チャレンジ鍼灸師82歳:今、新しい医学・医療創造の志に燃えて生きる!

青春時代の社会変革活動の挫折をのりこえ、鍼灸の道へ。

チャレンジ鍼灸師の歩み・・・5

2012年07月11日 | 私の歩み
鍼灸学校・学生時代のこと・・・2

私は、32歳で、鍼灸学校の学生になったが、
家業を継ぐために高校を卒業してすぐに入学した者が数人いた。

クラスメートの竹山嬢や、若い人たちと、ほとんど毎日のように
新宿駅までの学校の帰り道にある歌舞伎町の音楽喫茶「ウイーン」で
クラシック音楽を聴きながら
「鍼灸を学ぶ意義」や「鍼灸の未来」
そしてどんな鍼灸師になるべきかを
熱を込めて語り合った。

そんな中、たまたま誰かの紹介で知り合った
東京薬科大学・生薬学教室の川瀬清先生と意気投合し
毎週何人かで教室を訪れ、
先生を囲んで「弁証法哲学」の勉強をした。

先生の教室の鍼灸師の先輩たちとも知り合い、
「新しい医学を創造しよう」との意気込みで結成されたグループにも
参加した。

川瀬先生を通じて
「医療に携わる看護師も薬剤師も鍼灸師も保健師もすべて
”医師”と平等であり、
それぞれの専門分野に立脚して協力し合い
働く人の立場にたつ医学・医療の建設を目指す」
ことを目標として結成された「新日本医師協会(新医協)」
を知り、
心から共鳴し、早速加入して
「新医協・鍼灸部会学生班」をスタートさせた。

これは、「医師」を頂点とした「パラメヂカル」などとは全く異質の
当時の民主的風潮の中で生まれた組織である。






チャレンジ鍼灸師の歩み・・・4

2012年07月04日 | 私の歩み
鍼灸学校・学生時代のこと・・・1

「右翼先生」のところでの貴重な体験に感動し、心を躍らせ期待を込めて
新宿の「鍼灸学校」に入学した。

しかし、当時「鍼灸学校」の存在など、全く一般に知られていなかった。
内容もお粗末そのものであった。


私は、明確な志をもって入学したが、がっかりであった。

定数の半数にも満たぬ上に、更につまらぬ「授業」にうんざりして、半分以上の学友は退学し、やっと残った寂しいクラス。

しかし、その中に素晴らしい女性がいた。
一人は、竹山晋一郎先生のお嬢さんであった。

先生は、私が当時すでに、「心の師」と決めていた方である。
先生は、私の生きた体験に基づく「鍼灸への確信」に「私が鍼灸を生涯の仕事」として取り組む理論的土台を与えてくれた「漢方医術復興の理論」の著者である。

そして、もう一人が
そのお嬢さんの大学時代の同級生、聖子さんである。


竹山先生は、当時月に1度、聖子さんの下宿近くの世田谷で開業されている愛弟子・青木すみゑ先生のところで「私塾」を開いておられた。

私は、聖子さんの紹介で、青木先生とお会いして、「漢方医術」への熱い思いにすっかり圧倒され、弟子入りしたいと申し出た。

しかし「私はその器ではない」と断られてしまった。でも、私は諦めなかった。

先ず、アルバイト先の「右翼先生」のところを止め、青木先生の近くに「部屋」を借り転居してから、再び先生を訪ね「どうしても弟子になりたくて移転してしまった」と決意の強さを訴えた。

新しい土地で生活の見通しは、全くなかった。

しかし、先生は凄いことを提案して下さった。

「鍼灸専門・青木治療所」に「マッサージ部」を開設して下さるから、
聖子さんと二人で患者を開拓しなさい、先生は一切援助しないが、
すべての収入は二人のものにしなさいと言うのである。

当時はまだ、「弟子」という形で無資格者の仕事があり、
資格者で6割歩合、無資格者で3割歩合の収入が常識であった。
私と聖子さんは、10割の収入であった!

それから、二人で「青木治療所・出張マッサージ部」のチラシを作り、一軒一軒近所の
ポストに配って歩いた。

それが、結構効をそうして、マッサージの依頼が増え、なんとか学生生活を続けられるようになった。

当時、絶頂にあった俳優の森繁久弥さんは私の上得意で、週2回ぐらいのマッサージのあと、私の「鍼」の練習台になって下さった。

治療のあといつも、やさしい奥さんが、当時出始めた「インスタント・ラーメン」に野菜を盛り込んでご馳走して下さった。
あの温かいお腹にしみこんだ味は今でも忘れない! 

先生のおかげで、何とか1人前になり
私が71歳の年(平成14年)に
鍼灸師として全国でただ一人、その年の春の「叙勲」を受けたことを
ご報告できなかったことは、心残りであった。