「機械仕掛けのカンパネラ」ひとつ屋根の下 - 第26話 因縁の地

「五月の一日二日、大学休めない?」
 穏やかに晴れた土曜の昼下がり。
 遥は話したいことがあるからと七海の部屋を訪れると、窓際のティーテーブルで向かい合って紅茶を飲みながらそう切り出した。彼女は不思議そうに目をぱちくりと瞬かせたものの、すぐに記憶を探り始める。
「ゴールデンウィーク中は半分くらい休講になりそうだし、実験もないし、二日くらいなら別に休んでも大丈夫だと思うけど……なんで?」
 望みどおりの答えに、遥はティーカップに手を掛けてにっこりと微笑む。
「小笠原へ遊びに行こうよ」
「それどこ?」
「ずっと南のほうの島」
「遠いってこと?」
「船で丸一日くらいかかるかな」
「え、そんなとこになんで?」
 確かに海辺のリゾートというだけなら沖縄のほうがよほど行きやすい。しかし遥としては小笠原でなければならない理由があるのだ。ただ、いまの段階でそれを明らかにするつもりはない。
「野生のイルカが見られるんだ」
「ほんと?」
「一緒に泳ぐこともできるって」
「すごい!」
 この話をすれば一も二もなく飛びつくことはわかっていた。
 彼女は幼いころからイルカが好きだった。生活が苦しい中、父親に買ってもらった数少ないおもちゃのひとつがイルカのぬいぐるみで、当時は寝るときも離さないくらい気に入っていたらしい。
 いまはときどき水族館にイルカやイルカショーを見に行っているが、どちらかというと海で自由に泳ぎまわっているほうが好きなようだ。それを実際に見られるというなら断りはしないだろう。
「あ、でも……泊まりなんだろ?」
「心配しなくても部屋は別々だよ」
 そのあたりを気にしているようなので先回りして答えた。付き合っていないのだから部屋を分けるのは当然である。おかしな下心があって誘っているわけではない。そのことをはっきりと伝えておきたかったのだ。
 七海はきまり悪そうにごまかし笑いを浮かべ、目を伏せる。
「じゃあ、行こうかな」
 やわらかな頬をほんのりと紅潮させたままそう答えると、白いティーカップに手を伸ばし、まだうっすらと湯気のゆらめいている紅茶に口をつけた。

 その日は、午前から眩しいくらいの白い日射しが降りそそいでいた。
 七海はそびえ立つような大型船を見上げて唖然としていた。ここまで大きいとは思っていなかったのだろう。船内に入ると、興奮を隠しもせずあちこちきょろきょろと見てまわる。
「すごい……船っていうかホテルみたい」
 この船は今年二月に就航したばかりの三代目だ。
 むかし乗った二代目は、特等室はそこそこゆとりがあってきれいだったが、エントランスや通路は無骨で野暮ったく、船内レストランも古めかしい食堂といった風情で、全体的に冴えない印象だった。
 だが三代目は小粋なバーのような展望ラウンジや、明るく広々とした船内レストランなど、パブリックスペースにもかなり力を入れているようだ。クルーズ客の拡大を狙ってのことだろう。
 遥はカードキーで特等室の扉を開けて、七海を促した。
「さ、ここが僕らの部屋だよ」
「僕らの……?」
 彼女は思わずといった感じで聞き返しながら、怪訝に振り向いた。わかっているのかいないのか問うような視線を向けてくる。遥は気まずい微苦笑を浮かべて軽く肩をすくめた。
「ごめん、小笠原の宿は二部屋とったんだけど、船は一部屋しかとれなかったんだ。ゴールデンウィークだけあって満室でさ」
 間際になってしまったのでこの一室を確保するのが精一杯だった。しかもベッドはキングサイズひとつ。あらかじめ了承を得るのが筋だということは重々承知しているが、断られたくなくて黙っていたのだ。
「七海が寝るときは部屋を出てるから」
「遥はどうするんだよ」
「ラウンジで時間をつぶすつもり」
 一室しかとれなかった時点でそうしようと決めていた。ラウンジもデッキも特等専用のほうなら混むことはないだろう。幸いにも身体は丈夫なので一晩くらい寝なくても平気である。
 だが、彼女は眉をひそめて困惑した面持ちになった。
「そんなことさせられるわけないじゃん」
「部屋は別って約束したんだし当然だよ」
「いいよ、もう……」
 疲れたように溜息をつくと、ベッドサイドまで足を進めてリュックサックを下ろし、開いた扉のまえで立ちつくしている遥にちらりと目を向ける。
「遥のことは信用してるしさ、一緒に寝よ」
「……ああ」
 ドキリとして、気付けばそう返事をしていた。
 もちろん彼女に他意がないことくらいわかっている。遥をひとり追い出すのが忍びなかっただけだろう。なのに——これしきで意識してしまう自分を情けなく思いながら、後ろ手で扉を閉めた。

「ねえ、外には出られないの?」
 展望ラウンジで昼食代わりのアップルパイを食べながら、ガラス越しに外の景色を眺めているうちに、七海はその空気を実際に肌で感じたくなったらしい。
 遥は冷めた紅茶を飲み干してから七海をデッキに連れて行く。特等専用のほうだ。一般向けよりだいぶ狭いが、利用人数を考慮するとこちらのほうが快適だろう。いまは二人きりである。
 そこは若干ひんやりとした潮風が吹きすさんでいた。周囲の構造ゆえか複雑な気流が起こっているらしく、髪が乱雑に吹き上げられて絡まりそうになるが、七海はあまり気にしていないようだ。
「海の匂いなんて久しぶり」
 そう言いながら手すりに腕を置いてもたれかかり、目を細める。
 幼いころに海辺の田舎町に住んでいたこともあって、懐かしく感じているようだ。父親に連れられて海を見たことも少なくないだろう。なにせ娘に七海と名付けるくらい海が好きな人なのだ。
「この景色、お父さんに見せてあげたかったな」
「今度の墓参りのときに教えてあげればいいよ」
「ん、そうする」
 遥も同じように手すりにもたれかかる。
 どこまでも果てなく続くかのような見渡すかぎりの大海原。はるか彼方の青い空。陸からは決して見ることのできない景色だ。その中に立つと何か飲み込まれてしまいそうな感覚に陥る。
 いつしか陽が傾いてじりじりと水平線に沈み始めていた。その様子を二人して無言で眺める。やがて夕陽が完全に隠れて見えなくなり、急速にあたりが暗くなるのを感じると、遥は隣に目を向ける。
「そろそろ中に戻ろうか」
「うん」
 七海は夕陽の名残を見つめたまま頷いた。
 薄暮の中、消えゆく光を受けて浮かび上がるその横顔は、気のせいかもしれないがいつになく儚げに見えて、キュッと胸が締めつけられるように感じた。

 二人は船内レストランで夕食をとり、客室に戻った。
 七海はシャワーを浴びに行き、そのあいだに遥はノートパソコンを開いて仕事をする。急ぎの案件ではないが、ひとりの時間があれば進めようと思っていた。どのみち帰ったら休日返上でやることになるのだから。
「あれ、お仕事してるの?」
「もう終わるよ」
 浴室から出てきた七海は、太腿くらいまで丈があるゆったりとしたパーカーに、細身のスウェットパンツという格好をしていた。半分ほど残っていたペットボトルの水を飲み干して、ふうと息をつく。
「もう寝ようかな」
 そうつぶやくと、キングサイズのベッドの端にちょこんと腰掛けた。遥に背中を向けているので表情まではわからない。ただ、気のせいかその背中が緊張しているように見えた。
「僕はシャワーを浴びてくるよ」
 遥はノートパソコンを閉じて意識的に普段どおりの声を出した。着替えの入った鞄を持って立ち上がるが、彼女は同じ姿勢で座ったまま振り向きもしなかった。
「七海は寝てていいから」
「うん……おやすみ」
 ようやくこちらを向いたその顔には、随分とぎこちない笑みが浮かんでいた。完全には信用されていないのかもしれない。そう思いながらも、おくびにも出さずにおやすみと微笑み返し、浴室に入って扉を閉めた。

 シャワーを浴びて戻ったときには、すでに部屋の明かりが落とされていた。
 それでもスタンドライトの薄明かりがついているので支障はない。キングサイズのベッドの端が控えめに盛り上がり、七海が口元まで上掛けをかぶって寝息を立てているのがわかる。
 ここまで端に寄らなくても十分距離はとれるのに——遥は思わず苦笑する。やはり完全には信用されていないのだろう。もうすこしゆったりと寝てほしかったが、元凶である遥が勝手に移動させるわけにもいかない。
 おやすみ——。
 心の中でそう声を掛けると反対側からベッドに潜り込んだ。結局、七海と同じように端に体を横たえてしまう。ひとつのベッドで寝ているのに、ぬくもりを感じるどころか横顔を見ることさえできなかった。

「んー、いいお天気!」
 タラップを降りるなり、七海は大きく伸びをして抜けるような青空を仰いだ。
 人口約二千人という小さな島にしては思いのほか活気があった。乗船客が多いので、その客を迎えにくる宿の従業員やツアーの係員も多い。ほかにも飲食店や土産店の宣伝をしている人たちが集まっていた。
 十年ほど前に遥が来たときはもっと閑散として寂れた印象だった。それだけ観光客が戻ったということだ。客足が途絶える原因となった小笠原沖フェリー事故から三十数年、島民たちが努力を続けた結果だろう。
 遥たちの宿は港からほど近いところにあるので迎えはない。地図を見ながら徒歩で向かうとすぐに着いた。チェックイン時間前なので荷物だけ預けて、併設されたカフェのテラス席で昼食をとった。
 午後からは予約したツアーに出かけた。小笠原の自然や歴史をガイドに解説してもらいながら、島をめぐるというものだ。ガイドが丁寧で親しみやすかったこともあり、思いのほか楽しめた。
 そのあとは寄り道せずに宿に戻ってチェックインする。サーファーズハウスを思わせるハワイアンな雰囲気の建物だ。一階がテラス席のあるレストラン兼カフェで、二階が客室になっている。
「七海はそっちね。僕はここ」
「うん」
 二人の客室は隣り合っていた。
 七海はさっそく渡した鍵で扉を開けるが、中に入ろうとしたところで動きを止め、怪訝に振り向いた。
「ねえ、なんかベッドが二つあるんだけど……」
「ああ、ここにはシングルの部屋がないらしくてね。ツインを二つとったんだ。僕のほうにもベッドが二つあるはずだよ」
 遥も扉を開いて中を見せた。赤みがかった陽射しが差し込む開放的な部屋に、ベッドが二つ並んでいる。それで状況は理解したようだが、納得はできなかったのか微妙な面持ちになる。
「なんか、もったいないね」
「一部屋でよかった?」
「いまさらって感じもする」
 船では同じ部屋どころか同じベッドで寝たのだから、確かにいまさら感は否めない。だがリラックスして休むには別々のほうがいいだろう。どのみちもうチェックインをすませてしまったのだから、それこそいまさらだ。
「寂しかったらこっちに来てもいいけど」
「さっ……寂しくなんかないし!」
 七海はあわてて言い返し、逃げるように自分の部屋へ駆け込んでいった。
 その場にひとり残された遥はうっすらと苦笑し、隣の部屋で荷物を置くような物音を聞きながら、静かに扉を閉めた。

 荷物を置いたあと、七海を誘って一階のレストランに降りた。
 夜は一般向けの営業をせず、予約した宿泊客のために夕食を提供しているらしい。地元の素材を使った本格的な料理と謳っていたので、半信半疑ながらも今日の夜だけ予約してみたのだ。
 ウェブサイトにも料理の写真は載っていなかったため、どういうものかはわからなかったが、出されたのは新鮮な海の幸を使った創作和食だった。趣向を凝らした見た目も美しい料理がテーブルに並べられた。
 食べてみると、基本がしっかりしていて奇をてらった感じはしない。本格的というのも嘘ではないようだ。七海も最初こそ見たことのない料理を警戒していたが、食べるとすぐに顔がほころんだ。
「あー、おなかいっぱい!」
 食事を終えて二階に上がりながら、七海は満足げに声を上げた。
 それぞれ一品の量は少ないが品数が多いのだ。あまり食べたつもりはないのに、いつのまにか満腹になる。最後のほうはすこし苦しいくらいだったが、それでも二人とも残さず完食した。
「じゃあ、おやすみ」
 隣り合ったそれぞれの客室に戻ろうとしたとき、七海にそう声を掛けられた。ゆっくりと食事をしていたとはいえ、まだ夜九時にもなっていないはずだ。確かに、このあとには何も予定を入れていなかったが——。
「もう寝るの?」
「うん、あしたに備えて」
「そうだね……おやすみ」
「うん、おやすみ」
 七海は笑顔を返し、鍵を開けて部屋へ入っていった。
 せっかくなので散歩でもしようと思っていたが、疲れているところを無理に連れ出すわけにはいかない。まだ明日も明後日もあるのだから焦らなくてもいいだろう。そう自分を納得させると、煌々と蛍光灯がともる下でノートパソコンを取り出した。

「わっ、すごい!!」
 翌日、小型船で沖に出てしばらく走るとイルカの群れが見えた。それも結構近い。晴れわたった青い空に白い雲、透明度の高い海を元気に泳ぎまわる本物のイルカ——七海は目をキラキラと輝かせている。
 同じ船には、遥たちのほかに若い女性の三人グループと男女カップルがいた。インストラクターの教えを受けながら、順に海に入っていく。ウェットスーツを着ているのでさほど冷たさは感じない。
 七海と一緒にそっとイルカに近づく。
 そう簡単に近づけはしないだろうと思っていたのに、すぐそばまで行っても逃げなかった。キラキラと光る水面を見上げると、そこを横切るようにイルカが泳いでいく——まるで写真のような光景だ。
 ただ、写真では感じられない確かな実感がここにはあった。果てが見えない海中に、意外と大きなイルカ。水槽を見ているのではなく自分も同じ海にいるのだ。触れずとも水流などですぐそばを泳いでいることがわかる。
 隣の七海がはしゃいでいることは動きから伝わってきた。長くはない遊泳のあと船に戻ると、表情を覆い隠していたマスクとシュノーケルを外して、パッとはじけるような笑顔を見せる。
「海でイルカと泳げるなんて夢みたい」
「楽しんでくれてよかった」
「ありがとう、連れてきてくれて」
 無邪気に声をはずませる彼女の髪からは海水が滴り、太陽の光を受けてキラキラと輝く。そのまぶしさに、遥はうっすらと目を細めてやわらかく微笑み返した。

「夜は外に行こうと思ってるんだけど、行けそう?」
「全然平気」
 ドルフィンスイムの小型船を下りて、宿に向かう道すがら尋ねてみたところ、七海は元気いっぱいにそう答えてくれた。さすがに疲れたのではないかと心配していたが、この様子なら大丈夫だろう。
 宿に着くと荷物を置いてすぐにシャワーを浴びた。ウェットスーツを着ていても頭は海水につかるし、船の簡易シャワーだけでは落としきれないので、きちんと洗ってさっぱりしたかったのだ。
 ふう——。
 ベッドに腰掛け、ぬるいペットボトルの水を飲んで息をつく。
 さきほど七海と楽しい時間を過ごしたからか、ひとりの時間が無性に寂しい。仕事をする気にもなれず、そのまま仰向けに倒れてぼんやりと天井を眺め、隣の部屋にいるであろう七海に思いを馳せた。

 日が沈みかけたころ、予約した近くの魚料理店に出かけた。
 ここでは一品料理をいろいろと頼んで分け合った。七海はコースより自分でひとつずつ選ぶほうが好きなのだ。遥としても、二人でメニューを見ながらあれこれ話し合うのはとても楽しい。
 頼んだものは、煮魚、焼き魚、島ずし、天ぷらなどの定番メニューである。どれも素材そのものがよく活かされていて驚くほどおいしかった。素材が良くても料理人の腕が良くなければこうはいかないだろう。

「今日もおなかいっぱい!」
 店を出ると、もうすっかり夜の帷が降りていた。
 控えめな街灯と店明かりに照らされた路地を二人並んで歩く。ときどき観光客らしき人たちとすれ違うくらいで、それほど人通りは多くない。飲食店の多く集まるところからすこし外れているからだろう。
「七海、上を見てみて」
「上?」
 真上に向けた人差し指につられるように、七海は顔を上げる。
「わぁ……!」
 電線の向こうに見えるのは宝石を散りばめたような星空だ。空気がきれいだからか、明かりが少ないからか、都心とは比べものにならないくらい数多の星が見えている。
「もっときれいに見えるところへ行こう」
「うん」
 海辺に出ると、あたり一面に降るような星空が広がっていた。
 周囲には同じ目的と思われる人たちがちらほらといた。望遠鏡を用意して星空の解説をしているガイドもいる。ただ、星明かりしかないようなところなので、すこし離れるとほとんど黒い人影にしか見えない。
 しかし七海は周囲には目もくれずにひたすら空を仰いでいた。そのまま砂浜の上をふらふら歩きながら、まるで息をするのも忘れたかのように、ぐるりと空全体に視線をめぐらせていく。
「天の川って本当にあるんだ……」
 視線の先には肉眼でもはっきりとわかる星々の集まりがあった。ところどころ蛇行していて川の流れのように見える。存在は知っていても、自分の目で見られるとは思っていなかったのだろう。
「座ろうか」
「うん」
 遥がハンカチを出すより早く、七海はその場に腰を下ろして仰向けに寝転がった。砂が乾いているのでさほど汚れはしないだろう。遥も同じように彼女の隣に並んで寝転がった。
 ザザーン……。
 波の音を聞きながら、まるでプラネタリウムのような視界一面の星空を眺める。もちろんスケールや美しさは比べものにならない。まるで吸い込まれていきそうな、あるいは落ちてしまいそうな、そんな感覚に陥る。
「ねえ、七海」
「ん……」
 星空に心を奪われているのか、七海は返事ともいえないようなかすかな反応を返す。すくなくとも聞こえていないわけではないのだろう。遥は空のほうを向いたままうっすらと表情を緩めると、静かに言葉を継いだ。
「小笠原は、僕にとって因縁の場所なんだ」
「…………?」
 隣に目を向けると、七海が仰向けのまますこしだけこちらに顔を向けていた。その漆黒の瞳はまるで続きを促しているかのようだ。遥はゆっくりと空のほうに視線を戻して息をついた。
「昔、この近くの海で小笠原への定期船が事故に遭ってさ。そこに結婚するまえの両親が乗っていたんだ。何百人もの乗員乗客のなかで生き残ったのは二人だけだった」
 七海は黙って耳を傾けている。彼女にこの話をするのは初めてだが、両親がフェリー事故の生き残りということは知られた話なので、もしかしたらどこかで聞いていたのかもしれない。
「表向きは落雷による海難事故ということになってたけど、そうじゃないことは現場にいた両親にはわかっていた。だから二人は事故の謎を解明しようと研究にのめり込んだ。そのためなら倫理観も無視してどんなことでもした。結果、僕と澪は実験体として生み出され、メルローズは実験体として拉致された」
「ちょっと待って、実験体って……えっ……遥の両親……?」
 七海は体を起こし、ひどく混乱した様子を見せている。
 メルローズが拉致されていたことは武蔵に聞いているはずだが、その目的や、遥の両親の仕業ということまでは知らなかったのだろう。ましてや遥の生い立ちなど知っているわけがない。
「僕や澪はそんな自覚もなく普通に暮らしていたから、心配はいらないよ。メルももう大丈夫。ただ国の機密事項だからこれ以上のことは言えないし、七海も絶対に口外しないでほしい」
「うん……」
 一連の事件において、七海もまったくの部外者とはいえない。
 武蔵は行方不明のメルローズを探しに日本に侵入して公安に捕らえられたが、その監視係を務めていた七海の父親が自らの立場を利用して逃亡を手助けし、同僚に刺殺されている。
 機密事項の一部となっているその事実についてはすでに七海も知っているし、関連する事実についても知る権利はあるだろう。ただ、遥の勝手な判断でしかないのであまり詳しくは話せない。
 七海はいまだにどうすればいいかわからないといった様子だ。上半身を起こして手をついたまま、同情、困惑、恐怖など複雑な感情をにじませながら、おろおろと目を泳がせている。
「星を観ようよ」
 遥が微笑んでポンポンと隣を叩くと、彼女は戸惑いつつも仰向けになり星空に目を向けた。その横顔には隠しきれない緊張がにじんでいる。星を映した漆黒の瞳もこころなしか揺れているように見えた。
 遥は目を細めてゆっくりと空に向き直る。
「そういうわけで父親は後継者から外されているんだ。だから僕が一刻も早くじいさんの後を継げる人間にならないといけないし、結婚して跡取りを作らないといけない。周囲からはそういうプレッシャーを掛けられている」
 ザザーン——。
 七海は身じろぎひとつせず、ただじっと口をつぐんで続きを待っている。その息の詰まる雰囲気はもちろん、波の音にさえ煽られているように感じ、遥の緊張も次第に高まっていく。
「僕は幼いころから橘の後継者として生きてきた。十年ほど前、橘の血を引いていないことがわかったけれど、それでもじいさんは僕を変わらず家族として扱ってくれたし、後継者にすると言ってくれた」
 本来、血筋を重んじる橘家ではあり得ないことだ。
 もともと遥自身が後継者になりたいと望んだことはない。本家の長男に生まれつき、そういうものとして無感情に受け入れてきただけである。後継者を外されることも粛々と受け入れるつもりだった。
 だが剛三はそうしなかった。本家筋ではほかに適切な人物がいなかったので、仕方なく目をつむっただけかもしれない。それでも家族として認められているように感じて、嬉しかったのだ。
「だから僕はその恩義に報いなければならない。結婚して次の後継者を作るのも求められる役割のひとつだ。このままだと近いうちに見合いをすることになる。でも、僕はきっとこれからも七海しか好きになれない」
 未来のことなので断言はできないが、いまのところ七海しか好きになれる気がしない。ほかの誰にも心を奪われたことがないのだ。七海と出会うまえも、七海と別れてからもずっと——。
「だからお願いだ。もう一度だけ僕と付き合うことを考えてほしい」
 これが最後の告白になる。
 そう意識すると、波の音が聞こえなくなるくらい鼓動がうるさくなった。じわじわと全身から汗が噴き出してくるのを感じながら、判決を待つ被告人のような気持ちで息を詰める。
「う……ぐっ……」
 隣から呻くような声が聞こえた。
 驚いて振り向いた瞬間、彼女は腕で目元全体を覆い隠してしまった。しかし唇を結んだまましゃくり上げているのはわかる。泣くのを必死にこらえようとしているようだが、こらえきれていない。
「うっ……僕の答えは変わらないって、いったい何回言ったらわかるんだよ。断るのだってつらいんだぞ。遥なんかとっとと結婚してしまえばいいんだ。そしたら僕だってこんな思いしなくてすむし」
「ごめん……」
 彼女の涙に、吐露に、鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けた。
 自分の事情ばかりで、彼女の事情を思いやることができていなかった。言われてみれば当然である。その気もない相手から何度も告白されるのは迷惑でしかないし、断るのも負担だろう。
 そのうえ相手は保護者だ。関わりを絶つことも無下にすることもできない。強要しなくても強要になりうる立場だとわかっていたはずなのに、親しくするうちに頭から抜け落ちてしまった。
 しゃくるような彼女の嗚咽はしばらく続いたが、そのうち疲れたように小さくなり、やがて波の音だけが聞こえるようになった。
「泣いちゃってごめん」
「いや……」
 彼女はきまり悪さをごまかすように笑っていた。睫毛や瞳が濡れているのは星明かりでわかるが、すぐに乾くだろう。言いたいことを言って、泣くだけ泣いて、すっきりしたように見える。
 終わったんだ——。
 そのときすとんと納得した。
 潮風が冷たく、砂も冷たく、急に体が冷えていたことを自覚する。しかしそんな素振りはすこしも見せず、仰向けに寝転がったまま彼女に横目を流し、いつものようにやわらかく笑ってみせた。


◆目次:機械仕掛けのカンパネラ


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