青年は
その行動戦略をわしに指示のうえ、ユウコちゃんは<宿の名前や住所>を我が手帳に記入のご親切でした。

そのユウコちゃんは、昨晩はデリー空港泊りということで、
夜10時過ぎ、地下鉄駅までわしとユウトくんでお見送り。

帰途、思いつき、このあと17日にヨルダンに発つユウトくんに
<21日には、飛行機が途中墜落しなんだら、まちがいなくわしもコーダ・ホテルに入るで、安い部屋を押さえておいてくれんかなも>
と依頼すれば、彼も<それがいいですねぇ>の快諾。

ということで、今回は単騎といえば単騎、連帯ならぬ連隊各隊員による<さみだれ式ヨルダン王国首都アンマン進攻作戦>となりますことを謹んでご報告いたす次第であります。

なを、今後のわしの日程は。本日、ニューデリー駅に出むき17日のチャンデガル行き鉄道キップを購入。
15日、16日はデリー市内のふらつき。

17日、チャンデガルのアシュラムにもどり、
18日日は市内バスターミナル駅に出向き、
<19日チャンデガル発デリー空港直通バス。チケを購入>
以前来たとき、わざわざデリーに出て、乗り継がなくても直通バスはあるぞ・・のグルのご教示がございました。

で、19日は、できるだけ遅い時間のバスを利用しいくて、その夜は
<空港の床?泊まり> 。翌20日10時チェック・イン・・
ということですが、まっ、どこで手違いが生じてもまずは生命に危険はなしということで各位様にはよろしくご安心いただきたく存じます。

それでは、元気に<ヨルダン>に出発しますが、今回、格段のお世話に
なった<ホテル・サンタナ>様とユウトくんはじめ旅友のお写真を少し掲載させていただきます。

 




路地入り口にあるお宿の看板と、ドアーの表示です。これじゃ、白人はお呼びでなく。日本人の聖域というか殖民地となって、ほんと居心地がええんですわ。昨年12月15日、プリーのサンタナのデリー別館としてオープンしたとのことでした。

 

お宿のスタッフの<たっちゃんとちいちゃん>わしを挟んで右が、
補助役のあゆむ君。わしを除き、みんなお若く、とてもいい方々です。

もちろん日本語もばっちりですから、デリーのお宿はここで決まりでおますな。みなさん。作務衣姿で合掌するわしに合わせてホテル・レセプションでのポーズでございます。



わしが寝起きしとる6人部屋でおます。朝食つきで1泊300ルピーのほぼ600円。24時間可のホットシャワー、自分の部屋でもワイファイが好きなだけ、洗濯機あり、夕食は事前予約で<日替わり日本ン定食>がほぼ200円ほど。なを昨晩はこの部屋にわし一人でしたが先ほど日本青年2人が到着しメールアドレスを交換をしたところです。

 

食堂は4階にあり、またとない交流かつ情報交換の場所。こんな爺ぃでも仲間に入れてくれるでうれしいこってすわ。で、このなかにも<世界一周中です>とこともなげにいう青年が二人もおるんですからえらいもんですなぁ。



かってインドのウダイブルで出会い、今回、偶然にデリー駅前でわしを見つけサンタナホテルまで案内してくれたトモ君です。わしの隣ベッドに寝ておったけど、この日夕刻、ネパールに向うため宿を出発したので、わしが駅まで見送りに出て、お別れの一枚でございます。


 

今回、逐次ヨルダンに入る、1番手のゆうこチャン・2番手のゆうとクン、しんがりのわしの三人で、昨日はその壮途を祝しての会食です。下の写真がその料理で、インド定番の定食である<タリー>でおます。お味はよう説明できまへんよって、ぜひ各位さまもサンタナに泊まりながら・・へい。お宿にごっつ近い現地食堂でおますよって。

 





サンタナに入る路地の入り口と、その路地に入るために入ってくる路地の風景ですが、牛車を含め全体にきたなっこい感じではおますなぁ。その中にあってご婦人のサリーの鮮やかさが、救いのように思えるのはわしだけですかなぁ。わしが特にご婦人好きとはいわんといて下さい。

  <2013年04月14日11:52 デリーの日本人宿サンタナにて記す。>
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インド譚2・軍刀無残

2013年04月14日 | Weblog

2月28日の日記

早朝、自宅から大阪に向かい関空内業者倉庫にて軍刀を切断して、傷心の老体をドヤ街の安宿に沈める。

■ 今日の乗り物総覧

① 自家用車。いつもながらのカミさんによる選別金代わりの労務提供により早暁、尾張旭の自宅から最寄の地下鉄駅まで。

② 名古屋地下鉄 藤が丘駅→名古屋駅 290円。自由席です。あたりまえ。

③ 近鉄  名古屋駅→大阪・上本町。ストイックな旅は出始めが重要というわけで、カミさんの説得を断りて、ノンストップ特急を拒否し途中2度の乗り継ぎで3時間ほどの電車旅。おかげで伊勢中川や青山町などというローカル駅のホームに立つことができました。

④ 関空リムジンバス 上本町→関空。 バス代は1500円らしいが、先の名古屋駅で通し切符を初期投資したことで両方含め2350円也のお値打ちでございました。

⑤ 南海バス 空港ビル→倉庫ビル。 軍刀切断に向かうため190円の出費。これの理屈がナンカイ。いわば構内バスにちかい乗り物で無料と思えばこの暴利!。あほらしくて、帰途は散歩気分で戻ろうとすれば、関門ゲートがあり、ここはバスに乗ってのみ通過が可能との警備員の指導。切断で煮え湯を飲まされた傷心のわしは、烈火の抗議。本部に電話させ開門の戦果。倉庫従業員やその関係者はスタコラ歩いて通過しておるのによう。

ほんと、今回の軍刀問題は、<船で脱国するになんで滑走路のある関空までこないかんのや><おまけに一晩大阪に泊まらないかんし>と怒れることが多いでかんて。

⑥ 南海電車 関空→新今宮 850円。これも軍刀がらみの出費。JRとかバスもあるけど<一番安く大阪に戻れるのは?>に空港案内嬢のお答えで。ついでに<わし、西成のドヤ街にいくけど>で<それなら新今宮でええです>となりました。

■今日のお宿

西成のドヤ街で、ふらついて見っけた安宿の中では高級な<ビジネスホテル和香>一泊1400円
エアコン・冷蔵庫・テレビ・子机・洗いざらの白布をかけた夜具、青畳の約4畳部屋・壁クロスは張り替えたとこ・・廊下の炊事場には無料の電子レンジと湯沸し器にコイン式有料のガス・コンロ、加えてこれは予想を超えたことでしたが、なんと、なんと、なんと・・無料のワイファイの電波が全館に飛んでいるじゃあございませんか。

本来、ITなどはお呼びでない日雇い人足稼業の寝ぐらであった釜が崎のドヤ街にこの不思議。そのわけ綴ればちとながびくことになれば、続編は今回の旅の途上の宿題とさせていただき・・

で、この夜は、久しぶりに通天閣のネオンに照らされた裏町を徘徊しつつ、じゃんじゃん横丁で一皿8個入りのたこ焼きを頬ばって出征第一夜はおとなしく床についた次第であります。それにしても、この界隈の自販機は<50円~>からの標識が常識でおますよって、さすが庶民の町ではありますなぁ。


■ 今日の一首

   軍刀を 切断するの 悔しさは わが老い腹を 裂くにひとしき

出発直前、手にしたる我がマイミク氏により頂きし<どうしても許さぬというのであれば、いたしかたなし。国で押収して戦争記念館などに展示されたし。我、権利を放棄する>の趣意書を、現地税関当局に最後の陳情資料として提出すれど、答えは破棄かモンゴルに送り返すかの2者択一の無慈悲!

その無慈悲な官憲にたいし、民間の輸入業者の温情。わしが、自宅から携えきたる金ノコでギコギコとやり始まれば、<それは、老体にはきつい>と、倉庫にあった業務用のグランインダーを無償の貸与でありました。

但し、この切断で<出国前になんとかケリをつけておいてください>の我が副官の厳命に従ったことになり、身は異国の野辺に朽ちようとも、とりあえずは後顧の憂いなく<♪いまぞ 旅立つ 母の国>と祖国を跡にした次第であります。

     2013年03月06日   上海の青年旅舎にて記す

追記=軍刀につきては、昨年の夏、モンゴル出征時にウランバートルの古物商にて
かっての日本軍刀を発見。氏名まで刻印されていれば、多分、戦死者か抑留者の遺品に
違いない。戦後60余年、異郷に留め置かれていることはいかにも無念。

よし、わしが連れて帰ろうと、大枚を払い購入したるのち、懇意になった現地日本人ご婦人のなみなみならぬ協力を得てなんとかかんとか、日本に空輸したるまではよし。

ただし、肝心な日本において<大阪税関>にて、危険物とのことで押収の無慈悲。
その解除のため、地元愛知の警察当局、美術品として入手できぬか県教育委員会文化財課、更には現職時代の関係部局にいるかって部下の協力を得て、なんとか<歴史博物缶や軍事資料館への寄付までの策を出し、税関にあたれぞ最後には万策が尽き、切断にいたった経緯であります。

なを、この軍刀問題処理のため、いたずらに日数がかさなり、本来は昨年末、遅くても
本年はじめに壮途につくはずの今回の第10次アジア旅が3月にずれ込んだのは誠に
不本意でした。

それにしても、今回の件は、その軍刀で我が老い腹をかっ切るきりたくなる悔しさではございました。
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インド譚1・出発挨拶

2013年04月14日 | Weblog

明日、早朝の出発準備でさすがバタバタしておれば、過日、メールトをやらぬ友人あてに用意した作文を以下に転載いたし、ご挨拶にかえるご無礼をお許しください。

                     2013・2・27    流れ者敬助  

                 〇              〇           〇


   出国ご挨拶を兼ねつつ・・・    2013年2月                                       
 寒さ、ようやく緩む候を迎えましたが皆みな様にはご健勝にてお過ごしのことと拝察いたしております。 下って、相変わらず暇な余生を暇にまかせて遊んでいます小生。このところ年始のご挨拶もご無礼いたしておれば旅仲間の若者相手に落書きしました2012年我が老いの日々を以下に書き写し近況報告に替えさせて頂きたく存じます。                   

■ 第8次アジア旅<2/2~5/20> 大阪港→中国→ラオス→  バンコク→ジョホーバル→バリ島                      →マレーシアKL→関空
 
 お船で上海に。昆明行き超長距離列車内で寝台上段から落下し痛ッ・テ・テで肩を脱臼。中国鉄道関係者のすげぇご親切で病院に搬送され治療介護の幸運。反日感情関係なし。その後、陸路南下。数年ぶりのラオスは世界遺産の古都ルンパバーンや景勝地バンビエンに遊び、タイ農村部の旧知友人宅に逗留。バンコクの安宿にて一諸した日本老人に誘われ、シンガポールから難民船のごとき現地フエリーで2週間ほど漂流?。

 インドネシア・バリ島にヨレヨレ状態で上陸。暫しリゾート暮らしを。内陸部のウブドでは、探し求めた旧日本軍の塹壕跡や兵士の墓地にて香華。なを兵士の一部は太平洋戦争で辛うじて生き残りながらも、その後のインドネシア独立戦争に加勢しての戦死。現地人が親日的である理由がこれにアリの思いでした。

■ 第9次アジア旅 <8/2~9/20>  下関港 → 中国・青島港→北京→モンゴル→
                       上海港→大阪港

 酷暑に耐えかねて思い立ち大草原の国モンゴルに出征。北京から列車をのり継ぎウランバートルで25日間滞在。その間、日本からの観光団に割り込みゲル・キャンプに参加。帰途。国際列車内でひと晩ともにした内蒙古大学生に誘われ、中国内モンゴル自治区の省都に。

 市内をひとりで観光中、客引きおばさんに声をかけられ、大草原キャンプを再び体験。世界遺産大同石窟・帳家口・天津の町と遊び、上海港から祖国に復員。
 
 なをモンゴル古物商にて<たぶん戦死者か抑留者の遺品だ、連れて帰ろう>と大枚を叩き日本軍刀を購入。但し大阪税関で押収され刀に刻印された兵士の遺族に渡そうとの我が望みも刀身同様切断の悲運になろうとしています。


思うにモンゴルは地球に一番やさしい国じゃあないか。原則、土地は耕さずコンクリート文明関係なし。太古のままの大地で質素な移動式ゲルに起居し家畜とともに歴史を刻んでいる。大草原は馬馬馬馬馬・・の世界だ。見かけた牧畜民に声をかけ、その馬上でモンゴルの風を浴びさせてもらった<ウランバートルの郊外にて>

■ 中学同窓会行きツーリング <10/14~20> 小諸→ 草津→湯沢→十日町→富山→
                             白川郷→恵那
  
 昭和27年新潟県中魚沼郡千手町立中学校卒の一員として越後湯沢温泉での会に参加。なを翌日夜は遠路原付きバイクで走り来たるこの旧友を歓迎せんと十日町高校のミニ同窓会も。感謝至極。友人宅を宿に長岡では山本五十六や河合継之助の史跡を訪ね墓前では香華。帰途は日本海の親不知・高岡・五箇山・白川郷と観光しつつ、ひるがの高原の分水嶺から長良川ぞいに恵那の我が田舎屋まで。小回りきくバイクで各地の共同温泉につかり、加えてお久しぶりのホームレス的野営テント泊をたのしんだ次第です。

■ 大学同窓会行きツーリング <11/6~8> 尾張旭→近江八幡→吹田→京都→御在所岳→自宅
 昭和30年代京都の同じ大学の同じ法学部で学んだゼミ仲間でいまだにトグロを巻いている5人の会が、京都太秦大映通りインド料理店で。紅葉の鈴鹿山脈を往復バイクで乗っ越して日本の秋を堪能。なを、仲間の一人が、<テレビにも出ているAKBのユイは俺の孫だ>と発言。びっくりでございました。
  
■ 仙人宿の運営・管理? <海外暮らし及び所用ありて尾張旭の本宅起居の日は除く>
 定年後は木曽谷の古農家にて静かに晴耕雨読の余生をと思えばこそ、いつしか海外で御一諸した青年旅人や国内ツーリングで出会った仲間が、これは無料のゲストハウスとか仙人宿と名付け、この独居老人慰問に随時ご来駕。加えて本来の素人百姓仕事もありそれなりに退屈せずの余生ではあります。

               ★               ★             ★

  そんなこんなで、もはや世に役だたずの遊び暮らしで、

    <憎まれ子 世に永らえていまや喜寿 ならばついでと傘のさすまで>

と本年12月には満77歳を迎える小生。まずは80歳を目処に老いの坂をぼちぼちと下るつもりであれば、皆様方にはあと暫し変わらぬご交誼をお願い申し上げます。

  なを、本年は来る3月1日大阪港出航の中国船蘇州号にて、<第10次アジア旅>として上海港を目指します。さらにその先は陸路にてベトナム・ラオスそしてタイと南下し、18日にはバンコク空港からインドに進む手はずですが、その後はどうなりますことか。いずれにしろ持病の薬処方期間は90日であれば、5月末には祖国復員?となろうと存じますので、皆様には機会をみつけ木曽谷の我が仙人宿にお立ち寄りいただきたくお待ちいたしております。早々頓首。

                  
     〇               〇               〇

では、明朝、夜明けをまたず遥かなるインド亜大陸を目指し郷里尾張旭から単騎、出撃出させて頂きます。各位さまには、余の武運長久につき格段のご支援をお願いいたすところであります。   出征前夜、老兵敬助慌しく記す。
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第8次作戦=祖国に凱旋

2012年05月15日 | Weblog
♪・・泥水すすり 草を噛み 荒れた広野を 幾千里~

老兵敬助、今次作戦に出征以来、かかる異国での厳しき進撃を継続するにほぼ3ヶ月ぶりにして、かろうじて祖国に生還すれば、ここにその祖国凱旋の日記を略記いたす次第であります。

      ★       ★       ★

■ 4月29日 <帰国前日>


翌朝8時のフライトであれば、ここは先手必勝と前日なれどこの日の夜遅く空港行を決断したるは、すでに前日記にて報告したるところ。

なれば、午前中は宿営にて最後のこのクアラルンプールの街にてバタバタと買い集めた郷里への土産となす戦利品を含め、装備や携行物のバックへの収納に鋭意奮闘すれば南国にしてエアコンなき安宿ゆえ、老体の汗、ひとかたならず。

くわえて、ほぼ3ヶ月間における戦塵の垢も、本来的に異国で生じたものであれば、これを本国に持ち帰るは不本意となし、<現地の垢は現地の水にて>の基本戦略により、最後の<シャワー>を敢行し時計を見れば、はや宿チエック・アウト時間の正午である。

<急がば、駆けろ>。2階の我が宿営部屋から、デカ・バックを階段を引き摺り降ろすようにして一階フロントに降ろしスタッフ氏にその保管を依頼したところで思わぬ局地戦が発生。

<このバッグを夕刻まで管理されたし>
<OKだ。ただし、3Rmを徴集させていただく>

おい、3リンゲといえば邦貨100円強。一泊、500円程度の安宿で、国際条約の決めがあれば別にしてそれはねぇだろう。
アジアの宿では、まず、泊まり客ならタダがあたり前。
それを、こんな安宿に5泊もしてやったわしに要求するとは!

反撃の敵意も湧くも、<敗北すれば、それこそ悲惨な結果に>

というのは、この午後の戦略。
空港泊まりであれば、早く突入するほど持久戦が長びき、これは避けたし。
出来れば、夜間、遅ければ遅いほどよし。

ならば、今回はこのクアラルンプールの街で観光らしきことをしておらねば、ここで相手側観光局長のお顔をたてと、思いついたのがかなり遠方になるが、隣県に位置する超デカ・モスクの偵察行。

これに、重装備を携帯してでは、勝負にならなければ、潔く相手側条件を受け入れ荷物管理を依頼。但し、その保管場所がなんと2階であれば、今度は降ろすに倍加の苦戦必定と思慮し、暫時、夕刻までこのフロント・デスクの陰に置かれたしと一矢を放てば、相手側は拒否。

なにをいうか。そもそもエレベーターなきはそちらの責任と、ここは強引に押し付けまるで逃亡するかのごとくホテルを出立。時にほぼ午後1時。

単騎出撃であればその進撃ルートは、手元のガイド本<地球の歩き方>を唯一の情報源にして、あとは宿で貰いし市内地図と手にする磁石で方角を定め・・
いうところの<按摩の手探り>状態にて進撃。


ただし、ここでの大問題は、唯一の重要情報たる<地球の歩き方>が多くの旅人から指弾されるごとく


 
腕が未熟で、写真でははっきりコンしませんが・・・・

<屹立するミナレットに感嘆。スルタン・サラフディン・アブドゥル・シャー・モスク。略。世界で4番目に大きなモスク。4本のミナレットが美しく聳えており、ブルー・モスクという愛称で親しまれている>

で、この案内文はよしとして、問題はそこに至る<交通アクセス>の説明。
これが使いものにならず迷うだけ。表記の中華街にあるクラン・バスステーションに行き<わし、ここに行きたいある>と現地人にモスクの写真を見せ、その名前を喚けど、そんなバスはないよ、とか別のバス停に行けの反応ばかり。

ここは、権威者というか専門家に聞け。待機中のバスにのりこみ、運転手に聞けば行くべきバス乗り場と、そこでのバス番号が


これが、<ブルーモスク>の尊称を持つ世界の四番目の規模を誇り、その上、多分、多分ですが、サンピエトロ寺院や本願寺など世界的宗教施設のなかで最も観光客が少ないであろう観光寺院の内部と正面であります。

これほどのモノが、片道3Rm<80円>の市バス料金だけで観光できるシアワセ。比べて、軒並み観光税を巻き上げる我が京都の観光寺院。
しがない年金暮らしのわしの足が、しかたなくアジアに向くのは当然ですわなぁ。

この拝観料タダの世界的デカ・モスク。各位さまには中華街はモノレール駅反対側の歩道脇から出る<U80番>市バスにて是非、お訪ねいただきますよう僭越ながら御案内させていただきました。



クアラルンプール・セントラル・ステーションから最終のシャトル・バスに乗りこの夜ひと晩、無料でお泊めいただいたその国際空港出発ロビーのひと隅がここです。

へい。広いロビーですからベンチが並んだ一角もありましたが、結構、先客が込んでおれば<わし、だれもおらんこの壁際でノンビリ手足を伸ばし・・<すいた所でどうもすんまへん>と横になれば、<それならミーたちも>と真似をする乗客が写真のようにね。

僭越ながら、この日はわしが、国際的に大和民族の新規開拓精神を褒示させていただきました。


■ 4月30日 <帰国当日>

              


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敬助バリ紀行

2012年04月27日 | Weblog
今回のふらつき旅も、mixi上で下手な作文で遊びながら日数を重ねてきましたが、としよりのもたつきで、ブログへの再掲はとんとご無沙汰であれば、4月30日の帰国を前に、最後のあたりを以下に、引用させて頂きました。よろしくご笑覧いただければと存じます。

     4月27日 クアラルンプールの安宿にて
          
              流れ者 敬助こと 山田敬二


★             ★              ★

第8次作戦=バリ島・ウブド作戦2 2012年04月22日22:46


■ これぞ、ウブド観光の目玉と称される棚田の偵察       

予、ガキ時代の満蒙開拓団に対する憧れの後遺症か、晩年になり、木曽の山中でささやに鍬を手にする小作人を志願せり。

その農村に(坂折の棚田)と称し全国棚田100選に名を連ね、近年、忝くも皇太子閣下の御臨席を仰ぎ、全国棚田サミットが開催された景観まことよき棚田の数百枚があり。

されど、ウブドの棚田が、世界の観光客を雲霞の如く集めるも、我方の棚田は、予の仙人宿への来客を案内するたび、その閑散たるありさま、まこと慙愧に耐えぬというほかはなし。

同じ、段段状の田圃にして、その格差をなしている要因は、いかなるところに存在しておりしか。

(敵ヲシレバ、百戦アヤフカラズ)

かかる次第にて、偵察行に赴きし写真を掲出させて頂いた次第である。
一見したるだけで、その分析はいまだしながら、印象の2つを記せば

日本の棚田が、先人による営々たる石積みの段差により、成り立っているのことに対し、こちらは、只、土を垂直に切り取っているに過ぎず。

よくぞ、これにて水田を維持できるのであるか。わが国の棚田であれば、一朝にして崩壊するはずでありしと疑念に思い、ウブドの(土)を手にみてみれば、驚くべきほどの粘着力にして、もはや粘土の範疇といってよし。

ただし、水田も、またこの粘土にして、ただ、それを水で溶かしたごとくドロリした状態であり、これで稲が育つか・・の疑問は残れリ。

なを、その棚田の形状を追記すれば、日本の棚田は、きわめて小さいというか、短く、故に、1枚・2枚と数え、いうところの千枚田となるも、ウブドにては、一枚ごとの多くが、100メートルを軽く越すもの多く、こちらは一本、二本と数えるをもってヨシとすべき。

思うに、わが国が、狭い谷間に水田を開くに比べ、こちらでは高原の斜面を水田としたことに理由があるのではないかなぁ・・・

と、わしが真面目に視察して真面目に考えとったら、ソノ後、次々やって来る、白人観光客にモミクチャにされてなも。

そんなつもりで、作務衣でふらついとるわけでないのに、彼らから見て、水田を背に絵になるということで、次々、ミーも一緒に並んで写真を撮らして欲しいと・・、わし、モデルをやりにバリーに来たわけじゃあねぇによう。

へい。笠は、前のサヌール・ビーチで、丸刈りに南洋の太陽はきつすぎると、200円ほどで現地調達したものでございます。


■ マルガ英雄墓地に眠る日本軍人英霊に回向

           
多くかたらず。これがバリー島のウブドから山間1時間ほど奥に位置する「マルガ英雄墓地)に眠る、かっての日本軍兵士「美馬芳夫氏)の墓前です。

彼らは、あの過酷な太平洋戦争で幸運にも、生き残りながらも、その直後、インドネシア独立戦争の戦士として銃をとり、この地で散華しておれば、ここに回向するために、わしははるばるこの南洋に足を踏み入れたようなもの。

いま、こうした自由な旅をこの南海の地で楽しめることも、彼ら先人が流した血と汗の結晶であれば、ここはわしも心からの合掌でありました。

                   
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■ chavalit  2012年04月23日 00:06
恵那の棚田も・・・中々ですよね~
卵も食べたい!

敬助= しぶサン 。ウチの、棚田を可愛がって頂きありがとうございます。ウブドより、近ければまたお出かけください。

■ ひろき  2012年04月23日 05:15
棚田の風景、なんだか日本を思い出させますね。
そちらは暑いですか? お体には御慈愛を。
こちらはそろそろ秋です。

敬助=ひろきクン 。旅暮らしも6年をこえますねぇ。
わしは、8年目ですが、毎年日本に。
ひろきクンは、あれ以来、日本の土を踏まず。
そちらこそ、ご自愛いただきますよう・・・
 
アフリカは秋とか。冬もあるんですか? 知らずの敬助

■ のんぞむ 2012年04月23日 08:30
何度もバリに行ってながら、日本人の墓所には一度もお参りしたことがありませんでした。東南アジアで、日本敗戦後の独立運動にその身を捧げた日本人がかなりいらっしゃったことは聞き及んでましたが、バリにも…。合掌。
追伸。
田んぼの写真は日本かと思いました。

敬助=のんぞむサン。

今日は、バイク・タクシーを借り上げ 別の日本軍人墓地2箇所
加えて、彼らがスコップやツルハシだけで掘った14基の防空壕・・・

いずれも、日本文字による表示や案内標識がないのが無念といえば、無念。
なんとかならんか・・・と思うことしきりでした。

田圃のほうは、これは日本の棚田ではありませんの看板は必ずしもいらんけどよう。

■ ばーば 2012年04月24日 06:52
最近、日記アップの欄が下のほうに押しやられ? 先にフォトアップに目が止まり、コメントし日記を見逃していました。

棚田での後ろ姿!グッドな絵になる写真ですね。
これじゃモデルになるのも当然の三点セットのお姿です。

日本軍人英霊に回向の証拠写真、しっかと見届けました。
いつもふらつき旅で日本軍が戦って戦死した場所を尋ねて歩いていらっしゃる敬助さん
今回も「多くを語らん」で、色々考えさせられる英霊の回向だったと思います。
本当にご苦労様でした。

敬助= ばーばサン。
わざわざ、そんなトコ!に行かなくても・・
おおかたの、ご意向にあって、この度は我が胸中を察して

> ご苦労さまでした

の労いのお言葉。

雇い上げたタクシーやバイクで、現地の集落の方々に尋ねながらの、まるで捜査行の如くの日々。ばーばさんのコメントで、その苦労が報いられた思いで喜んでいます。
ありがとうございました。


  今朝、バリ島を発ち、昼近く入った
   クアラルンプールの安宿にて  また一人旅となった淋しき敬助

早朝、5時の空港チックインのため、昨晩は空港のロビー泊まり。
少し、睡眠不足ですので、今晩はこれにて休ませていただきます。
では、お休みなさいませ。

■ メイ・ベーカリィー 2012年04月26日 11:10
お疲れさま。お帰り楽しみにしてます。また話聞き行きます。気を付けてね~~」

         
 ★       ★         ★
 
    
     第8次作戦=KLに凱旋   2012年04月26日09:24

3月27日、マレー半島の先端、ジョホーバル港から輸送船に乗り、目指すバリ島に向かい・・

赫々たる戦果ではなけれど、老兵なりの奮戦によりささやかな目的を達し、昨日4月25日、一ヶ月間のインドネシア・ビザ有効期間切れを前に、かろうじて、デンバザール空港から輸送機により同島を脱出。

ほぼ、凱旋の気分にて、再びマレーシアは、その首都クアラルンプールに戻ってまいりました。

昨年も駐屯していた街であれば、祖国日本に帰還する4月30日までは、軽はずみな市街地遊撃戦などに撃ってでることもなく・・・

へい。軍費も戦力も、そろそろ底を突きはじめましたんで、倒れこんだ昨年の轍を踏まぬようおとなしく安宿にて惰眠を貪り、ここは、休養にて英気をやしない無事帰還後は、また本土にて荒れ果てた我農家の開拓農民として、鍬を手に、祖国農業の振興の一旦を担うつもりであれば、銃後皆様には変わらぬご支援を伏してお願いいたす所存でございます。

   昨日、昼過ぎ入ったクアラルンプールの中華街で
   ヒイヒイ探した昨年の宿が見つからず、
   しかたなく投宿した、その割りに安く、一泊450円ほどに加え、
   おまけにワイファイが屋上でタダでつかいたい放題という
   バックパッカー・ホテルにて

                やっと一息入れている帰還予定抑留者
                              老兵 敬助

■ 蛇足写真

従軍記者でバリ島に来たわけでなし。インドネシア観光局長のお顔もたて
最低限の観光もさせて頂きましたので、その写真をね。

  
おなじみの?、爺ぃと白人娘のツーショトで申し訳けありません。
その弁解というか経緯なんですが・・・

ウブドの最終日は、休息とほぼ決めていた前日の夜。

それでも、一度は見て置こうと足を運び、ウブド王宮で大枚800円を投じて有名なバリ娘たちのナントカ舞踏を鑑賞しておれば、<あれ、またお会いしましたね>?のお声が。

過日、デンバザール一人散策の途中、博物館で御一諸した札幌のエリちゃんでした。並んで、舞踏を見ておれば、彼女が、<明日、1300円ほどの、湖上寺方面観光のツアーが出るそうですよ>の耳寄り情報をくれたんです。

人数が集まれば、催行。日本でもよくあるテで、わしがウブドに入り、聞いたときはエージェントでは、ほぼ絶望の様相でした。

申しこんで、翌朝、迎えに我が安宿に来たにいちゃんの後に続き、多分、バイクのケツに乗せられ、エージェントの玄関に待つ観光バスに・・と思えば、これが大違い。

停まっていたのが、6人乗りワゴン車で、にいちゃんが、運転手兼ガイドというお粗末でなも。

わしが、最後のピックアップ客で、先客は、運転手横にオーストラリアの白人おばさん、その後ろにイギリス娘とドイツ娘、最後列にコノ夕方直接空港に向かうためデカイ・カートを横にこの日本人爺ぃといういわば国際連合軍でございました。

バリが、現下、ノーテンキな白人観光客や娘どもに占拠されている象徴的な陣容ではありますなぁ。で、言葉もよれよれなこの爺ぃが、有色人種を代表してこの日、一日、孤軍奮戦していた・・とこういうわけであります。

ただし、♪昨日の敵は 今日のとも~

ここでも、白人みなさんから、赤十字的博愛精神でたのしくお相手いただき・・

へい。戦史情報収集にとりまぎれ、観光情報はとんと不勉強。かなり山道を揺られ、折角ご案内いただいた、この湖上寺院で有名な観光地のお名前もいまの段階では、掲載できぬお粗末でございます。

ただし、この娘さんが、一人旅でドイツからお出でになっている程度は、幼稚なわしの会話力でもご理解させていただきました。

なを、写真の影。わしの老体もへばっておりますが、相棒のカメラ野郎も後半に来てダウン!。レンズ・カバーが半開きの御疲れ状態。

同病あい哀れむ。よろしくのお許しをお願いいたします。 早々頓首の敬助


コメント

■ ひでき少年@太極体操 2012年04月26日 11:56
ふむふむ。
ドイツのお嬢さんと2ショットですかー。

いいですねー。
うらやましいー。

敬助=ひでき先生。先生のお嬢さんも含め、タイの娘さんたちもなかなかの美形がおおいなぁといつもうらやましく旅をしております。

■ 喜三二 2012年04月26日 12:51
ご健在でなによりでございやす。

敬助= お江戸の喜三二の旦那さまへ

へい。おかげでさまでよう。なんとかマメであんばよう過ごしておるで心配しんといてちょうだゃあ。          尾張のふらつき爺ぃ こと敬助

■ 美森 2012年04月26日 19:42
あ、連休はお帰りですか?
旅の紀行日記拝見もたのしいけれど、この秋津島大和の同じ地続きにいらっしゃる...
というのも格別の安堵感でございます。 ご無事のご帰国を!

敬助= 美森さま。いいかげんな国民ですが、やはり異国の流れ旅を繰り返していれば、
我が日本は、祖国とよべるなぁ・・

このところのたのしみは、その祖国への帰還ですが、安堵していただける方も京洛の地においでとのことであれば心急ぐここマレーシアはクアラルンフールの朝になりました。



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那智従軍写真館=出征

2011年12月19日 | Weblog
 
口  上
          
秋色ことのほかよき時節になり、各位さまにはますますのご健勝の段、まずはご同慶でございます。

さて、不肖、この老兵がわが歳をかえりみず去る10月に従軍いたしましましたる「12号台風災害那智勝浦方面、復興支援作戦」にかかる回顧録が「年寄りのもたつき」で、いまだ手に着かぬ状況であればとりあえず、この写真館にてご報告にかえさせていただく所存でございます。

以後、暫しのお付き合いを伏してお願い申し上げます。
                                        2011・11・15
                       館主 敬助敬白

■ 出征

早暁、5時ちょうど。出征の雄姿?だ。但し昔とヘイタイさんと違ってこの老兵を見送ってくれる町内会皆さんの振る「日の丸」の旗の波がないのが淋しい。国民を代表して「できれば生還してね」と惜別の辞を述べた唯一の見送り人である恋い女房?が撮った一枚でアル。

二輪駆動車のライト下に縛りつけてある筒状のモノは、バスカー砲にあらずして、野営に欠かせぬ「アルミ・マット」だ。なを軍服として

♪雪の進軍 氷を踏んで どこが川やら 道さえ知れず~

極寒の満洲に徴兵されたわけではないが、「備えよ常に!」で、寒さに備えて古びたスキー・ウェアを身にまとった。
(2011・10・1 いよいよ出征の朝、祖国は自宅玄関先で)


「腹が減っては、戦はできぬ!」。伊勢湾沿いを南下して那智に向かいバイクを走らせておれば、尾鷲の近くで正午。久しビりの野外炊飯であり、「備えよ常に」で、携帯している古びたコール・マンの白灯油コンロを使い作った「鍋焼きうどん」だ。粗食だが、行軍途中であればセイタクはいえない。
(海沿いの道の駅に併設されていた東屋で。バックに入り江が見える)

熊野灘を向かって吠える「ライオン」である。ホンモノではなく看板にあるとうり「獅子岩」であり、これを眺めたことにより、戦場でわしの獅子奮迅の活躍が約束された気分になった。
(絵葉書の転用ではなく、証拠に我が愛車、ホンダの原付きが写っている)

「遠からん者は、音を聞け!。近くば寄って眼にもせよ!」
恥ずかしげもなく大写ししてあるのが、ホンダが世界に誇る原付き「カブ」のエンジンを搭載し、かっこいいバイクに仕立てた、わしが世界に誇る「ホンダ・CD50だ。

ハンドルにぶら下げたショルダー(70肩に掛けると堪えるでよう)、フロントに結わい着けた寝具マット、後ろ荷台のデカ・カバンには衣服等に加え、通風と前立腺30日分のクスリも詰め込まれている。

後輪両側は安物の「中学生用カバン」を転用したサイド・バックだが、一方にテントや寝袋の野営寝具、片方には、コンロや食器類の炊事器具であり、これだけあれば「草枕しばし慰む」である。

最後部の黄色の旗は、「学童用交通安全の小旗」だが、これこそ本州はおろか四国、九州、沖縄まで足を運んでも一般庶民がまず目にすることがない逸品だ。多分ネ。どこの博物館にも展示されていないだろうし、デパートでも販売されていない。

なんでか?というと、コレはわしが先年、北海道ツーリングのとき知床は羅臼の「ライダーハウス」に連泊して、そこを一人で営業しとるおばぁちゃんの下男として暫し手伝っていたお礼として別れにもらったヤツなんですわ。

だで小旗にある「魚の城下町・知床らうす・羅臼町交通安全協会」の文字につい欲が出て嫌がる通学生児童の手から、わしが無理矢理に奪い取ったもんじゃあないでよう。ソコんとこは誤解しんといてちょうだゃあ。

(景勝地である紀伊御浜の海岸だが、左の浜辺には12号台風の爪あともいえる流木が散乱している)

爪痕の接写だ。熊野灘の沿岸は、こうした酷い光景が延々と続いている。打ちあがられている累々たる流木群は、すべて今回の12号台風によって紀伊半島は熊野山中で崩壊した山肌から谷間に落ち、氾濫した川に運ばれ、一旦は海に吐き出されそれが波により砂浜に打つ返されたものだという。

産業廃棄物ではないがこの撤去と処理には巨額な費用がいるだろう。わしの田舎屋(仙人宿)で人気の高い「五右衛門風呂」の「薪」に使えば軽く100年分はあるだろうが、運搬賃が問題だわなも。
(一枚上の写真と同じ砂浜だが、接写だからこれはひでぇの印象になる)

熊野川の鉄橋だ。この川筋も大きな被害を受け、やはり復旧支援のためのボランテァ・センターが開設されていることを後日知った。やっと、和歌山県に突入したが、まだ新宮市であり、作戦地の那智勝浦に明るいうちに到着できるのだろうか。

それにしても「国道42号線」の標識看板が気になる。なんでか?。この42号は新宮市だけでなく、和歌山県を半周するような幹線になっているから、やはり、上の「和歌山県」の表示版にぶら下げるのが正しいのではないのではないのではないのでしょうか。

さらにイチャモンをつけると、この「4と2」の数字は、「死に番」といって嫌いわが国ではホテルや病棟に「部屋番号42」はないはず。多分ね。
今回この42号線沿いが大災害に襲われたのもヒヨットするとそれが関係しとるかもしれんで国土交通省は一考するといいかもね。

(心なしか幹線のわりには交通量が少ない。
でも、橋の途中にバイク止めての写真はチト危険でありました)

夕刻、那智勝浦の「道の駅」に到着した。紀勢線のJR駅と一体になっているから「お前は、その海辺にあった鉄道官舎で生まれた」と親から聞かされているわしのいわば生誕の地である。

そのわしを歓迎するかのごとく、「被災地救済のため入浴は10月いっぱい無料です」の看板を掲げた駅併設の「丹敷の湯温泉」に出征第一目の疲れを癒し、その玄関先?に設営したのであります。

駐車場にある、那智権現の社殿に似せたこの朱色の回廊では、青森県からの定年記念流れ旅ご夫妻とテントを並べたが、翌日、目覚めたらすでにご出発ずみで、わしのだけが写真のようにポツンと残されていました。
右が温泉、回廊突き当りが公衆トイレです。

(10月2日の早朝。このあと、じょじょ君から電話があり那智勝浦町のボランティア・センターに急いでバイクを走らせた。)

      11月15日は、我が老妻の誕生日にて家族で食事会とて
      半月ぶりに戻った自宅にて記す。  
      

(お詫び= 年内の脱国を目指し、那智従軍中に荒廃した祖国恵那の田舎屋の手入れや畑の回復で、このところ、新聞・テレビ・ネットなしの仙人宿に隠棲いたしておれば、次回、また下界におりて来るその日まで、mixiが不如意となりますので、コメントにかかわる不義理はよろしくのお許しをお願いいたします
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那智従軍写真館=戦場

2011年12月19日 | Weblog

■前線基地=井関サテライト

わしたちは、毎朝、この基地で点呼を受け、作戦方針を聞き、小隊ごとに別れて各戦場に赴く。その際、「きょうも突撃するぞ~」の団結の雄たけびを円陣を組んで発するのがわが「絆軍団」の軍律なのだ。

その基地となっている場所が、那智勝浦町は氾濫した那智川の「井関地区にある「町立井関保育園」であるが、なぜここがサテライトになっているか・・

へい。暫くしてからわしが理解したところによればですねぇ。水道や道路の復旧など公共的なデカイコトは、税金をもっとるお役所サンがやるのは当然にして、問題は「一般庶民のオウチ」を含め、当面、自力で「なんとかせなかん」「だども人手がたらん」ちゅうとこは、わしがおっとり刀で被災一ヵ月後に現地にかけつけた段階でも、そら、ぎょうさんありますわな。

そこで「ボランテイア」ちゅう「志願兵」を募集して、庶民の要望によりその前線に「派兵」する「大本営」の機能をもった組織として「那智勝浦町社会福祉協議会」ちゅうとこが急いで立ち上げたのが「12号台風災害復興支援ボランティア・センター」なんです。多分そうだな。

だども、そこは街中にあって、日々、奮戦する基地としては前線からは離れすぎておって地理的にまったく不利なんで、「どうしたら、よかんべぇ」
町長さんや、福祉協議会長たちが相談した結果、

「どうだろう。被害の酷い井関地区にある町営の井関保育園だが・・あそこも壊れて園長以下全員別の保育園に疎開して貰っており当分は空家だからサテライトとして使ったらよかんべぇ」「その案でよかんべぇ」

多分、そんな経緯で、ここに社会協議会の前線基地としてボランティア・センターのサテライトが置かれ、合わせて、被災者救済や相談の行政側窓口として那智勝浦町災害対策本部の職員が常時駐在しておった・・とこない次第でございます。

ほんじゃ、そのあたりに関わる代表的?なお写真を以下になも。


<photo src="v2:1421793245:l">

看板にみるごとく、ここが基地のセンターであり、 暫し談笑する3人の絆軍団に所属する青年士官の背後の小さな部屋が、いわば指令室で、町の社会福祉協議会事務局の職員が常駐している。「支援をたのむ」の住民の要望は、ここに寄せられ、ただちに軍団により臨戦体制が樹立される。

写真に見る「とうる」「ほっぴー」「なおきち」の歴戦の勇士は、出撃前にもかかわらずでいずれも余裕の笑顔だ。

<photo src="v2:1424619706:l">

*旧保育園の運動場、現サテライト広場では、朝は全国各地からのボランテイア(そうした援軍が400人を超える日もあった)を出迎える前、夕方はその援軍をお見送りした後、絆軍団だけによるこうした円陣を組んでの作戦会議がかならず開かれるのである。

10月2日の朝は、この場で「今日から参戦される名古屋の敬助さんで、旅仲間では仙人サンと呼ばれています」と、かっての戦友「じょじょクン」がわしをこの軍団に紹介してくれたことにより、以後、このナチカツ戦場では「仙人サン」が、本官の正式名称になり申しましたとサ。

背後に見える緑色ボックス2基は仮設トイレです。本来、当然、常駐する保育園内にも水洗のしっかりしたものがありますが、いまだ復旧せず、強引に使用すれば、今度は部屋の中が糞尿で氾濫するのでこの仮設でも仕方ありません。

同じように、この井関地区をはじめ那智川ぞい一帯では、こうした仮設トイレをいたるところに見かけました。なんとか家に住めても、まだトイレの使用は不可!。ほんと、気の毒でございました。被災、一ヶ月以上も経つによう。


<photo src="v2:1424595428:l">


*朝礼、終了後、直ちに当日の前線を偵察するため、先陣をきってオフロード・バイクの愛機を駆って、広場から飛び出して行く情報参謀の「トムさん」を隊員が見送るの図である。

「なんや、エンジンのかかりが悪そうでおますなぁ」
漏れ聞いた情報では、これも地元有力者のご提供の中古車両とのこと。たしかに「和歌山ナンバー」でしたので。本人のであれば「琉球ナンバー」のはず。トムさん、琉球快男子の見本のような青年でございました。


<photo src="v2:1421710801:l">
武器なくして戦闘はできない。その質量が勝敗を分けるのは、太平洋戦争の日本帝国陸海軍の敗北が証明している。これが、わが絆師団のセンター受付の近くに設置された武器倉庫?だ。これでもまだ一部だから壮観というほかない。多忙時には、これでも不足する様相をみせる。
夕方には、一旦は全て高圧洗浄器でドロを落とし、ここに戻されるが、その後、軽トラで前線の戦場に運びだされるケースも多い。

当初、不審に思ったが、翌日、朝、基地にきたボランティアさんの団体が、その日にすぐ作業にはいれるよう事前に、最前線である被災家屋の庭先へ移動させておくことをしり、その準備のよさに「さすが精鋭師団だ」の思いを新たにした。

<photo src="v2:1424595430:l">

*上の写真をアップした一輪車群。これだけあると、解体や破砕のクギなどで
連日、パンクが発生し、それを修理する「素人自転車屋」も、わしの隠れた作業ちゅうか師団公認のお役目でございました。

なを、この一輪車の「所有者」表示には、「石巻」とか「仙台」の東北都市名がございましたが、なぜか、わしの地元県、「飛騨高山」もかなりの数が。東北は、わかりますが「高山」からなぜに此処に。いま、現在も、その真相はヤミの中であります。どなたか、ご教示いただければ幸いであります。


<photo src="v2:1424595440:l">

その武器庫?に入りきらぬスコップやジョレンは、建物横に整理されるが、それぞれの大小、カタチ、加えて、バールやハンマー、ジュウノウ、ホウキ、ブラシ、カナズチ、クギヌキ・・など、その仕分け作業もラクではない。

<photo src="v2:1424619691:l">

基地の掲示物でこれは本部横の張り紙。上が「ボランテイアはん。遠路、ほんまご苦労様ですなぁ。せっかくやさかい、タダコの温泉に漬かっていきはったらどないでっか」の趣旨で、下が「そのかわり、持ってきおった自分たちのゴミは必ず持って帰ってくなはれ。たのみまっせ」

400人を超えると、弁当の容器や残飯などの量はバカにならず。ゴミで苦戦を強いられているこの町に、問題を上乗せしては支援にきおったボランティアティアの名折れになるよって、当然ですわなぁ。


<photo src="v2:1424619755:l">

*全員が絆師団だ。わしの隣、上品な娘さんは従軍看護婦ならぬ従軍「整体師」のゆうこサンさん。昼間は被災者のサービスで奮戦せしも、夜間、宿泊所に帰営後は、被災者でないわしも、ご老体ということで格別にモミモミしていただけました。嗚呼、えかった、えかった。

その隣、黒メガネの精悍な将校は、軍団の情報参謀のトムさん。オフロード・バイクで被災地の情報収集をなし、的確な作戦を指導。特技に理容あり。
休息中に、この広場で業務用の挟みを取り出し、女子隊員の髪のカットに続き、この老兵のお鬚も。へい、無論タダコでございました。

背後の、「ヤスさん」「せいちゃん」「おざざさん」「マルくん」たちが乗る、戦車ならぬゴミ出し作戦に欠かせぬ「作業用軽トラック」は、歴戦の痕跡にみるごとく、つい最近まで「東北石巻」の災害復旧で活躍していたものです。(絆師団は、石巻市に本部をおく歴戦のボランティア団体であり、故に、今回それを紀州に回送してきたのでアル)

<photo src="v2:1424619695:l">
「仙人」「バンダイ」「ラッキー」と3人の絆戦士がスクラムを並ぶが、わしは新参モノ。右の2人は、その青の軍服に白く染め抜かれた「石巻 協議会」の原隊名に見る如く、絆師団の正統派なのである。

従軍中、トラックにユウボーを掲載し、日帰りのごとく急遽、東北災害地に再度支援におもむき、また、数日でこの前線に引き返し、疲れも見せず直ちにユンボーの操作をするバンダイさんの雄姿に襟を正した次第であります。

<photo src="v2:1424619735:l">
*わしだけが絆師団で、並んでいるのは神戸から日帰りで駆けつけた「外人部隊」というか、気鋭のボランティア集団です。一日だけの激戦が終わっての「強兵4名が老将?を囲んで」の一枚である。
「弱将とちがいまっか」。「へい。間違いおまへん。あいすまんこって。」

<photo src="v2:1424619718:l">

*こうした外人部隊は、職場、地域、学校などで仕立てられた「車両」で、前線に馳せ参じ、馴れぬスコップを手に奮戦して夕刻、またサテライト広場から帰路につく。その「ボランティア・バス」を「ご苦労様でした。では、気をつけてお帰りください」
那智勝浦町長にかわり?お礼の言葉で見送るのも、絆師団の軍律の一局面である。

「記念に後で送りますから」と、見送り時に惜別の情絶ちがたく、わしが強引にバスに乗り込み、強引にシャッターをきった一枚である。

<photo src="v2:1424619712:l">

*ある日、被災しているサテライトの一部屋を、青テントで囲い、看板のごとき被災者サービスがございました。写真のドロだらけズボンにみるごとく、わしもまた心身ともに草臥れておりましたので、丁度、客ナシと、この先生にお願いさせて頂きました。

わし。蜂に刺されたことあるけど、鍼をチクチク刺されたのは、生後74年で初めてなんですわ。
無免許で操作したユンボーに加え、今回の従軍による初体験。いずれも無料のご奉仕活動からえろう儲かった気分でおます。

<photo src="v2:1424595446:l">

*うれしくも、また別の日には、とある業者さんから「氷」の寄贈があり広場で「かわいい地元中学生掻き氷屋サン」がオープンし、作業を終了し次々基地に戻って汗を拭うボランティアさんを喜ばせていました。その方々を見送ったあと、わしたち絆師団も、遠慮なく喜ばせていただきました。

左のおねいさんは地元那智勝浦町から「絆師団」に志願してきた「タッシー」ちゃんで、いわば氷屋さんコンビの部活顧問のお役目を担っていたように拝見いたしました。

<photo src="v2:1421723181:l">

氷屋さんもやってくれた基地のマッコット・ガールの「ミユちゃん」と「エリちゃん」だ。地元の中学生で、休日と放課後には、自分の通学自転車でここに来て一輪車のパンク修理を仲良く。外れぬナットに苦戦をする2人をみて、わしが手をだしたことにより、すぐにわしが指導教官?というか、以後、2人の登校中のウイークデーにおいて軍団直属の自転車屋の重責を晴れて担うことになった。

なを、帰宅後、ミユちゃんからたのしいメーセージをつけ
マイ・ミク申請あり。いやはや。女子中学生のお友達は初めてですわ。
繰り返すアジア・ふらつき旅でも、見つからなんだのによう。

今回の従軍の、ほんとよき記念になり申しました。

(追記)昨日27日、夕刻、「いま、名古屋駅近くで絆師団のOB会をやっています。仙人さんの電話番号を大阪のやっさんから聞き出し連絡するんですが、お出かけいただけますか」

親切なアイちゃんのお誘いで「ちょうど恵那の山から自宅に戻っておるとこ」と勇んで答えて、勇んでバイクで指定のカフェに急行。たのしい総括兼勉強会のあと近くの中華料理店で翌日朝1時近くまで。

なを、お顔なじみとしては、名古屋の「ひーさん」東京の「和助さん」和歌山の「おざざサン」岐阜の「とおるサン」に「寛治さん」たちも。ほんに、なつかしゅうございました。

で、今日は、この日記を自宅で書きつけ、明日からまた仙人宿に隠棲しますんでしばしご無礼申し上げます。

           
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那智従軍写真館=基地

2011年12月19日 | Weblog
■前線基地=井関サテライト

わしたちは、毎朝、この基地で点呼を受け、作戦方針を聞き、小隊ごとに別れて各戦場に赴く。その際、「きょうも突撃するぞ~」の団結の雄たけびを円陣を組んで発するのがわが「絆軍団」の軍律なのだ。

その基地となっている場所が、那智勝浦町は氾濫した那智川の「井関地区にある「町立井関保育園」であるが、なぜここがサテライトになっているか・・

へい。暫くしてからわしが理解したところによればですねぇ。水道や道路の復旧など公共的なデカイコトは、税金をもっとるお役所サンがやるのは当然にして、問題は「一般庶民のオウチ」を含め、当面、自力で「なんとかせなかん」「だども人手がたらん」ちゅうとこは、わしがおっとり刀で被災一ヵ月後に現地にかけつけた段階でも、そら、ぎょうさんありますわな。

そこで「ボランテイア」ちゅう「志願兵」を募集して、庶民の要望によりその前線に「派兵」する「大本営」の機能をもった組織として「那智勝浦町社会福祉協議会」ちゅうとこが急いで立ち上げたのが「12号台風災害復興支援ボランティア・センター」なんです。多分そうだな。

だども、そこは街中にあって、日々、奮戦する基地としては前線からは離れすぎておって地理的にまったく不利なんで、「どうしたら、よかんべぇ」
町長さんや、福祉協議会長たちが相談した結果、

「どうだろう。被害の酷い井関地区にある町営の井関保育園だが・・あそこも壊れて園長以下全員別の保育園に疎開して貰っており当分は空家だからサテライトとして使ったらよかんべぇ」「その案でよかんべぇ」

多分、そんな経緯で、ここに社会協議会の前線基地としてボランティア・センターのサテライトが置かれ、合わせて、被災者救済や相談の行政側窓口として那智勝浦町災害対策本部の職員が常時駐在しておった・・とこない次第でございます。

ほんじゃ、そのあたりに関わる代表的?なお写真を以下になも。


<photo src="v2:1421793245:l">

看板にみるごとく、ここが基地のセンターであり、 暫し談笑する3人の絆軍団に所属する青年士官の背後の小さな部屋が、いわば指令室で、町の社会福祉協議会事務局の職員が常駐している。「支援をたのむ」の住民の要望は、ここに寄せられ、ただちに軍団により臨戦体制が樹立される。

写真に見る「とうる」「ほっぴー」「なおきち」の歴戦の勇士は、出撃前にもかかわらずでいずれも余裕の笑顔だ。

<photo src="v2:1424619706:l">

*旧保育園の運動場、現サテライト広場では、朝は全国各地からのボランテイア(そうした援軍が400人を超える日もあった)を出迎える前、夕方はその援軍をお見送りした後、絆軍団だけによるこうした円陣を組んでの作戦会議がかならず開かれるのである。

10月2日の朝は、この場で「今日から参戦される名古屋の敬助さんで、旅仲間では仙人サンと呼ばれています」と、かっての戦友「じょじょクン」がわしをこの軍団に紹介してくれたことにより、以後、このナチカツ戦場では「仙人サン」が、本官の正式名称になり申しましたとサ。

背後に見える緑色ボックス2基は仮設トイレです。本来、当然、常駐する保育園内にも水洗のしっかりしたものがありますが、いまだ復旧せず、強引に使用すれば、今度は部屋の中が糞尿で氾濫するのでこの仮設でも仕方ありません。

同じように、この井関地区をはじめ那智川ぞい一帯では、こうした仮設トイレをいたるところに見かけました。なんとか家に住めても、まだトイレの使用は不可!。ほんと、気の毒でございました。被災、一ヶ月以上も経つによう。


<photo src="v2:1424595428:l">


*朝礼、終了後、直ちに当日の前線を偵察するため、先陣をきってオフロード・バイクの愛機を駆って、広場から飛び出して行く情報参謀の「トムさん」を隊員が見送るの図である。

「なんや、エンジンのかかりが悪そうでおますなぁ」
漏れ聞いた情報では、これも地元有力者のご提供の中古車両とのこと。たしかに「和歌山ナンバー」でしたので。本人のであれば「琉球ナンバー」のはず。トムさん、琉球快男子の見本のような青年でございました。


<photo src="v2:1421710801:l">
武器なくして戦闘はできない。その質量が勝敗を分けるのは、太平洋戦争の日本帝国陸海軍の敗北が証明している。これが、わが絆師団のセンター受付の近くに設置された武器倉庫?だ。これでもまだ一部だから壮観というほかない。多忙時には、これでも不足する様相をみせる。
夕方には、一旦は全て高圧洗浄器でドロを落とし、ここに戻されるが、その後、軽トラで前線の戦場に運びだされるケースも多い。

当初、不審に思ったが、翌日、朝、基地にきたボランティアさんの団体が、その日にすぐ作業にはいれるよう事前に、最前線である被災家屋の庭先へ移動させておくことをしり、その準備のよさに「さすが精鋭師団だ」の思いを新たにした。

<photo src="v2:1424595430:l">

*上の写真をアップした一輪車群。これだけあると、解体や破砕のクギなどで
連日、パンクが発生し、それを修理する「素人自転車屋」も、わしの隠れた作業ちゅうか師団公認のお役目でございました。

なを、この一輪車の「所有者」表示には、「石巻」とか「仙台」の東北都市名がございましたが、なぜか、わしの地元県、「飛騨高山」もかなりの数が。東北は、わかりますが「高山」からなぜに此処に。いま、現在も、その真相はヤミの中であります。どなたか、ご教示いただければ幸いであります。


<photo src="v2:1424595440:l">

その武器庫?に入りきらぬスコップやジョレンは、建物横に整理されるが、それぞれの大小、カタチ、加えて、バールやハンマー、ジュウノウ、ホウキ、ブラシ、カナズチ、クギヌキ・・など、その仕分け作業もラクではない。

<photo src="v2:1424619691:l">

基地の掲示物でこれは本部横の張り紙。上が「ボランテイアはん。遠路、ほんまご苦労様ですなぁ。せっかくやさかい、タダコの温泉に漬かっていきはったらどないでっか」の趣旨で、下が「そのかわり、持ってきおった自分たちのゴミは必ず持って帰ってくなはれ。たのみまっせ」

400人を超えると、弁当の容器や残飯などの量はバカにならず。ゴミで苦戦を強いられているこの町に、問題を上乗せしては支援にきおったボランティアティアの名折れになるよって、当然ですわなぁ。


<photo src="v2:1424619755:l">

*全員が絆師団だ。わしの隣、上品な娘さんは従軍看護婦ならぬ従軍「整体師」のゆうこサンさん。昼間は被災者のサービスで奮戦せしも、夜間、宿泊所に帰営後は、被災者でないわしも、ご老体ということで格別にモミモミしていただけました。嗚呼、えかった、えかった。

その隣、黒メガネの精悍な将校は、軍団の情報参謀のトムさん。オフロード・バイクで被災地の情報収集をなし、的確な作戦を指導。特技に理容あり。
休息中に、この広場で業務用の挟みを取り出し、女子隊員の髪のカットに続き、この老兵のお鬚も。へい、無論タダコでございました。

背後の、「ヤスさん」「せいちゃん」「おざざさん」「マルくん」たちが乗る、戦車ならぬゴミ出し作戦に欠かせぬ「作業用軽トラック」は、歴戦の痕跡にみるごとく、つい最近まで「東北石巻」の災害復旧で活躍していたものです。(絆師団は、石巻市に本部をおく歴戦のボランティア団体であり、故に、今回それを紀州に回送してきたのでアル)

<photo src="v2:1424619695:l">
「仙人」「バンダイ」「ラッキー」と3人の絆戦士がスクラムを並ぶが、わしは新参モノ。右の2人は、その青の軍服に白く染め抜かれた「石巻 協議会」の原隊名に見る如く、絆師団の正統派なのである。

従軍中、トラックにユウボーを掲載し、日帰りのごとく急遽、東北災害地に再度支援におもむき、また、数日でこの前線に引き返し、疲れも見せず直ちにユンボーの操作をするバンダイさんの雄姿に襟を正した次第であります。

<photo src="v2:1424619735:l">
*わしだけが絆師団で、並んでいるのは神戸から日帰りで駆けつけた「外人部隊」というか、気鋭のボランティア集団です。一日だけの激戦が終わっての「強兵4名が老将?を囲んで」の一枚である。
「弱将とちがいまっか」。「へい。間違いおまへん。あいすまんこって。」

<photo src="v2:1424619718:l">

*こうした外人部隊は、職場、地域、学校などで仕立てられた「車両」で、前線に馳せ参じ、馴れぬスコップを手に奮戦して夕刻、またサテライト広場から帰路につく。その「ボランティア・バス」を「ご苦労様でした。では、気をつけてお帰りください」
那智勝浦町長にかわり?お礼の言葉で見送るのも、絆師団の軍律の一局面である。

「記念に後で送りますから」と、見送り時に惜別の情絶ちがたく、わしが強引にバスに乗り込み、強引にシャッターをきった一枚である。

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*ある日、被災しているサテライトの一部屋を、青テントで囲い、看板のごとき被災者サービスがございました。写真のドロだらけズボンにみるごとく、わしもまた心身ともに草臥れておりましたので、丁度、客ナシと、この先生にお願いさせて頂きました。

わし。蜂に刺されたことあるけど、鍼をチクチク刺されたのは、生後74年で初めてなんですわ。
無免許で操作したユンボーに加え、今回の従軍による初体験。いずれも無料のご奉仕活動からえろう儲かった気分でおます。

<photo src="v2:1424595446:l">

*うれしくも、また別の日には、とある業者さんから「氷」の寄贈があり広場で「かわいい地元中学生掻き氷屋サン」がオープンし、作業を終了し次々基地に戻って汗を拭うボランティアさんを喜ばせていました。その方々を見送ったあと、わしたち絆師団も、遠慮なく喜ばせていただきました。

左のおねいさんは地元那智勝浦町から「絆師団」に志願してきた「タッシー」ちゃんで、いわば氷屋さんコンビの部活顧問のお役目を担っていたように拝見いたしました。

<photo src="v2:1421723181:l">

氷屋さんもやってくれた基地のマッコット・ガールの「ミユちゃん」と「エリちゃん」だ。地元の中学生で、休日と放課後には、自分の通学自転車でここに来て一輪車のパンク修理を仲良く。外れぬナットに苦戦をする2人をみて、わしが手をだしたことにより、すぐにわしが指導教官?というか、以後、2人の登校中のウイークデーにおいて軍団直属の自転車屋の重責を晴れて担うことになった。

なを、帰宅後、ミユちゃんからたのしいメーセージをつけ
マイ・ミク申請あり。いやはや。女子中学生のお友達は初めてですわ。
繰り返すアジア・ふらつき旅でも、見つからなんだのによう。

今回の従軍の、ほんとよき記念になり申しました。

(追記)昨日27日、夕刻、「いま、名古屋駅近くで絆師団のOB会をやっています。仙人さんの電話番号を大阪のやっさんから聞き出し連絡するんですが、お出かけいただけますか」

親切なアイちゃんのお誘いで「ちょうど恵那の山から自宅に戻っておるとこ」と勇んで答えて、勇んでバイクで指定のカフェに急行。たのしい総括兼勉強会のあと近くの中華料理店で翌日朝1時近くまで。

なを、お顔なじみとしては、名古屋の「ひーさん」東京の「和助さん」和歌山の「おざざサン」岐阜の「とおるサン」に「寛治さん」たちも。ほんに、なつかしゅうございました。

で、今日は、この日記を自宅で書きつけ、明日からまた仙人宿に隠棲しますんでしばしご無礼申し上げます。

           
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那智従軍写真館=兵営

2011年12月19日 | Weblog
■ 兵営=潮岬青少年の家

東北石巻の災害復旧に活躍した軽トラなど数台の車両で、わが「絆」師団は兵舎としている「和歌山県営・潮岬青少年の家」から、毎朝、 40キロほど先の那智勝浦の災害現場に向かい、夕刻、その前線からここに帰陣する。

その出動時の見送りやや帰陣に際しての出迎えに、兵営の玄関先には、きめられたように、ヤマグチ所長さんをはじめスタッフの笑顔があった。

ボランティア活動のために、和歌山県と勝浦町が費用を負担して、宿泊所として提供してくれていれば、いえば、我らは無料宿泊者。有料の客ならぬそのドロだらけのタダの利用者にこの対応だから勲一等モノに値するといっていい。

晴れても降ってここでの毎朝の光景。「ご苦労様です。仙人さん、行ってらっしゃ~い」。
ここで戦闘帽が振られ、車にかわり戦闘機であれば、間違いなく「特別攻撃隊」の出撃である。「よし、いっちょ、やってくるか」。よぼつき気味の老兵のわしとて、これでは、おのずから背筋がピンとなり、「行ってきま~す」とヤマグチ所長さんに答礼することになる。

「仙人さんは、あのワゴン車でお願いします」。絆師団の兵站を地道に担っている和助参謀が、自分は軽トラの運転席ながら、この老兵には高級将校なみに乗用車の客席を用意してくれるからうれしいではないか。

操縦の労をとってくれたのは、「直吉クン」と「ほっぴークン」の青年士官コンビが多かったが、時として「おざざサン」「とうるサン」、そういえば、ダンプの免許をもつ闊達、明朗女性兵士の「ノンタンちゃん」にもお世話になった。

で、「この席をお借りして、このおいぼれ兵士をジャマにせず、終始、気をくばり可愛がっていただいた和助さん以下、そうした素敵な絆の戦友各位、そしてヤモグチ所長さん以下、青少年の家の素敵なご一同さまに改めまして深甚なる感謝を申し上げる次第でございます。誠にありがとうございました」

ということで、わしは、朝な夕な熊野灘ぞいの景勝地をほしいままにする国道42号線を、もじどうり前線に通勤しとったんです。これは考えようによれば、定年まで飽きるほど通勤を繰り返し、やっと「あぁ、これで晴れて目覚まし時計とお別れだ」と迎えた老後になって、なにを好き好んでと我ながら思はなくもない生活の変化でございました。

あげくに、ガキの頃はオフクロがたらいの洗濯板で手洗いし、結婚後はかみさんが全自動電気洗濯機をつかいやってくれていた洗濯仕事や、布団の上げ下ろしを、慣れえぬまま自身でやる事態になったのだから、わしはこの歳になって、ついモノのはずみで文字とおり「単身赴任」のきびいし運命を志願したことになる。

「おとなしゅう隠居暮らししおればいいんに、アホとちがうか」銃後におるオバサン方の笑いの声も予想されるし、泥まみれの戦場の日々に、ときとして、「われアヤマテり」の思いが老いの胸によぎることもあったが、しかし事実はこの「通勤?」が、人生の晩年に神から与えられた至福の時間であったのだ。

いいきれば、素敵なロケーションにある居心地よき「潮岬青小年の家」の存在と、熊野灘の景観に、わしは戦場の疲れをいやされて、ほぼ一ヶ月、従軍出来たといって過言ではない。

ほんじゃ、ここで「大恩」あるわれらの兵舎「潮岬青少年の家」にかかわる写真を少し並べさせていただきます。

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「窓から海・・なんも珍しい写真やおまへんなぁ。部屋かて豪華とはいえしまへんし」
いわんといて欲しい。この部屋こそ、ほぼ一ヶ月わいが、コテコテに疲れた身体を毎晩癒してくれた自称「極楽の間」やし、窓から望む「海」もただの「海水」じゃあおまへんで。へい。それこそ、観光好きのおばさんがたが、泣いてみたがる「国立公園の熊野灘」なんですわ。「絶景、熊野灘を眺望するホテルを御用意しました」の安物一泊バス・ツアーに比べ、この風景を朝夕、毎日欲しいままに・・・。いや、ほんと、贅沢ちゅうもんですなぁ。

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*♪ 赤ぁかい 夕陽に照らされて~ 友は~

へい。ここは「満洲」ではなく、いまほど申し上げたとうり、泣く子も黙る名勝地は潮岬の前に広がる熊野灘でして、一日の激戦で荒ぶった心も、この夕焼けを目にすると、不思議に穏やかさが戻ったものでございます。

なを、「夕焼けとんび」にかわり、朝にはこの窓べで「イルカ・ウオッチイグ」をたのしませていただきました。

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2段ベット4台で8人部屋。「えろう色気がおまへんなぁ」。すいまへん。男子専用ですので、こない感じの洗濯物になりますわなぁ。
なを、この部屋にわいは、新進気鋭の若き少尉「せいチャン」と老若コンビでほぼ2人だけで暮らしていました。

写真は、込み合っていますが、この日は「中学生の団体合宿」が入り「絆の方は、少し詰めてください」というこって、たしか、主計参謀の「和助さん」や海外帰りの中尉「直吉クン」などが、別の部屋から合流した、とこない次第でございます。

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なぜ、こないリッパな兵舎がタダコで泊まれるか?。青少年の家のロビーに掲出されていたこのこの写真の記事を読んでわしはすぐ納得した。要は、東北大震災で活動した石巻市のボランティア集団「絆」が、そのノウハウや人材を、那智でも生かそうと意図したことにたいし、「それならせめて宿泊先をお世話させていただこう。」

和歌山県と地元勝浦町の議会が一泊、1300円の40人分カケル一か月30日間の費用をそれぞれ半額ずつ負担するよう議決したということ。

正直、わし、10月は九州一周ツーリングの行き先を「まっ、どこで旅暮らしとっても大差なし。なら、生まれ故郷の那智に滞在しておろか。いままでやったことがないボランティア活動ちゅうもんもやらせてまえるようやし」と、いわば遊び心もあっての参加だけに、お泊り代タダは誠に恐縮のいたりでございました。

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玄関ロビーだが、軟弱な観光ホテルでない証拠に、右手後ろに真面目な教育施設の栄誉をになって「天体観測用の望遠鏡」がある。(倉庫には釣り道具もあり、へい、わしも海で実習させてもらいました)

肩を組むのは「仙人さんがいるならと」と大阪から「ビューン」と超大型バイクを一気に走らせて来た好漢「たーぼークン」。今回、初対面。バイクの御縁でメール交換はしとったけどよう。

那智の災害が、「2人を引き合わせた」。不幸中の幸いちゅうこってすかなぁ。ただし、ボランティアは彼が先輩。すでに前に一度ドロ出しに来た実績あり。で、わしが戦場に来たちゅうこって再度の出撃。うれしい青年でおますなぁ。

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皇居の正面には天皇陛下がふさわしいように、青少年の家の表示石の前には所長さんがふさわしいと、無理にお願いした貴重な映像です。

なを、所長の「山口さん」さんだが、自分でも「山ちゃん」と名乗られておいででしたから、「山ちゃん」コンビになります。(わし、戸籍簿が山田で、現職中は仲間からおなじように山チャンと呼ばれておりましたんで)

この所長さんが抜群にいい方。わし、役人時代、こうした青少年施設に関与して多くの管理者をみたけど、この方、間違いなく「全国屈指の所長」だと思いました。

ボケ気味なわしが、褒めても信用されんといかんで、やはり「ドロ出し」で一緒させてもらった岡山の元気な女子大生「ミチコちゃん」の従軍レポートからその一部をちと下にお借りさせていただく次第でございます。

       *      *       *
宿に帰って、館長さんが「お帰り」って言って下さったこと、
本当に嬉しかった

ボランティアさんのために無料開放して下さっている
青少年自然の家の館長さんの温かさは本当に素敵です☆


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朝の出撃前。いつものごとく見送りのため玄関先に笑顔を見せてくれた笑顔のヤマグチ所長さん(中央の青トレナー)と、控えめにその後ろに立つわしに釣り竿を準備してくれた親切スタッフ(地元串本の方です)のゴトウさんを囲んでの一枚です。

なを、わしの隣のモモコちゃん。たしか、この日は京都にお帰りとかで出撃には加わらず、軍楽隊のマーチにかえ、愛器の「サンシン」で沖縄メーロディを奏でてわれわれを送り出してくれました。うれしかったです。

それにしても「爺ィさん。きれいな娘さんだと直ぐに肩に手をかけ・・」
ご批判もございましょうが、わし歳ですよって、杖にすがったり肩に寄りかからせてもらわんと行き倒れになりますよって、格別のお許しをお願い申し上げます。

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これも玄関。わしのように遅れて戦場に来る老兵もおれば、初期から活躍し、また次の任地に赴く青年士官もいる。この朝、「ほっぴークン」と「直吉クン」の少壮コンビは、ヒッチ・ハイクで名古屋を目指した。

手にする「あっち方面」のダンボール表示版が功を奏して、その夕刻には無事到達のメールが入った。さすが若いですなぁ。(真ん中は、見送りのせいチャンで、彼がわしの同室者です)

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この夜は、絆専用の「テラス食堂」でわれらが主計参謀和助さんの「お誕生会」が、女子隊員手作りのケーキを囲んでたのしく開かれた。前線にちかいからと、現場で「車泊まり」している情報参謀のトムさんも、格別にこの席に駆けつけた。この当時の、いわば絆軍団のメンバー揃い踏み?の一枚といっていい。

なを、テラス食堂は「レストラン」はあるも青少年の家に自炊する場所がなく、困窮している絆軍団に、ヤマグチ所長さんが、管理規則を超法規的に運用して、屋外テラスにテントを張り、ガス・ボンベを並べて「好きな時間にお好きなように」と格別のご配慮により開設されたもの。(多分ネ)

硬い役所の姿勢ならまず駄目。管理の「民間委託」に加え、類いまれなサービス精神と笑顔をもつたこの所長さんがいればこそと改めて感謝したい。

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食材は、新潟県からのコシヒカリにはじまり、野菜や干物、あるいは麺類、インスタントもの、飲み物など、土地の名産を含め、「ご苦労頂いているボランティアの皆様で」とありがたいことに結構、全国各地から届けられていた。

しかし、これは、和歌山漁協からの善意の差し入れではない。へい。うそもかくしもなく、わしが「串本漁港」でこの「アジ」をぜ~んぶ吊り上げたんですわ。大漁でっしゃろ。その数は赤穂浪士にピタリと合わせたごとく47匹。

へい。チト小さめのサイズを選んで?釣りましたんで、ぜ~んぶ空揚げにして隊員みなさまにぜ~んぶお召し上がりいただきました。(背後の娘さんたちは、空揚げ女子隊員です)

なを、この「釣り」に関しては、関係者みなさんに、ほんとうにご心配をおかけし、改めてここでお詫び申し上げます。と、いうのはですねぇ・・

かねて所長さんから、「いま、港では素人さんでも、入れ食いでっせ」「備品の釣り竿もお貸しします」という極秘情報をわし、貰っておったんで、貴重な休日。「ぼく、ガンガン釣ってくるけん」と、親切所員のゴトウさんに頼み、道具を借り出し、エサ屋と釣り場所をご指導いただき、串本漁港の波頭に行きました。

ところが、釣り人の姿はありません。土地のひとは、アジ君達は夕方から港に御来客されることをご承知だったんです。まっ、そうわいうけど、わんさか海中に生活しているアジのなかには、早めの夕食をするため、わしの「こませ籠」によりつく慌てモノもいるだろうと根気よく竿をだしましたが、やはりだめでした。

ところが、日が沈み、波止場の照明電灯が点くのをまちかねるように、アジくんたちが、隊列をくむように港内に回遊してくるじゃあありませんか。
ほんと、面白いように釣れますが、えらいもんですなぁ。いつまでやっておってもこの海洋資源が枯渇しないんであります。(町のパチンコ店なら、間違いなく打ち止めでございます)

ですから、つい、夢中になって時計の針を忘れておれば、夜も8時すぎでしょうか。携帯電話がなり、「いま、仙人さんが行方不明ということで、絆メンバーが大騒ぎしています。いったい、どこにいるんですか?」

朝から、ひとり海に行き、夕食になっても姿を見せないわしが、どこかの岸壁から原付きバイクで転げおちた危惧があったんでございましょう。

「すいません。串本漁港の波止場に・・」
「すぐ迎えに行きます。そこで動かないようにしていてください」

ほどなく、サイレンを鳴らさんばかりにして港の岸壁に車をとばして来た八重さんとシオタンちゃんに付き添われて、わしは恥ずかしげに青少年の家に生還したのであります。

それにしてもこの事件では、朝、釣り竿をかりだしたことで、自分のこの日の行動は白日のもとに明らかになっておると過信し、絆師団の誰にでも「釣りに行く旨」を上申をしていなかったわしの責任は重大。アジのから揚げ47匹ではお許しいただけないことは重々、承知いたしております。いいとしからげ、ほんとうにすいませんでした。

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その行方不明になったわしを救出に来てくれたシオタン(わしの右)と八重さん(その隣り)が写っている仮設テラス食堂?での一枚である。上のテントに泣かされるではないか。急遽、こうした準備をして絆軍団を受け入れてくれたヤマグチ所長さん以下、青少年の家のスタッフご一同さまには感謝の言葉も無い。

なを、わしの背後。暗闇の海にポツンの白い灯りは、熊野灘の「いざり火」ですが、なにを漁るのか不詳ながら、詩情があってなかなかのモンでございました。


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♪ 後に心は残れども~ 残しちゃならぬ この身体ぁ~
  それじゃ行くぜと 別れたが~ ( 軍歌 戦友)

いよいよお別れの朝だ。2日後の10月29日にかねて約束の青年たちが「仙人宿」に御来駕ということで、お世話になった潮岬青少年の家を愛機の原付きバイクに跨り後にした。

♪ なんで男だ 泣くもんかぁ~ 噛んで堪えた感激も~ 

                      (軍歌 遺骨を抱いて)

涙はみせないが感無量である。

左が、後半戦で女子隊員が不足したため志願するように、絆・料理長シオタンの助手をつとめた岸和田の安さん。時として、わしと組んで「床はがし」の工兵役でも奮闘してくれました。

右がお地元が串元の奥様で、朝に夕に青少年の家の自炊場に笑顔を見せ、献立とその調理、さらには土地勘があるだけに不足する調味料や食材をただちに買い付けに走るなど、絆軍団の胃袋を支えるのに献身的に貢献いただいていた八重さん。

シャッターは、従軍中のわしの老体を、いつも自分の祖父のように労わり、優しい言葉をずっ~とかけ続けてくれていたシオタンが押してくれました。
安さん、シオタン、そして八重さん。最後の見送りまでもありがとう。
いつまでも忘れずにおるでよう。

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帰宅後、すぐにクロネコ・ヤマトで届いた串本からの宅配便の荷物です。
原付きバイクには荷が重すぎて危険というシオタンちゃんの助言で、ドロまみれの作業着などを手じかにあった土嚢袋に積めて別送したんですが、
その封印に使われた二本のガム・テープには、ちとハジカチイけど・・

 「皆を いやしてくれてありがとう」
 
 「仙人さん LOVE by ALL 絆メンバー!!」

わざわざ街中のクロネコ・ヤマト店に同行し手続きを手伝ってくれたシオタンちゃんがわしの目を盗んでやった仕業に間違いありませんが、しらなかっただけに届いてビックリ!。ほんと喜ばせてもらいました。なを、これを丁寧に外しスクラップに貼り今回の那智従軍の最大の思い出品として「我が家のお宝」にさせていただいた次第です。シオタンちゃん。ほんといい娘さんだなぁ。心から感謝しとるでよう。

なを、「わしの目を盗んで」の事情は、発送窓口でわしはもうひとつの荷物である「アジのトロ箱」の送付伝票を記入中だったんですわ。アジはこの日夜明け前に串本漁港にバイクで走り、いま着いた漁船から市場に山積みされたものすごく生きのいい、ものすごく大量の小アジの一部を、わしが仲買人にさき立ち、直か買いで手に入れたものです。


ひと箱に「数百匹」のアジ。もちろん我が家で食べきれるはずはなく、わしはこれを「那智従軍の戦利品」としてかねて世話になっている仙人宿のある小集落の代表宅に直送し、全戸に配布を依頼しました。岐阜県やで海はあらせんし、山の中の過疎地帯やで魚屋さんはむろんスーパーもあらせんもんで、新鮮な魚はほんと喜ばさっせるでよう。

というわけで、農作業が下手くそで、できの悪い野菜でがまんしているわしを気の毒がり、つぎつぎリッパな作物や、わしが失敗しがちな白菜などをいつも運んできてくれる親切な集落の方々に、とりあえずはささやかでもその義理をお返しすることが出来た・・これもまた那智従軍のお陰だなぁと改めて感謝している次第でございます。



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那智従軍写真館=戦友

2011年12月19日 | Weblog
■ 戦友=笑顔の仲間

「いいですねえ、、どの写真も、どの笑顔も!」
前回の写真館4に、いつもながら早速にこのコメントをおつけいただいたのは京都のマイイクさんでわしがつとに文人と崇める「美森さま」

感謝いたしつつ思ったこと。「そうや、まだ、紹介したい笑顔がいっぱいあったんや。」と、いうのはですねぇ。

わし、今回の従軍で、目を奪われたというか、最大に学んだことはじつは、この「笑顔」なんです。恥ずかしいことながら、この歳になるまで、この「笑顔」というものが、これほどの「力」をもっているとは!

いや、ほんと。驚きちゅうか、想像を超えとったというか・・とにかく今回は、
それを体験した貴重な日々だったんでございます。

そこんとこの理由をチト説明させてまうと・・
わしは人間を「働かす」力は、月給と指揮監督による命令、それを法的にささえる各種人事管理規則にあると、自分の長い役人生活で骨に染み込んでいたんですなぁ。

ところが、驚きも、驚き。今回の従軍で目にした光景は、そんなもの「な~もなし」でも、嬉々ととして泥まみれでスコップを手にする数多の戦友たち。
上司や部下の階級もなく、もちろん「命令」など一切なし。月給という「エサ」もない。そんでも、誰ひとり文句もいわずドロにまみれて・・

じゃあ、その「労働」「やる気」「士気」の源泉は、どこにあるんやろか。いうまでもあらせん。これが「笑顔」につきるんですなぁ。

働く「力」ばかりじゃありゃあせん。ひとつの作業チームやからリーダー役や調整的立場、ときによれば指導的な位置に立つ仲間がおるけど、それとて彼らになんら権力や権限があるわけでなし、いきつくところチームを纏める「力」は、その笑顔であることが、よう解かりましたわ。

まっ、考えれば当たり前。「不愉快の思いまでして働く必要なし。叱れたら、その場ではいさようなら」「やめたからといって罰則規定がるわけでなし」「もともと月給もなし」。あるのは「笑顔」だけ。

というんで、今回は、最強「絆軍団」の「力の源泉」である最強の「笑顔」の一斉射撃というか乱れ撃ちでございます。
よろしくその「笑顔」を「御笑覧」いただきますようお願い申し上げます。

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神戸から日帰りで来て、終日ドロ出し作業して、そんで疲れた身体でまたバスに揺られて数時間。バスで帰るのにこの笑顔!

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左・青少年の家のスタッフ「オザキさん」。所長さんからの特命で「絆軍団」の一員としても活躍。風呂のボイラー故障時には、わしたちをバスで、別の温泉ホテルに送迎してくれていました。感謝。

右・ダンプの運転もできる大阪の元気娘、「ノンタンちゃん」。大型バイクもお好きなようで、情報参謀のトムさんのオフロード・バイクにも跨っておいででした。

<photo src="v2:1446102090"> <photo src="v2:1446101966">

左・「ノンタン」「仙人」、わしとず~と相部屋だった「セイちゃん」。この後、アメリカにわたり目下、神父になるため勉強中のたしか群馬青年。

右・大阪の女性レーサー?「シオタンちゃん」は、後半戦の炊事部長。で、岸和田の「安サン」は、志願して彼女の助手役?として大活躍。

<photo src="v2:1446101901"> <photo src="v2:1446086433">

左・ 絆軍団の最強トリオ?「マル君」「とおるサン」「おざざサン」。被災した保育園を使っての基地であることより、いまだ土嚢が積まれている。

右・ケイコちゃんはかわいい理容師さん。「めし食うのにじゃまになるんだわ」というわしの頼みを聞いて早速に食堂の片隅で文房具の「挟み」を使い、唇の上のお鬚をジョキジョキと揃えてくれました。

<photo src="v2:1446086383"> <photo src="v2:1446086377">

左・「ラッキーさん」「和助さん」「ケイコちゃん」「おざざサン」を、絆食堂の2階からわしがパチリ。なを、絆食堂はサテライト基地の当方500メートルほどの被災した留守民家を軍団の「溜まり場」として好意で借り受けた場所とのことでした。

右・玄関先の「たけチャン」。この看板?とこの笑顔ですから、乗せざるをえないはずです。で、たけチャン。その後は次の活動拠点を求めて北海道に出発しました。

<photo src="v2:1446086365"> <photo src="v2:1446086352">

左・串本の兵舎前から、故郷の岐阜県中津川に笑顔でまた帰還する「とおるサン」。この快男子。仕事をこなしては、毎週のごとくこの戦場に来るから凄いったらない。関西からの戦士はわりに多いけど、中部から通ってくるとなると珍しい。彼、その後、忘れ物など届けに、恵那の仙人宿に2度ほどこの笑顔を出してくれました。中津川市は恵那の隣町やでよう。

右・爺ぃのわしとちがい、控えめな笑顔の女性やけど、さもありなん。みなさん、お役人の親戚筋ともいえる「社会福祉協議会事務局」の有能なスタッフなんです。で、本部から選ばれて、この基地サテライトに常勤。

被災者の要望を汲み取ったり、われわれボランティアの必要資材を手配したり・・控えめながらモクモクとその任をこなされている姿には、従軍中のあいだいつも感心していました。

<photo src="v2:1446086327"> <photo src="v2:1446086318">

左・「おざざサン」。たしか和歌山の方で継続して参加。これからは住居を被災地に移し活動をされる意向を先日お伺いしてさらに敬服。年配の落ち着きさが光り、静かにいつも「おいぼれ戦士」のわしの身を気づかって頂いていました。

右・よくわかりませんが、想像するに神戸の社会福祉協議会あたりが主催したらしい「那智を助けに行こう日帰りバス」で来て、いい汗をかいた笑顔のみなさんと。この笑顔を見れば「ボランテイア」参加も、まんざら悪くもなし・・そう思えるじゃあござんせんか。

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左・神戸の大学生(晴れて合格して来年4月から小学校の先生)と京都の「ももこチャン」。顔だけじゃあなく、もう全身の笑顔!。若いちゅうこっことは、ほんまよろしゅうおますなぁ。

右・日帰りで、「ドロ出し」にきた白浜市役所の有志青年職員の雄姿でおます。ドロにまみれも「怒っている顔」でなく、この「笑顔」!。休息中の一枚です。

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左・ 大阪茨木の「フルカワ君」と、青年の家のロビーで。たしか今回の従軍で最初にメール・アドレス交換させてもろうた青年ですわ。間違っていたらごめんなさい。

右・ ご紹介ずみの、わしのお地元におる「とおるサン」ですわ。絆軍団の仲間が仙人宿に来てくれるときは、彼を呼び出すで、事前に連絡をしてちょうだゃあ。近いとこやで、多分、とおるサン、喜んで顔をだしてくれるはずやでよう。

<photo src="v2:1446110501"> <photo src="v2:1446110460">

左・ボランティア活動の「大本営」といえる「那智町社会福祉協議会」の建物を背に、その職員の「カワグチさん」と。多忙な身を、時々、前線基地に運び活動を支援していただいていました。

右・紹介ずみの「しおたん」ちゃんです。ほんとうに、親切にしてくれました。
床の土嚢は、土砂の流入で敷居や床板がいまだ破損していて危険なため歩行の安全を図るため並べてあるように拝見しました。

<photo src="v2:1446110446"> <photo src="v2:1446110441">

左・自分の会社の「トラック」を基地に持ち込み、自分で連日運転してガレキを処理場に運んでいた、ニュッネーム?が「社長サン」。この晩は自分で鰺の味醂を買ってきてビールで一杯。「仙人さんもどうでっか」のお誘いに、下戸のわしはその焼いているアツアツの味醂をおやつに頂き・・うれしそうに指でつまんでいるのがそれでおます。

右・わしの隣にニッコリしている美人娘さんは、わしの自宅がある尾張旭市の隣にある豊田市から来た「ヨンちゃん」やで、いわば「隣組み同士」。だで、お隣りで肩をだいておるんでございます。すいまへん。

<photo src="v2:1446110437"> <photo src="v2:1446110427">

左・紹介ずみの岸和田の「安サン」と並んでいるのは、大阪から休日をつかい参加はもう数回目になるというOLの「ニシさん」。お一人で自主的にちゅうこってすので感心させてもらいました。

右・わしの自宅と同じ愛知県から、「とおるサン」の車で拾ってもらって那智にやってきた絵描き?の「タネやん」。いまは既に、あの陸前高田市に出向き町おこしの復興活動に活躍しとるんやから、ほんとエライもんですわ。

<photo src="v2:1446102244"> <photo src="v2:1446102235">

左・地元の中学生の「まさるクン」やけど、学校の休日には自転車でサテライトに来ては、大人のお手伝い。よく、わしのソバにいたせいか、絆隊員から「仙人の孫だな」とよばれ、その後、わしの書いた「絆=仙人の孫」というガム・テープの名札を胸に貼りニコニコ活躍していました。

右・イケメンのマル君やけど、片腕懸垂おてのもの。ワイアーにぶら下がりサテライトの屋上に登ったのには驚き。その腕っ節と腰に2丁拳銃のようにぶら下げた自前の工具類を使い、即席、解体屋?のわしに最後の日まで、ほんとよく加勢してくれた好青年でございます。

<photo src="v2:1446102229"> <photo src="v2:1446102214">

左・陣中見舞いの差し入れを掲げて喜びの歓声をあげる絆軍団の主力戦力といっていい「せいちゃん」「トムさん」「マルくん」の若手トリオ。うち、トムさん、マルくんは今日現在いまだ那智の前線で活躍中。すげぇ~。

右・ご紹介ずみの、わしにとり「函館の女(ひと)」ならぬ「串本の女(ひと)」
従軍中、ほんとようしてもらって。「また、♪はぁるばると 来たぜ 串本に
~」とお訪ねする日をたのしみにしております。

<photo src="v2:1446102209"> <photo src="v2:1446102197">

左・ご紹介ずみの岸和田の「安っさん」。解体稼業や食事ではすっかりお世話になって。それと、わしが怪我で病院通いしたときは、いつもその迎えの心配までしてくれて・・へい。出動時は病院前で途中下車、しかしその後が問題。それを昼食運搬役の安さんが、時間をあわせて拾ってくれはりました。おおきに。

右・「トッピー」さんと、その車に志願して乗り込みドロ出し作業に従軍した国立岡山大の元気な女子大生たち。その「トッピーさん」。知りませんでしたが、ボランティア活動でその名が知られる「大阪ダッシュ隊」という集団があり、その中でもすでに東北の被災地などにも急行した歴戦の将官クラスと拝察申しあげました。

<photo src="v2:1446102178"> <photo src="v2:1446102173">

左・雨の中でも、この笑顔!。青カッパの女子大生のコは、なんと「おいぼれ解体屋」のわしを見かねて、その細腕にバールを持ち、娘だてらに床剥がしに参戦してくれました。エライ!

右・こちらは、たしか国立大阪大学の「ボランティア・サークル」のはず。いま
どきは、そうした部活?がある時代なんですなぁ。ところで、このサークルは「体育系」か「文化系」か?。ドロ出し作業からみれば、限りなく「体育系」ではないかとわしは思うとります。

<photo src="v2:1446102166"> <photo src="v2:1446102119">

左・こんなかわいい女子大生の笑顔にに囲まれれば、いかに疲れ果てたわしでも、目じりが下がり頬がゆるむんでございます。

右・ 地元の方々も参加しイベント的に開催された「お祭りムード」の「市野々小学校を美しくしよう」復旧活動。その運動場の花壇復活のため大量の花の苗をあちこちの花屋さんに寄贈してもらい和歌山市から運んで来て、作業したのがこの素敵な娘さんたち。この日は、青少年の家の「ヤマグチ所長さん」も串本からお手伝いに。さすがですなぁ。

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左・ 那智勝浦にきたかたにゃ、「那智の滝」に表敬は日本国民の義務であろうと、丁度、この日、那智神宮の参道ドロ出し作業に来たついでの一枚です。神聖な場所やから、みんなやや神妙な顔でございます。

右・たまには「ホンダさんも娘さんと並んで一枚どうですか」。照れ隠しのようにわしがお声をかけた写真のホンダさん。前歴が本職の大工さんで、今回はわしにとり親方のような存在で、実に多くのことを勉強させて頂きました。

<photo src="v2:1446067370"> <photo src="v2:1446067365">

左・ 「京都のイワサキ」「福島のホンダ」「大阪のツダ」「名古屋のヤマダ」
の絆軍団では、やや年配組みの一枚です。なを、東北石巻でも活躍されていたツダさんは、今回の絆軍団では「師団長」格のようにお見受けしました。追記すれば、写真がありませんが「参謀総長」は「名古屋ヒーさん」、幕僚の参謀は「和助さん」と「トムさん」・・まっ、そんな感じでございました。

右・ご紹介ずみの地元那智勝浦在住の若奥様たちですが、後列の白マスクの「S君」が問題?。わしとなぜか気が合って、この日も「仙人さんと一緒に」と志願してこの現場に来てくれたのはええですが・・

ここのガレキを軽トラで処分場に運びだす途中、道不案内のわしに、地元の彼が「俺が代りに運転してもええです」の助け舟で、ハンドルを交代。これはラク?になったとよろこんでおれば、基地に戻ったところで情報参謀の「トムさん」が大声で「あっ、仙人さん。彼に運転させちゃ駄目ですよ。無免許ですから」のご忠告。

ニッカ・ズボンを穿き慣れた様子でよく働くかわいい奴でしたが、さすが情報のはやい「トムさん」は、その彼が未成年であることを知っていたんです。警察に捕まれば、これは本人より、わしの責任が大!。申し訳けないことでございました。

<photo src="v2:1446067359"> <photo src="v2:1446067329">
左・ご紹介ずみの「とおる」とわしに挟まれているのが、「花子ちゃん」。大阪で働いておいででしたが、実家が那智勝浦ということで、急遽、戻って毎日、自宅からサテライトに出動の娘さんです。健気なもんですなぁ。

右・予科練のごとく初々しい「ほっぴー君」と、地元から連日、「女子挺身隊」としてひとり参戦していた「タッシーちゃん」のたのしきツーショットでありま
す。

<photo src="v2:1446067325"> <photo src="v2:1446067271">

左・わしが除隊の最後の日まで、献身的に加勢してくれた快男子「マル君」。もし、またいずれかの戦場に出ることがあれば、「彼と組んでならば、この老体が朽ちはてても悔いわなし」の思いでございます。

右・絆軍団の自称「シルバー隊」です。多分、年齢が上位3人。別名、解体請負業「ホンダ組」。左が棟梁の資格と技術と自前の工具をもつ「ホンダさん」。わしより先輩の一番弟子で、京都市の民生委員の職にある「イワサキさん」。へい。わしは新入りの徒弟です。でも、ここでの手伝い仕事を通じて、田舎暮らしに役立つ工具の取り扱いなど随分、勉強させてもらい感謝なんであります。


■ お詫びとまとめ 

絆、皆さんの許可をいたただくことなく適当に写真をならべたて、適当なコメントを付け加え・・それが多分に、間違い、勘違い多ければ、またよろしくの叱責をお願いいたします。

それにしても、この「笑顔の群像」の仲間に入れていただいたことは、わしの生涯にとり、かけがえのない喜びの日々でした。

「ひーさん」「つださん」「和助さん」「トムさん」をはじめとする「絆の皆様」、そしてその活動を支えていただいた「青少年の家」や「社会福祉協議会」の皆さん、更には、地元や全国各地からのボランティアの皆さん。

こんな爺ぃと御一緒いただきほんとうにありがとうございました。心からお礼を申し上げつつ、みなさま方のご健勝と、かわらぬ御活躍を念じております。

また、どこかで、お会いできる日をたのしみに・・・ 仙人こと感謝の敬助
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那智従軍写真館=休戦日

2011年12月19日 | Weblog
■ 休戦日=熊野灘観光

♪ 海の男の 艦隊勤務 月月火 水木 金金~

土・日なしの大日本帝国海軍のヘイタイさんほどではないにしろ、今回の那智前線は、この老兵にとり全27日間の従軍期間中、お休みしたんは、なんと、たったの「2日間」だけという誠に厳しい勤務でございました。

「耐えがたきを耐え、忍びがたき忍んで」長い年数、こき使われた「役人時代」でも「週に2日」は休みやったのに・・・賃金ももらわんと、あげくに、この過労といってもええ「被災地ドロ出し勤務」!

こんな労働を「労働基準監督局は見逃しておっていいのか」「国会もその問題をとりあげんと・・寝ぼけておったら許さんでぇ」「政治の責任者はいったい誰なんや」

と、わしがほざけば、「なにいうてはりますや。赤紙きての徴兵ならしかたおまへんが、爺さん、自分の体力もかんがえんと勝手に志願して前線にのりこみはったんやおまへんか。難儀なんは、そない役立たずの老兵に参戦された絆軍団のほうでっがな。ほんま、よう、いわんわ」

ただちに反撃されるんで、この労働問題は「継続審議」に棚上げして、今回はその貴重な休戦日のご報告でございます。

さて、貴重な休戦日となった一日は、恥ずかしながら戦場における名誉の負傷にともなうモンで、その事情とは・・

ある日の夕刻、ドロ出しの激戦が終わり、サテライト基地から「われら絆軍団の溜まり場、いうところの絆食堂」に自分の原付きで向かう途中、心ならずも雨のためスリップによる転倒。腕と腰を痛打の悲運。

駆けつけたパトカーのお巡さんや、後続して走っていた「直吉くん」や「はなチャン」に救出され、直ちに「町立、那智勝浦温泉病院」に搬送。前日に詣でた熊野権現のご加護か、入院にはいたらず直吉くん付き添いのもとその日は宿舎に。

翌日は、毎朝、わしの出動する車を手配してくれる「和助参謀」が、「仙人さん、無理はいけません。今日だけは休んでください」。いわば上官命令で、はじめての休戦日。終日、おとなしくベッドで休ませていただきました。

いわば、この私的休日にたいし、それから暫くたって今度は偶然に「公休日が発令されてよう。現実、復興支援に休みなしが鉄則の活動にこれは珍しいこと。

末端の老兵には、なぜにの事情はわかりませんが、もれ伺えば、前日に、わが絆軍団の仲間ではないが、おなじ場所で作業していたご老人の方がどうも急死したらしいこと、さらに別の現場だが、ドロ出し作業中に散弾銃の弾が発見され、一歩まちがえば、ボランティアに死傷の危険があったことから早急に役場や警察を含めて対策を講じる必要がある。

そんな、こんなで、いわば「ご老人の喪にふくする」「関係者が、散弾や危険な薬品などの処理を相談する」ため、その日、わしたち兵卒は「休日」を賜わった・・とこない次第でございました。

それじゃ、早速に、そのうれしい休日を使い、バイクで観光した「ローマの休日」ならぬ「熊野灘の休日」のお写真を一挙、掲出させていただきます。

 <photo src="v2:1454453356"> <photo src="v2:1454453354">

左・ いざ、宿営地「和歌山県立青少年の家」を出発。どうでっか、この壮大にして静謐な県立施設のメイン・ゲートが無防備である日本国家のよさ。体験的にいってインドやパキスタンあたりでは間違いなく銃を担いだ歩哨?が睨みをきかせておりまっせ。

右・ すぐにこの看板だから、目指す灯台は、申し訳けにゃあぐらい近い。

 <photo src="v2:1454453320"> <photo src="v2:1454453319"> 

左・ 「黒潮前」と「熊野交通」の文字を掲げるバス停の名称にも、旅情を誘われるじゃあござんせんか。

右・ 広大な芝生をもつ「望郷の丘公園」越しに、潮岬燈台を望む。熊野国立公園の目玉的ポイントやけど、それにしてもわしを除き、観光客が全部死に絶えたように人影がない。

 <photo src="v2:1454453310"> <photo src="v2:1454453359">

左・ 有料だったんで、燈台に登らずポツンと退屈顔しとった料金徴集おばさんと昔話をしただけでここをサイナラした。話というのは、「わしは生まれてはじめて覚えた岬の名前がここやったんですわ」「けたたましきサイレンとともに、空襲警報発令!空襲警報発令!。潮岬南方150キロ洋上にB29の編隊約150機が来襲・・」

「ほうした放送を聴くたんび、防空頭巾にイガグリ頭を突っ込んで防空壕に退避しとってよう、その繰り返しのガキ時代やで、この潮岬の地名がなつかしいんですわ」。てなこって、旅先では妙に「回想」に浸るクセがわいにはあるんでございます。

右・ ♪ ここは串本~ 向かいは大島~ なかを取り持つ巡航船~

これは、「大島」にバイクに駆け上がって来て、取り付きにあった展望台からの一枚だで、向かいが「串本」ね。
ほんで、縄文時代以降ズッーと海で離れておって、間を巡航船・・いうところのフェリーでおますなぁ、それで結んでおったんやけど、最近、写真のようにどえりゃきゃにゃあリッパな橋が出来て船はお払いばこ。

だで、この有名な「串本節」は、今はウソになってまって。気の毒だわなも。

 <photo src="v2:1454879749"> <photo src="v2:1454457884">

左・ 「トルコ記念館」。これが琵琶湖の「雄琴」にあれば「トルコ風呂」と勘違いされるかもしれないが、ここ大島では、昔、この目と鼻にある熊野灘で難破した「トルコ軍艦」を救援した記念であることは、子供でも知っているのである。

なを、写真片隅に「日本赤十字社和歌山支部」が「トルコ軍艦遭難時に救助・介護にあたった人々と赤十字の博愛精神を忘れることなく平和を願う心をデザインしました」とうれしそうに解説した「日本赤十字社・平時国際活動発祥の地」記念碑が写っておりますやろ。

なら、赤十字社の「戦時国際活動発祥の地記念碑」はどこにあるんか?。
旅順港を見下ろす「203高地」には無かった覚えやし・・旅はまた疑問を生む勉強の場でもあります。

右・ この看板に誘われて、大島の先端に進みました。自動車乗り入れ禁止の表示に徒歩で汗をかきましたが、現実には、原付きバイクはいいようでソンをこきました。原付き愛好者は覚えておいてください。

 <photo src="v2:1454457874"> <photo src="v2:1454457864"> 

左・「土耳其軍艦エルトグルル号殉難将士之霊地」と門柱にあるとうり奥にデカイ記念碑、それを囲うように将士のお墓が並んでいる。なを、門柱に写っている軍帽とショウルダー・カバンは、彼らの遺品ではなく、わしのモンでここを表敬した証拠記念でごぜぇます。

右・ へい。同じく、この燈台に来た証拠写真ですわ。ちらりと屋根が見える官舎は、日本で最初の「石つくり」だそうです。

 <photo src="v2:1454457867"> <photo src="v2:1454457891">

左・その樫野崎燈台に登らせてもらいましたが、潮岬が有料に対し、こちらはタダ。おんなじ熊野灘を眺望する国営?の燈台やにおかしねぇーか。海上保安局局長殿。

右・ この島の名所「海の金剛」である。景色はいいが名前がよくない。「海」
は当たり前。有名な「能登金剛」のごとく、固有名詞らしく「紀伊金剛」もしく
は「串本金剛」もしくは「大島金剛」にすべきではないか・・

ボランティア活動を取材に青少年の家においでになった「串本町広報課」の職員に、僭越ながらわし提言させてもらったで、次回から、観光地図には「紀伊金剛」の表示に変わるかも。どこの役所も保守的やで多分、駄目ネ。

 <photo src="v2:1454464067"> <photo src="v2:1454464043"> 

左・ 大島にあるこの「日米修好記念館」は、津波や地震で傾いたのではない。下田に来たペルー提督さんに先立って、ここにあんまし有名ではないけど、やっぱしアメリカ海軍のお船がなも。

だで、その煙突をイメージをした・・とそないこってすわ。幕府に開国を迫ったペルーさんは2番手だったとは、わし、この歳までとんと知りまへなんだ。

右・ 珍しくもない普通の大島漁港だが、写真左すみの「本まぐろ・養殖体験・待合所」の建物が示すように、世界で始めて「マグロの養殖」に成功した近畿大学の研究施設がここにあるのが珍しいのであります。

このあと、「クジラの養殖」をはたしてどこの大学が手がけけるか?
「そんなアホな」。わしもそう思いますわ。

 <photo src="v2:1454464054"> <photo src="v2:1454464062">

左・ 人がさっぱりおらんこの漁港の光景をひとりじめしながら、ピクニック気分で「いまチャン」が親切に持たしてくれたお昼の弁当を岸壁に腰を下ろしてご馳走になりました。

右・ この朝、炊事担当主任格の「いまチャン」、ボランティア活動に行くのではなく、バイクで遊びに出るわしに「はい、お弁当を作ってあげました」とにっこり顔してこれを手渡ししてくれたんですわ。

頼んでも「そんな遊びに出かける人に、アカンベーよ」と断られても仕方ないのに、黙っておってこのご親切やで・・

それに、特製お握りに加えデザートのミカンに、なんとお絞りまで。かぁちゃんでも、そこまで気を配ってくれるとはかぎりませんわ。わし、涙がでるぐりゃあうれしかったです。いまチャン、ほんとありがとさん。感謝しとるでよう。

 <photo src="v2:1454464040"> <photo src="v2:1454464031">

左・ 潮岬から紀伊大島へとバイクで遊び、午後はその串本町のお隣り、「大地町」へ。ここ、反捕鯨団体から国際的に「くじらイジメの町」として、いつもイジメられておるんで、様子を見に、「くじら公園」になも。

その公園への道ですが、写真のようにひっそりこんとして、わしを除き怪しい人影はございませんでした。にしても、椰子の並木がええですなぁ。ハワイに行かんかてここでよろしゅうおまっせ。

右・ 大地のくじら公園にこの看板が立っていました。ここから近いんです。わし、以前に原付きで紀伊半島を一周しとき、この博物館を表敬したんです。ドラゴンズのユニホームがスタッフの制服なんでございましょう。

ソレをうれしそうに着て、入り口を掃除しているおねぇさんに入館料を聞きましたらド高いことをいうんで、即刻、敬遠させていただいた覚えです。へい。落合監督の年酬に比べれば安かったけどよう。

 <photo src="v2:1454464098"> <photo src="v2:1454464100">

左・ 名勝「橋杭岩」です。「地中海など目でなし」。わし、日本の世界遺産は、その海洋美にあると信じていますが、その中でも熊野灘、その中でも、この「橋杭岩」がトップ・クラスに思えるんでございます。

それにしても、その海洋美をわしのバイクが独り占め。かつ、それが無料。
日本国家も捨てたものじゃあござんせん。

右・ 海洋美の多くは、その海岸線が生み出すもの。今回の台風12号はわしが自慢の熊野灘の沿岸をかくのごとく台無しにしてくれた。でも、自然災害はしかたないし、また数年で回復もしてくれるだろう。

許しがたいのはやはり原発による汚染や廃棄物のごとく子々孫々までツケを残す人為的かつ犯罪的行為とわしには思えるんですわ。

ということで、わしは今回の「那智従軍」のおまけとして、名古屋からの串本への往復、宿泊地から基地への毎日の通勤、さらに今回の休日観光で、熊野灘の景観を存分に味あわせてもらった。

「日本は、資源がないというが、海岸線ではその質と量において世界屈指の国家である」

たしかに、その総延長もしかりなら、景観や海産物さらには数多の港湾など内陸国家はむろん中国やロシアなど含め、世界各国は羨望しているにちがいない。

そんな「貴重な海岸線」に、人類の歴史上「もっとも危険な原子力という生産工場」を次々と配置したわれわれの罪・・朝夕、熊野灘を目の当たりにして思うことは、やはり原発汚染の問題でした。


・・・・という感慨で、とりあえず、老兵の従軍写真館は閉館させていただきます。ご覧いただき誠にありがとうございました。

いよいよ年の瀬。皆々さまには、風邪などにご注意いただき、よき新年をお迎えいただきますようお祈りいたしております。

    2011・12・18

3年ほど前の夏、北海道ツーリングの折に遭遇した「リヤーカーを曳き沖縄から日本一周」をしていた「男塾」を名乗る快男子が、先日、その友人と雪の北アルプスを攻めた帰途、仙人宿にご来駕。うれしき邂逅。

見送ったあと、田舎屋でしばし独居老人ぐらしをしておれば、こちらにも寒波襲来で昨日から粉雪が舞えば、命あってのモノだね、早々に退散して戻ってきた自宅炬燵の中にて記す。     
                             寒がり敬助   
   
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那智従軍写真館・3 編集= 2011年11月28日

2011年11月28日 | Weblog
■前線基地=井関サテライト

わしたちは、毎朝、この基地で点呼を受け、作戦方針を聞き、小隊ごとに別れて各戦場に赴く。その際、「きょうも突撃するぞ~」の団結の雄たけびを円陣を組んで発するのがわが「絆軍団」の軍律なのだ。

その基地となっている場所が、那智勝浦町は氾濫した那智川の「井関地区にある「町立井関保育園」であるが、なぜここがサテライトになっているか・・

へい。暫くしてからわしが理解したところによればですねぇ。水道や道路の復旧など公共的なデカイコトは、税金をもっとるお役所サンがやるのは当然にして、問題は「一般庶民のオウチ」を含め、当面、自力で「なんとかせなかん」「だども人手がたらん」ちゅうとこは、わしがおっとり刀で被災一ヵ月後に現地にかけつけた段階でも、そら、ぎょうさんありますわな。

そこで「ボランテイア」ちゅう「志願兵」を募集して、庶民の要望によりその前線に「派兵」する「大本営」の機能をもった組織として「那智勝浦町社会福祉協議会」ちゅうとこが急いで立ち上げたのが「12号台風災害復興支援ボランティア・センター」なんです。多分そうだな。

だども、そこは街中にあって、日々、奮戦する基地としては前線からは離れすぎておって地理的にまったく不利なんで、「どうしたら、よかんべぇ」
町長さんや、福祉協議会長たちが相談した結果、

「どうだろう。被害の酷い井関地区にある町営の井関保育園だが・・あそこも壊れて園長以下全員別の保育園に疎開して貰っており当分は空家だからサテライトとして使ったらよかんべぇ」「その案でよかんべぇ」

多分、そんな経緯で、ここに社会協議会の前線基地としてボランティア・センターのサテライトが置かれ、合わせて、被災者救済や相談の行政側窓口として那智勝浦町災害対策本部の職員が常時駐在しておった・・とこない次第でございます。

ほんじゃ、そのあたりに関わる代表的?なお写真を以下になも。





看板にみるごとく、ここが基地のセンターであり、 暫し談笑する3人の絆軍団に所属する青年士官の背後の小さな部屋が、いわば指令室で、町の社会福祉協議会事務局の職員が常駐している。「支援をたのむ」の住民の要望は、ここに寄せられ、ただちに軍団により臨戦体制が樹立される。

写真に見る「とうる」「ほっぴー」「なおきち」の歴戦の勇士は、出撃前にもかかわらずでいずれも余裕の笑顔だ。




*旧保育園の運動場、現サテライト広場では、朝は全国各地からのボランテイア(そうした援軍が400人を超える日もあった)を出迎える前、夕方はその援軍をお見送りした後、絆軍団だけによるこうした円陣を組んでの作戦会議がかならず開かれるのである。

10月2日の朝は、この場で「今日から参戦される名古屋の敬助さんで、旅仲間では仙人サンと呼ばれています」と、かっての戦友「じょじょクン」がわしをこの軍団に紹介してくれたことにより、以後、このナチカツ戦場では「仙人サン」が、本官の正式名称になり申しましたとサ。

背後に見える緑色ボックス2基は仮設トイレです。本来、当然、常駐する保育園内にも水洗のしっかりしたものがありますが、いまだ復旧せず、強引に使用すれば、今度は部屋の中が糞尿で氾濫するのでこの仮設でも仕方ありません。

同じように、この井関地区をはじめ那智川ぞい一帯では、こうした仮設トイレをいたるところに見かけました。なんとか家に住めても、まだトイレの使用は不可!。ほんと、気の毒でございました。被災、一ヶ月以上も経つによう。






*朝礼、終了後、直ちに当日の前線を偵察するため、先陣をきってオフロード・バイクの愛機を駆って、広場から飛び出して行く情報参謀の「トムさん」を隊員が見送るの図である。

「なんや、エンジンのかかりが悪そうでおますなぁ」
漏れ聞いた情報では、これも地元有力者のご提供の中古車両とのこと。たしかに「和歌山ナンバー」でしたので。本人のであれば「琉球ナンバー」のはず。トムさん、琉球快男子の見本のような青年でございました。




武器なくして戦闘はできない。その質量が勝敗を分けるのは、太平洋戦争の日本帝国陸海軍の敗北が証明している。これが、わが絆師団のセンター受付の近くに設置された武器倉庫?だ。これでもまだ一部だから壮観というほかない。多忙時には、これでも不足する様相をみせる。
夕方には、一旦は全て高圧洗浄器でドロを落とし、ここに戻されるが、その後、軽トラで前線の戦場に運びだされるケースも多い。

当初、不審に思ったが、翌日、朝、基地にきたボランティアさんの団体が、その日にすぐ作業にはいれるよう事前に、最前線である被災家屋の庭先へ移動させておくことをしり、その準備のよさに「さすが精鋭師団だ」の思いを新たにした。




*上の写真をアップした一輪車群。これだけあると、解体や破砕のクギなどで
連日、パンクが発生し、それを修理する「素人自転車屋」も、わしの隠れた作業ちゅうか師団公認のお役目でございました。

なを、この一輪車の「所有者」表示には、「石巻」とか「仙台」の東北都市名がございましたが、なぜか、わしの地元県、「飛騨高山」もかなりの数が。東北は、わかりますが「高山」からなぜに此処に。いま、現在も、その真相はヤミの中であります。どなたか、ご教示いただければ幸いであります。





その武器庫?に入りきらぬスコップやジョレンは、建物横に整理されるが、それぞれの大小、カタチ、加えて、バールやハンマー、ジュウノウ、ホウキ、ブラシ、カナズチ、クギヌキ・・など、その仕分け作業もラクではない。




基地の掲示物でこれは本部横の張り紙。上が「ボランテイアはん。遠路、ほんまご苦労様ですなぁ。せっかくやさかい、タダコの温泉に漬かっていきはったらどないでっか」の趣旨で、下が「そのかわり、持ってきおった自分たちのゴミは必ず持って帰ってくなはれ。たのみまっせ」

400人を超えると、弁当の容器や残飯などの量はバカにならず。ゴミで苦戦を強いられているこの町に、問題を上乗せしては支援にきおったボランティアティアの名折れになるよって、当然ですわなぁ。





*全員が絆師団だ。わしの隣、上品な娘さんは従軍看護婦ならぬ従軍「整体師」のゆうこサンさん。昼間は被災者のサービスで奮戦せしも、夜間、宿泊所に帰営後は、被災者でないわしも、ご老体ということで格別にモミモミしていただけました。嗚呼、えかった、えかった。

その隣、黒メガネの精悍な将校は、軍団の情報参謀のトムさん。オフロード・バイクで被災地の情報収集をなし、的確な作戦を指導。特技に理容あり。
休息中に、この広場で業務用の挟みを取り出し、女子隊員の髪のカットに続き、この老兵のお鬚も。へい、無論タダコでございました。

背後の、「ヤスさん」「せいちゃん」「おざざさん」「マルくん」たちが乗る、戦車ならぬゴミ出し作戦に欠かせぬ「作業用軽トラック」は、歴戦の痕跡にみるごとく、つい最近まで「東北石巻」の災害復旧で活躍していたものです。(絆師団は、石巻市に本部をおく歴戦のボランティア団体であり、故に、今回それを紀州に回送してきたのでアル)



「仙人」「バンダイ」「ラッキー」と3人の絆戦士がスクラムを並ぶが、わしは新参モノ。右の2人は、その青の軍服に白く染め抜かれた「石巻 協議会」の原隊名に見る如く、絆師団の正統派なのである。

従軍中、トラックにユウボーを掲載し、日帰りのごとく急遽、東北災害地に再度支援におもむき、また、数日でこの前線に引き返し、疲れも見せず直ちにユンボーの操作をするバンダイさんの雄姿に襟を正した次第であります。



*わしだけが絆師団で、並んでいるのは神戸から日帰りで駆けつけた「外人部隊」というか、気鋭のボランティア集団です。一日だけの激戦が終わっての「強兵4名が老将?を囲んで」の一枚である。
「弱将とちがいまっか」。「へい。間違いおまへん。あいすまんこって。」




*こうした外人部隊は、職場、地域、学校などで仕立てられた「車両」で、前線に馳せ参じ、馴れぬスコップを手に奮戦して夕刻、またサテライト広場から帰路につく。その「ボランティア・バス」を「ご苦労様でした。では、気をつけてお帰りください」
那智勝浦町長にかわり?お礼の言葉で見送るのも、絆師団の軍律の一局面である。

「記念に後で送りますから」と、見送り時に惜別の情絶ちがたく、わしが強引にバスに乗り込み、強引にシャッターをきった一枚である。




*ある日、被災しているサテライトの一部屋を、青テントで囲い、看板のごとき被災者サービスがございました。写真のドロだらけズボンにみるごとく、わしもまた心身ともに草臥れておりましたので、丁度、客ナシと、この先生にお願いさせて頂きました。

わし。蜂に刺されたことあるけど、鍼をチクチク刺されたのは、生後74年で初めてなんですわ。
無免許で操作したユンボーに加え、今回の従軍による初体験。いずれも無料のご奉仕活動からえろう儲かった気分でおます。




*うれしくも、また別の日には、とある業者さんから「氷」の寄贈があり広場で「かわいい地元中学生掻き氷屋サン」がオープンし、作業を終了し次々基地に戻って汗を拭うボランティアさんを喜ばせていました。その方々を見送ったあと、わしたち絆師団も、遠慮なく喜ばせていただきました。

左のおねいさんは地元那智勝浦町から「絆師団」に志願してきた「タッシー」ちゃんで、いわば氷屋さんコンビの部活顧問のお役目を担っていたように拝見いたしました。




氷屋さんもやってくれた基地のマッコット・ガールの「ミユちゃん」と「エリちゃん」だ。地元の中学生で、休日と放課後には、自分の通学自転車でここに来て一輪車のパンク修理を仲良く。外れぬナットに苦戦をする2人をみて、わしが手をだしたことにより、すぐにわしが指導教官?というか、以後、2人の登校中のウイークデーにおいて軍団直属の自転車屋の重責を晴れて担うことになった。

なを、帰宅後、ミユちゃんからたのしいメーセージをつけ
マイ・ミク申請あり。いやはや。女子中学生のお友達は初めてですわ。
繰り返すアジア・ふらつき旅でも、見つからなんだのによう。

今回の従軍の、ほんとよき記念になり申しました。

(追記)昨日27日、夕刻、「いま、名古屋駅近くで絆師団のOB会をやっています。仙人さんの電話番号を大阪のやっさんから聞き出し連絡するんですが、お出かけいただけますか」

親切なアイちゃんのお誘いで「ちょうど恵那の山から自宅に戻っておるとこ」と勇んで答えて、勇んでバイクで指定のカフェに急行。たのしい総括兼勉強会のあと近くの中華料理店で翌日朝1時近くまで。

なを、お顔なじみとしては、名古屋の「ひーさん」東京の「和助さん」和歌山の「おざざサン」岐阜の「とおるサン」に「寛治さん」たちも。ほんに、なつかしゅうございました。

で、今日は、この日記を自宅で書きつけ、明日からまた仙人宿に隠棲しますんでしばしご無礼申し上げます。

           

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イイネ!(5) ☆星の旅人☆ トッピー ひでき先生@トラウマ のんぞむ ★RYO★ -奈良県民-
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uracci2011年11月28日 23:18
お疲れさまでした。
わたくし、手前事でアップアップしている間に
そんなにもみなさんのお役に立つことを…。感服いたします。

くり2011年11月29日 01:48
お疲れ様です。
敬助さん、かっこよいです。
茶屋敬助2011年11月29日 07:30
■ uracciくん

お褒めいただきありがとうございます。
とはいえ、小生にとりこれも老後のヒマつぶしで、
いわば「手前事」

都合をつけ、折角の週末休日に、通うように
関西や中部から駆けつける青年こそ感服せざるを得ませんでした。

ところで、最近は海外はおやすみですか?
歴戦の記録が、上梓される日を期待させてもらっています。

■ くりクン

くりクンの岩場のぼり、冬の北海道ツーリングなど
場面はきびしくても、人間、志願してやる姿は
だれもがかっこいい・・

こうした活動もまたしかり。
くらべて、やむなく働かされた現職時代の
わしの姿は、かなり悪かったはず。

へい。わしはその姿勢を矯正しようと海外や
国内でふらついているだけの老人なんですわ。

悪い期間が、長かっただけに、なかなか矯正
できんのが泣きでございます。

若い人はいいねぇ。

ばーば2011年11月29日 10:00
よくぞ、まぁ~若者に混じってのご奉仕!感服!恐れ入谷の鬼子母神!
ただただ感心しながら日記拝見させて頂きました。

夜中の1時までお付き合いとは・・
まだまだ、体力余っているようですね。
羨ましいかぎりです。

翠2011年11月29日 10:13
こうした若者たちを知り、日本もまだ捨てたものではないと
心強く感じます。

ご報告ありがとうございます。

どこにでも、誰にでも 溶け込める敬さんのお人柄が、
写真によく出ていますね。


ちらっと映った遊具に、子どもたちの今を思います。
ひでき先生@トラウマ2011年11月29日 10:53
うーん。大活躍ですね。

タイの仏教の考えかたでは、こういう「功徳」を積み重ねると、「あの世」での「特等席」が用意されているいいますよ。

「この世」での「ご褒美」もありましたね。
女子中学生とお友達=マイミクになれるなんて、うらやましい!
uracci2011年11月29日 11:21
先月、フランス、ルーマニア、モルドバに遠征しておりました。
なかなかアップする暇がなく、まいっかと思っていましたが、
見てくれる方がいるかと思うと、がんばろうかとも思う次第であります。
茶屋敬助2011年11月29日 12:04
■ ばーばサン

>夜中の1時までお付き合いとは・・・

その後、原付きで名古屋市内を縦断するように
深夜帰宅すれば、もう、じきに朝。

「いつまでも、しずかに寝ておってもらったほうが
世話がかからずラクですから」

かみさんの期待を担って、昼近くまでグウ・グウ~
夜更かしも関係なしのグータラ老人でございます。

>まだまだ、体力余っているようですね。

へい、残ってはいますが、すでに杯の底を濡らす程度。
一両日ではないにしても、早晩、底をつくのは明らか。
とすれば、一刻も早く、脱国を。
気もそぞろでございます。

■ 翠さん

>日本もまだ捨てたものではないと

そうですなぁ。捨てたい日本の政治家は多いですが・・
こうした若者と接していると将来に期待が持てますなぁ。

>誰にでも 溶け込めるお人柄が・・

とはいえ、いまだ「老人会」に溶け込めんのは問題ですなぁ。
このままでは、完全に落ちこぼれ組みですので。

>ちらっと映った遊具に

さすが、先生!。説明文も書かなかった背後の遊具から
罹災した子供たちの境遇を思いやるやさしさ。

幼児教育の原点と、その視点に感服いたしました。
茶屋敬助2011年11月29日 15:14
■ ひでき先生

>「あの世」での「特等席」が用意・・

へい。わしは、「この世」では恵まれぬ「末席」や「3等席」が多く
功徳さえ積めば、次は、「特等席」へのご示唆。
たのしみなことで。ありがとうございます。

>「この世」での「ご褒美」・・

「朱に交われば赤くなり」で、おかげで一気に若返り?
ありがたいこってす。

次回のノンカイ訪問まで、その若さが持続できればいいのですが・・
ダメですかねぇ。


■ uracciくん

>フランス、ルーマニア、モルドバに遠征・・

小生がくりかえす安・近のアジア貧乏旅に比べ、
うらやましきこと。

その経済力と体力を祝福です。

> 見てくれる方がいる・・

へい。首を長くして、待ち望んでいるひとりでございます。
よろしくアップのほどお願いいたします。

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老兵従軍記1=いざ出撃

2011年04月20日 | Weblog



第6次アジア作戦から、かろうじて昨年4月下旬祖国に生還したこの老兵。
その後、予備役としてチョンボ的菅政権下の日本において
「耐えがたきを耐え忍びがたきを忍んで」雌伏するにほぼ8ヶ月。

その間、尖閣諸島問題にはじまり「日本海も波高し」の趨勢にみるごとく、
かって手を携えて大東亜共栄圏を担ったアジア諸国からいまだ反日感情を
払拭せざるに至っておらざれば、まこと慙愧に耐えぬところというべし。

ならば、例え老兵の身であろうとも、このまま国内において安穏として余命を
繋いでいることは、皇国に生を受けた「大和男子」としてとる道にあらず。

かかる時期こそ、アジアの僻地や路地裏に足を踏み入れささやかながらも
「草の根外交」の一翼をになうことこそ「男子一生の本懐」なり。

幸い、我、すでに俗世の欲望も収束の馬齢に達し、「後は野となれ山となれ」
いわば後顧に憂いのないすでに「鴻毛の軽き身」。さすれば、たとえ前線にて

「♪ 海行かば水漬くかばね~ 山行かば草むすかばね~」

になろうとも悔いは誠に少なしと自認いたすところに候。

すいまへん。気合がはいりすぎてチト硬い文になってまって申し訳にゃあ。
で、まっ、そういう「大義銘文」を掲げて、わしいよいよきたる1月25日
アジアに向け出撃することが確定しましたんで本日はそのご報告でございます。

各位様ご承知のとうり第6次までのアジア作戦は、全て「懐寒し身も寒し」の冬場を
前に出陣しとったけど、「行く末さだかならぬお歳であれば、ここらで一度ぐらいは
家族でお正月を」のカミサンの陳情で、今回は我が家で久しぶりの迎春。

明ければ栄えある紀元2671年(西暦2011年)
晴れて自宅軟禁も解け、1月5日にはカミサンを副官に「四国八十八寺」の
1番から3番寺にお遍路の杖を突き、今次作戦の「武運長久」を
弘法大師さまに祈願すれば、ここにいよいよ「戦機熟したり」

いや、ほんと。たのしみ少ない老後の不遇な身にあって、久しぶりに

♪ カッパからげて~ 三度笠~ どこをねぐらの~ 渡り鳥~

文字どうり「行雲流水」。風の吹くまま気のむくままに、ながの道中暮らしに
草鞋を履くちゅうのは、ほんとうれしいこってすわ。

しかし、しがねぇ年金生活のこの老兵が、アジアに出征する「足」をどう確保するか。
総理のサミット出席や自衛隊のPKO活動参加なら「政府資金」で
用意されるやろうけどこの老兵に公金の御慈悲はいただけにゃあ。
自分の少ない年金を軍資金にあてることになる。

だで、渡航費は安いほうがええ。このところご愛顧しとる「大阪港」から2昼夜かけて
「上海港」を結ぶ中国船はどうか。一年オープンで往復30000円。
朝飯つき。但しプラス燃料チャージ3000円。

すでに上海港上陸後の安宿探しや、その後移動するための交通手段も「わし、
もう慣れたもんネ」であるし、それに船内暮らしで共に中国大陸を行軍する
「戦友」を見つけることもできる。

加えてこの中国船は瀬戸内海を一路南下し、馬関(下関)海峡を抜け翌朝、
朝焼けの五島列島の沖を航行する。そんとき船上デッキで
「これで日本に別れをつげるか」と霞みつつある島影を万感の思いで眺めながら
東シナ海に乗り出す旅情が泣けるぐりゃあええ。

命をかけて、この海上ルートで唐に渡った空海たち留学僧の追体験をするだけでも
ネウチがある。

空海が乗り込んだ第16次の遣唐使団は、大型帆船4艘で大阪湾を出航したけど
やはり途中で嵐にあって2艘が海の藻屑と消え、彼の船は34日間漂流して
とんでもない南の中国沿岸にやっと辿りついている。

日中間を折り返して週2便運航しちょるいまの中国船は「新鑑真号」やけど、
その点はわりかし心配はにゃあ。どんだけメイドイン・チャイナの製品が
いいころかげんやといってもきょう日のお船がそうは簡単には難破せぇせんでよう。

「そやけど、それって、中国得意のドアなしトイレとちがいまったか。
なんぼ運賃が安いちゅうてもわてら遠慮させてもらいますよって」

御心配の向きもあるけど大丈夫ですわ。覗かれんようちゃんと下までのドアはついとるし、
小ぶりやけど日本映画を上映しとる映画館はある。ホールではナマのコンサートも
ひらかれる、アッチチ・・と火傷するぐらいのお湯がでるシャワー室も
ぎょうさん並べて設置されとる。乾燥機と洗濯機も自由に使ってちょうだゃあ。

そんで、これらが全てタダコ!やでいうことなしですわ。ただし船員はすべて
中国人やけど、まっ、カタコトなら通ずる娘さんスタッフもおるでそれほど
不自由はなし。ついでやけど、船内ロビーにある航海図の「日本海」は、
中国側から見た手前味噌の「東海」ちゅう表示やでチト気にいらんわなも。

まっ、そうはいうけど乗客はいつもほぼその9割は中国人ちゅうこのお船にあっても、
食事は和食もアリ、電話は日本の公衆電話ちゅう配慮もされとるで運賃からして
かなりネウチと違いまっかなぁ。

そやけど、今回は「上海上陸後、またあのデカイ中国大陸を南下して、
ベトナムのハノイそんでラオスのビエンチャンと各国境を陸路こえつつ
定宿としておるタイのノンカイまで単騎すすむんは避けたいなぁ」の思いが
ヒシヒシと老いの胸にきたんですわ。

もう何べんもやって「モノ珍しさ」が減って、その疲労感と心ぼそ感が先立ち・・・
まっ、いうところの弱気やけど、わしもすでに74歳ちゅう後期というか
その実、末期高齢者。だで「そない弱気でどないすんでっか」と
この爺いを叱らんよう頼みますわなも。

ちゅうわけで、わし、今回は一足飛びにの空輸作戦を考えてよう。
もしゼニがかかり過ぎてサラ金で手配する事態になったら、
しかたなしで「輸送船」で出征しようと覚悟を決めて・・。

とにかく、安物の航空券を探せ。緒戦突破の心意気!。かくならばと・・・
死ぬまでヒマやで出国日はいつでもええ。着陸する飛行場はアジアのどこでもええ。
時によれば不時着でもええ。墜落しなんだらどこの飛行機会社のポンコツ機でもええ。
立ち席でも許す。

捨て身の覚悟で、航空機業界の情報を収集すれば、ついに発見!! 。見よ、燦然と
輝くこのチケット。羽田発マレーシア・クアラルンプール行がなんと17000円。
こんで燃料チャージ込みやでほんとお値打ち、低所得者向きのキップやでかんて。

ほんじゃ、後の続く貧乏旅行者(旅をする貧乏人ではなくて、貧乏な旅を
たのしむ者の意)のために、その格安チケ予約作戦の概要を一挙公開でございます。

① 確保した飛行機=エアーアジア

現在、大評判のマレーシアの格安飛行機会社。アジア各地で運行。昨年12月
日本の羽田とマレーシアの首都クアラルンプール間でも営業開始。その時のお祝い価格が
5000円ポッキリ。そんで今回、わしもこのシンガポールの会社に狙いを定めましたわ。

② 申し込み方法
この会社は店頭売りや業者経由は一切なしで、全て「本社直売?中間マージンなし」の
直接インターネット販売。もちろんゲンナマは取り扱わずクレジットカード落とし。

ただし、わしはパソコンは弄るけど、そうしたネットによる買い物はとんと不慣れ。
(というか、カードがなし。だで今回、カミサンに頭を下げてお借りネ)

しかたなし。会社に電話して「安いキップを教えてまえんかなも」から始まり
「その日の予約を入れたい」。親切なもんですわ。
「それならパソコンの画面を開いてください」「その欄にパスポート番号を
打ち込んでください」「次に、該当する都道府県名をクリックしてください」
「あっ、まちがえました」「もう一度やってみてください」

で、かなり難航して、時間をかけようやく契約完了が近いと思えばこそ
「そ、そ、・・・それはねぇだろう」せっかくいいとこまで進んでいた画面が最初に戻り。「すいません時間がかかりすぎて、パソコンが固まりました。
もう一度最初からお願いします」

「わし、クイズタイムショクをやっとるんじゃねぇで。いいかげんしてしといて
まわなかんで」「爺いには無理やで、電話で予約させてまえんかなも」
「では、例外として電話で受け付けますので、その費用として
1000円お支払いください」

てな苦労してやっと受け付けてもらった予約内容でおますが・・・

③出発日付=1月25日(火)
この会社。値段が日によってバラバラ。バラバラでもええ。一覧表があれば
自分で選んで「その日を頼むわ」となるけどそれさえなし。
わし、「1月下旬から2月上旬で安い奴探してまえんかなも」

電話でたのめば受付スタッフ嬢が、適当の日にちの値段を「これでいかがですか」
当然、わしは、「もっと安いやつあらせんかなも」「しばらくお待ちください。
探してみます」結局、一番安いのは、25日と27日の17000円ちゅうこって
「どうせなら一日も早く脱国したいで」と25日に決定させてもらいましたわ。

この飛行機。羽田23時45分発。約6時間の夜間飛行で翌26日朝6時半
クアラルンプール着。どうせ夜で外が見えぇせんで、そんならと「スチュアーデスの
お嬢さんと親しくお話できる?」通路側の座席をチョイスさせていただきました。

その羽田空港まで、名古屋から得意の原付きバイクで遊びながら行きたいけど、
帰国が何ヶ月も先。預け賃がバカにならんし、日本に帰国するとき名古屋空港や
大阪港ならまたまた帝都東京までそのバイクの撤収作戦が大仕事になるで、
今回は格安バスで東名高速をひとっ走りする作戦をチョイスさせてもらいました。

なぁに。4~5時間のバスなんぞ軽いモン。アジアの現地にはいればガタガタ道を
おんぼろバスに揺られ10ナン時間なんてはザラやで、そのウオーミングアップとして
ちょうどええですわ。

④ 料金(羽田→マレーシア)

運賃     17000円  燃料チャージ込み これでも立ち席ではなし。

空港使用料   1000円 これ、どちらの空港かナ。日本かマレーシアか。

空港Tax     2000円 上の使用料との関係がわかりませぇ~ん。

予約手数料   1000円 わしがインターネット出来んで電話でやったもんで。

機内食      700円 有料やけど社会勉強で「和食」をリクエストね。

荷物料     1460円 .預け荷物も有料。 20kg以内の条件でなも。

合計    「23160円」 問題は、なにがあろうと「キャンセル」出来ず。


というこって、すでにカード決済で払い込みが済んでおるで、
わし例え新型インフルエンザになっても、それこそ這いずってでもと
固い決意の日本男子でございます。

              いよいよ出撃を覚悟した  老兵敬助

(写真)1月5日。必勝祈願にでかけ四国お遍路で参拝した一番札所の
「霊山寺」の山門にて。その門松が正月に行った証明だわなも。

             (2011年01月16日 自宅にて記)
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