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齋藤慎一『中世を道から読む』

2017年07月14日 | 折々の読書
戦国時代の道路(交通)のことは想像もしたことがなかった。テレビや映画では勇ましい行軍シーンや旅行く人々などを見せられることがあるが、実際はどうだったのだろうか。中世期の道路事情については、正直、深く考えたことはない。整備された道があったとは思えないが、それなりの道はあったはずだ。おそらく、それらは自然の条件を強く受けたものであったろう。城にしても自然条件や正当な戦略がある場所に築城する。そこにも道は大きく関わっていたはずだ。
城は、多少でも形を残すが、道は、その形状から不可能に近いだろう。現在、本当に道から読めるものがあるのだろうか。読めるとしたら何だろう。そんな興味から手に取ってみたのだが、これがとても面白かった。

戦国時代は整備された道路がなく、ある方が珍しいという状況だったようだ。
この本はその辺の事情を「路次不自由」という書状の表現から切り込んでいく。「道が通れなくて...」と無沙汰の言い訳に使われるほどに「不自由」が普遍的だったのだ。現代なら「道が込んでいて」、「電車が不通で」というような感覚だろうか(笑)。もちろん、受け取る方もそれを承知で読むという風もあったようだが。

道とは言え、通行の安全は保障されていない。群雄割拠の時代、敵地を通れるはずはなく、通れば束縛されるのは当たり前。このような場合、僧を使う手があったらしい。書状を送るのにも大変な困難を伴う。江戸時代のように地図があるわけでもないので、さらに案内者を頼んだりする。
山だらけの日本では峠という厄介な場所がある。峠には魔物が棲む。山賊が出没する。人足が突然、山賊に変身するのは日常茶飯事だったようだ。今も残る山の地蔵に道の歴史が秘められてもいるのである。

山だけではない。道は必ず川に阻まれる。当時、川は渡河するものであった。浅瀬、あるいは渇水期に渡るのである。水量が多ければ渡河はできず、軍勢ですら引き返すほかはない。橋(桁橋)はほとんどないといってよいのが戦国の状況。そもそも橋を架ける技術がない。橋があるとすれば舟の橋だ。舟橋は仮設であるからあるかどうかは水量と「ワタリ」と呼ばれる「川の民」都合しだい。舟橋は軍事的施設であったり、関所的な役も負っていたらしい。それは管理する者の存在、権益の匂いがする。いずれにせよ、中世の移動は命がけである。

そんな状況の中でも中世人は移動をする。情報の伝達という意思に突き動かされるのか、危険を冒してまでも動き回るのである。その繰り返しが歴史であると言っても過言ではないだろう。中世人の動きは道に刻まれる。その道は、いわゆる東海道など、近世の道とは別のルートを辿る。しかも、それらは政治状況、自然状況により変遷する。鎌倉街道とも異なる現代人の知らない道。未知の道である。

現代の道と当時の道が重なる場合もあれば異なる場合もある。例えば、小金城(現千葉県松戸市)は、当時、東北や新潟方面への道の分岐点にあたっており、そこを抑えるという重要な役目があったのである。道との関連から城の重要性、築城の理由が呑み込める。そのようなことは、現代の道路網からは想像もできないから、なぜ、あんな不便な場所に城を作ったのかという疑問を生んでしまうが、当時の交通網を理解することで中世の現実がリアルに浮き上がるのである。

著者のように、当時の道を想像し、追求し、検出するのは地味であるが基本的で重要な作業だと思う。道は、自然条件を厳しく受けるとともに、その時代の思想を反映しているように思えるからだ。道に従って城も造営される。道の衰退によって城も消失する。そんな関係がある。
今まで私は廃城を見れば事足りると考えていた。つまり、点だけで済むと思っていた。だが、道という線を考えることでより深い理解ができることが分った。道は足で歩くものである。500年ほど前、中世の人々が歩いたその上を自分の足で歩けば(それはそれでエキサイティングだ)、文字どおり、地に足がついた歴史を学べるだろう。次の廃城調査には道のついても調べてみようと、そんな思いに駆られた読書であった。

齋藤慎一著『中世を道から読む』(講談社現代新書2040)2010年2月刊.★★★★
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