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カスケットリストに載っている先輩が逝く

2017年07月16日 | エッセイ

 心臓疾患を持つ僕がくたばる前に絶対に会っておこうと思う人のリスト、カスケットリストを作ったのが2011年。リストアップされた人の数は43名だった。

 僕が何時くたばるかわからないと同じに、相手も何時くたばるか分からないから、出来るだけ早く会っておきたいと努力してきた。今日現在(2017/06/30)の実現率は80%だから、まあうまくいってるともいえる。

 勿論、会うのは一回とは限っていない。何回も会って交友を深めている人もいる。実現してない中には、すでに死亡した人とか、会うことを拒絶されている人もいるから、100%は不可能だ。

 この5月(2017年)、お会いできて、話して、心を通わせて、思い出を語り、楽しい再会を実現した人のうちの一人が、この世界から旅立たれた。これで5人目だ。

 この5人の方々は、僕が高校時代からの無二の親友だった炬口勝弘君と、2人の共通の恩師だった奥野武之先生。さらには、IBM時代の親しい友人、安井敏夫さんと松野康雄さん。この4人は、2015年からパタパタと、なんだか続いてこの世を去っていった。中には、脳梗塞の後遺症で苦しみながら、この世を旅立った人もいれば、僕より若く、誰もくたばるとは思いもしなかった人も、また「元気印」と呼ばれていたスポーツマンもいる。



 <石川誠之さんと僕>

 そして、この5月、僕が大学時代にお世話になった、当時のアルバイト先の兄貴のような先輩がなくなった。高校時代とIBM時代の間の、大学時代のバイト先の石川誠之さんだ。僕は日本奨学会の奨学金と、バイトと、大学の学費免除でやっと大学を卒業した身だから、バイト先の先輩の配慮は本当にうれしかった。



<世界銀行>

 僕が、首都高速・神奈川1号線(僕は、羽横線と呼んでいる)の建設資金の三分の一(90億ドル)を世界銀行からの借款で賄うというプロジェクトの一員として、参加することが出来たのは石川さんのお陰だ。時間の切られたプロジェクトだったから、少し英語が出来た僕も、学生の身でありながら彼の一存でポンとメンバーとして参加できた。仕事の内容については、どこかで書いているから、重複を避けて、石川さんとの思い出を書いておきたい。



 <羽横線、カンチレバー工事>

 石川さんは、当時東京都からの出向で資金調達の責任を持つ、資金課の副参事だった。おそらく30~2歳の東京都のエリートだったのだと思う。

 面倒見のいいひとで、一人で暮らしていた僕を自宅に度々よんでくださって、ごちそうになった記憶がある。

 このプロジェクトで面白かったのは、中央官庁の間の力関係が、仕事に明確に現れていたことだ。やはり中心は、大蔵省(今の財務省)。都高速道路公団を管轄する建設省(現、国土交通省)も、大蔵省には頭が上がらない。国交省の予算を握られているからだ。東京都も大蔵省には頭が上がらない。予算管理をする役所は、すべてににらみを利かせていた。世界銀行借款といえば、外務省も絡んでくるわけだが、全く蚊帳の外。大蔵省の外務参事官室が、すべてを取り仕切っていた。



 <旧大蔵省>

 会議費も、副参事の石川さんの裁量権のもとにあったから、課長や部長を含めて、会議費をゆるされた職員は、かなり自由に会議費を使っていたようだ。

 僕が、ご相伴に預かったのは、世界銀行との交渉が東京で行われる時だった。たとえば、日本橋の「稲ぎく」のようなてんぷらの名店で、世銀からの外国人客をもてなすときなど、僕も通訳として参加する。5~7人用の特別座敷があって、客は円形の調理場に向かって座る。すると、丸いテーブルの真ん中に、下からリフトに乗って、板さんがセリあがってくる。もちろん最高の天ぷらのネタがケースに入っている。目の前で、透明なてんぷら油で、新鮮なネタを揚げてくれる。それを、板さんの薦める、塩とか、つけ汁とかをつけて食べる。貧乏学生には、想像もできない贅沢だった。



 <お座敷天ぷら>

 またときには、世界銀行のスタッフを銀座の6、7丁目付近にあった会員制の高級クラブ(もう名前は忘れている)に招待し、ふかふかの絨毯に足を取られたこともあった。

 石川さんと話して、公団の会議費ではなく自費で一度飲んでみようということになり、遊びに行ったことがある。二人で行ったのだが、とても自分の金で払える金額ではなかった。クラブのママに相談して、2人で何十回払いかで、払い終えたことも懐かしい思い出だ。

 僕が大学を卒業して、IBMに入社した後も石川さんとの交流は続いた。IBM時代はとても忙しくて、ゆっくりとした時間は持てなかったが、僕の早期退職後は比較的自由に時間が取れて、何度もお目にかかって楽しい時間を過ごした。

 特に、僕の心臓疾患が発症した後は、石川さんの方から気にしていただき、当時住んでいた伊豆高原に二度、仙台にも一度、奥様と一緒に訪ねていただいたことを覚えている。

 僕が横浜に帰ってからも、大体は石川さんの方から電話をもらって、結構会っている。

 明確に日時が分るのは、2015年からだ。3月5日には、ご自宅にお伺いして、石川さんの手料理をごちそうになっている。10月8日に銀座のライオンで、お会いしている。そのほか、記憶をたどると池袋の居酒屋、渋谷「つばめグリル」、板橋の寿司屋には2回も行っている。渋谷の「つばめグリル」を除いて、あとは石川先輩のおごりだった。

 石川さんがキリスト教の洗礼を受けられていたと知ったのは、奥様から訃報をいただいた時だった。目白の教会でのミサの日、僕は何か月も前から予約を入れていた心臓の定期検診の日とぶつかった。仕方なく欠席した。

 後日、僕が書いたエッセイの中から、石川さんと係る3篇をプリントして、奥様にお届けした。その一遍に使わせていただいた石川さんから僕宛の葉書は、奥様は当然ご存知のないもので、奥様も楽しまれたようだ。



 <石川さんの葉書>

 そして僕の手元に残ったのは、石川さんとの思い出と、彼が1965年に世界銀行借款交渉でワシントンDCに出張された時、土産としていただいた当時の「シック・インジェクター」のカミソリだ。今も二枚刃を何とか入手しながら、50年以上たった今も現役だ。



 <シック・インジェクター>

 実の兄貴のような先輩、石川さんの死に、ちょっとメゲている昨今です。


P.S. クレジット
お座敷天ぷらの絵は、“天政”サンのHPからお借りしました。
ジャンル:
その他
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