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橋本左内の「啓発録」に学ぶ

2013年08月30日 | 日記

「学問とは、人として踏み行うべき正しい筋道を修行することであって技能に習熟するだけのものではない」これは幕末の賢人 橋本左内の言葉ですが、彼は福井藩医の子として生まれ、医者の緒方洪庵に師事。蘭方医学を学び、藩教育の中心人物となるも、開国貿易・殖産興業・軍備強化などを目指して、藩政改革に手腕を振るったがゆえに 26歳の若さで安政の大獄により他界した人物です。

彼が自身の志を記した『啓発録』は有名で、福井県内の学校では 今もこれを基にした“独自の教科書“が使われてるらしいのですが、くわえて 啓発録の思想に准じた形で、同県には子供たちに「立志式」と呼ばれる “志を立てるための行事“ が敢行として残っているとも聞きます。以下に 橋本左内が15歳の時に記した『啓発録』の内容を簡単に列挙してみますと・・・

● 稚心を去る~稚心とは「幼心」のこと。つまり「子供っぽい心」のことである。これは人間だけにあてはまるワケではなく、例えば果物や野菜などでも、水っぽくて成熟してない時期を「稚」と呼んだりする。世の中なんでも、この「稚」から卒業しないうちは発展しないが、13歳や14歳になって本格的に勉強を始めねばならない頃になっても、この幼心が少しでも残っているならば物事は何も上達しないと思われる。
●氣を振う~本気で勉強を始めたら、決して人に負けてはならない。むしろ負けることは恥だと考えて、常に油断なく頑張る気持ちを持たなければならない。つねに気を奮い立たせる心がけこそ重要である。
●志を立つ~せっかく頑張ってやろうと決心しても、行き先が決まってなければ意味はない。私は何を勉強しよう、勉強してどんな人になろうという目標を、はっきりと定めるべきだ。一端 志を立て、こつこつ努力してゆけば、どんな人でも必ず成長する。それは ちょうど江戸に向かって出発したようなもので、今朝 ここをたてば、今晩は? 明日の晩は? どこそこにいる!というように、どんなに足の弱い人でも、だんだん江戸へ近づくのが道理だ。したがって 心を一筋に決めてかかれば どんな偉い人にでもなれるはずである。
●学に勉む~志を立てた以上 努力して勉強に励むことが肝心だ。勉強とは ただ本を読む、字を書くということではない。それらはただ学問の手段であって、二階へ上がるはしご段のようなものにすぎない。これらを通じて真に自分の知識を豊かにし、心を練り鍛えてゆくべきで、すぐに嫌になったり、成績が良いといって鼻にかけたり、逆に悪いからといって悲観したりするのは 真の勉強とは成りえない。
●交友をえらぶ~友達の中には益友と損友とがある。損友はすぐに心安くなりやすいけれど、自分の為にはならないものだ。逆に、益友には とかく気づきにくい。時には面白くないこともあったりするだろうが、本当によい友達と交わってこそ、相手のよい所を見習い、自分の欠点をなおすことも出来る。したがって 友達を択ぶことは勉強するものにとって、たいへん大切なことなのである。

これが わずか15歳の青年の書いたものだと想像できるでしょうか? さらに、彼はこんな事を手紙にしたためていますが、その内容を紹介しますと・・・

『己を知る者は まず己でなければならない。もし 人が本当に自立することができれば、それこそ永遠の存在、永遠の平和、永遠の確立になるが、それがなかなか難しいのである。せめて一人でも多くそういう人物が出れば、また そういう信念、そういう学風、そういう躾、そういう傾向のものが広まってくれば、少なくともその国・民族は救われることになる。これが人間の栄枯盛衰、民族発展の根本原理だが、このような人物は、やはり教育の適切さを得なくては、なかなか現れないように思う。幼少年時代に、よく教育すると 17~8歳で 立派に人として大成するのは当たり前なのだが、幕末の人物は、みな若くてよく出来ている。まさに20代で堂々たる国士なのだ。吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞と・・・そういった人々は枚挙にいとまがないが、みな二十歳前後で堂々たるものだろう。しかるに どうしてあんなに若いのに大した人が多いのだろうと思っていたが、人間学というものを本当に研究してみると、あれは決して奇跡ではないのがわかるし、むしろ当たり前だと理解される。人間は教育のよろしきを得て、知命、立命の教養を積めば、その人なりに大成するのが道理だ。そこから先はいろいろの経験が加わって鍛錬され、いわゆる磨きがかかるだけで、人そのものは、本来 17~8歳でちゃんと出来上がる。では 人が、その成長を得るのに必要な学問とは何なのか? まずは知識の学問と智慧の学問が、そもそも根底から異なることを知らねばならないだろう。知識の学問は、我々の理解力・記憶力・判断力・推理力など、つまり悟性の働きを鼓舞するものであって、ゆうなれば誰にも一通りできる機械的な能力と言えるだろう。しかしそういうものではなく、もっと経験を積み、思索反省を重ねて、我々の生命や人間としての体験の中からにじみ出てくる もっと直感的かつ人格的な学問こそを智慧と呼び、真の学問と呼ぶのである。だから 知識の学問から智慧の学問になればなるほど、生活的・精神的・人格的になってくるのであり、それらを深めれば、普通では得られない “徳に根差した、徳の表れである徳慧” という学問にもなってくるわけで、これが聖賢の学と称するにふさわしい本来の人間学となるであろう。』 

この考察は極めて正しく、的を得ているように感じます。彼の生きた時代には、吉田松陰などの優れた人物がまわりにあふれていましたが、それらの共通点を研究し “自身との類似点を探し当てる事” で、若くして正しい論点整理が行えたのでしょう。当時とは異なり、いまは【哲学ある人物がまわりに見当たらない環境】となってますが、それこそが現代社会が抱える 最も大きな弊害になってる気さえしてきますね。だから、環境は大切・・・教育環境は与えられたものだけに限定せず、自らすすんで新しい智恵へふれられるよう、普段から心がけておく必要があるのかもしれません。