Fireside Chats

ファイアーサイド・チャット=焚き火を囲んだとりとめない会話のかたちで、広報やPRの問題を考えて見たいと思います。

そこまでやるのか!

2005年03月24日 23時59分39秒 | ニュースコメント
>フジテレビジョンとニッポン放送は24日、ソフトバンク系列の金融会社ソフトバンク・インベストメント(SBI)と提携し、ニッポン放送の保有する13・88%分のフジテレビ株をSBIに貸した結果、SBIがフジテレビの筆頭株主になったと発表した。(読売新聞)

毒を以って毒を制するという意図なのだろうか。
IT系マネーゲームのご本尊、北尾吉孝氏が登場した。
いまや、ソフトバンクとソフトバンクインベスティメントは全く別の企業グループとみなすべきだろう。


ホリエモン以外なら誰でもいいとのことだろうか。前門の虎を制するために後門の狼を呼び込んでしまった。
ホリエモンのほうがまだしもメディア革新に意欲を持っているように、ぼくには見えるのだけれど・・・・。

フジサンケイグループは破滅への道に足を踏み入れたと予言しておこう。


人生いろいろ。ジャーナリズムもいろいろ。

2005年03月22日 22時49分25秒 | 参加型ジャーナリズム
ホリエモンの不用意な発言が、ジャーナリストからの反発を招いているようだ。
例えば、江川紹子ジャーナルで紹介された、

「新聞とかテレビを、我々は殺していくんですけど、自分たちが(新聞やテレビを)持ちながら殺していった方が、効率がいいかなと思って」

そして、3月5日の毎日新聞堀江社長との一問一答で語った発言、

「みなさんが考えるジャーナリズムは、インターネットがない前提でのお話なんです。インターネットがない時代はもしかしたら必要だったかもしれない。しかし、今は必要ないと私は言い切ってもいいと思う。なぜ必要ないかといえば、興味のあるネタはインターネットで自分で探せるようになっている。(ネットには)いろんな意見がある。いろんなことを考えている人がいて、それを並行して見ることができて、自分の考え方の形成に役立つ。これまでは新聞が報道しないと正しくないとみんな思っていたが、そうじゃなくなってきている。ネット上はみんなが正しいと思った情報はすごく広まる。そうやって世論が形成されていくようになっていく。少しずつ影響が社会に出てきている。」

その極端な言い回しが、既成ジャーナリストのプライドを傷つけたと見え、大手メディアのジャーナリストからの反発しきりである。
例をあげれば、毎日新聞の岩見隆夫氏のサンデー時評

岩見氏の意見に全面的に賛同するわけではないが、既成ジャーナリストの役割を軽視することは間違いだと思う。
ニュース系のブログを見ても、新聞をはじめとする既成ジャーナリズムの報道を元に議論が展開されていることは明らかである。一次情報を報ずる新聞や雑誌やテレビなどの存在は絶対に必要だ。

問題は、これらの既成ジャーナリズムが構造的な行き詰まりに追い込まれていること。

例えば、偏向報道や誤報の存在。
・朝日新聞はNHKに対する安倍晋三圧力報道をいまだに誤報と認めていない。
・ライブドア報道でも飛ばし記事が多すぎはしないか。
・三井住友銀行と大和證券は合併するのしないの?

その一方、報ずるべき事実に目をつぶる。
・なぜ、コクドの節税経営を知っていながら批判しなかったのか。
・読売新聞1000万部の嘘をなぜ暴かないのか。
・大阪高検三井環事件が検察のでっち上げであることを追及しないのか。
・岩見隆夫は政策報道よりも政局報道のほうがニュース価値があると思っているの?
・日枝邸の鹿島利益供与疑惑の実態はどうなの?

加えて、悪名高きメディアスクラムである。
・水に落ちた犬を叩きまくるのは醜悪ではないか。
・遺族の鼻先になぜマイクを突きつける。
・新聞休刊日が全紙一緒なのっておかしくない?

このような、既成ジャーナリズム同士なれあいの現状を見るにつけ、新しいジャーナリズムの登場を心待ちしたくなる。
「マスコミひょうろん」の頃からの岡留安則ファンとしては、「噂の真相」のような硬骨のジャーナリズムがまた出てきて欲しい。
既成ジャーナリズムには、今度の騒ぎを他山の石に、ネット時代のジャーナリズムの役割を再考して欲しい。

既成ジャーナリズムだけが、信頼にたるジャーナリズムだとの幻想からはそろそろ脱却しましょうよ。
サンケイ新聞一紙ぐらい、今までと違うジャーナリズムに変身してもいいじゃない。
人生いろいろ、会社もいろいろ、新聞もいろいろのほうが、もっと面白くなると思うんですけど、どうでしょう。


万国博の歴史の中での「愛・地球博」

2005年03月20日 10時29分59秒 | PR戦略
今週末から始まる愛・地球博。
開幕に先立ち、19日のプレスプレビューに紛れ込んできた。
5万人の人出。それでも会期中の土日の3分の1だという。
外国政府の出展は工事中で準備が間に合っていないものがいくつもある。
開幕に間に合わない国も出るのではないだろうか。

グローバルハウスや日本館には入れず、瀬戸会場には足を踏み入れず、長久手会場で企業パビリオンを3つとグローバルコモンをいくつか回ってきたにすぎないため、全体を語る資格はない。
葦の髄から天井を覗くとの謗りをおそれず感想を述べれば、テーマパーク慣れしているためだろうか、気がせいてじっくり鑑賞する余裕がないためだろうか、感動したり、触発されたりという出展が意外に少ない気がする。

その中でのお勧めはフランス館の映像プレゼンテーション。
地球の環境がいかに蝕まれているかを、真四角な部屋の4面に映し出すドキュメンタリー映像と、ときどき提示する短いテキストで訴求する。
地球環境を捉えるマクロな視点と、ミクロな現実を映し出す映像の迫力と、それらをつなぐ気が利いたコメント字幕が、問題の深刻さを鮮やかに提示している。

ロンドンにはじまる万国博の歴史は、永らく「モノ」を見せる場だった。
水晶宮やエッフェル塔に始まり、ベルの電話やハンバーガーを見せることに発展し、大阪万博の月の石で頂点に達した。
モントリオール万博以来、「映像」を見せることに焦点が集まり、筑波の科学万博はその流れの中の映像博覧会の色の濃いものだったと思う。
愛・地球博は、それを一歩進め、「コンセプト」を見せる博覧会になるべきだと思っていた。
その成功例をフランス館に見ることが出来て満足した。

万国博の歴史を別の切り口から整理すると、国家が万国博開催の中心となった時代から、これも大阪万博を節目として、企業が中核を担う時代が永らく続いた。
愛・地球博に期待されるものは、国という第一のエンジン、企業という第二のエンジンに続く第三のエンジンとして、市民の役割を拡大することだ。
つまり市民サイドから見ると、「見る万博」から「参加する万博」への転換である。
そのための仕掛けは、「地球市民村」「市民パビリオン」「ボランティア参加」「エコマネー制度」など、すでにいくつかビルトインされている。
これらの試みがどの程度効果をあげるかどうかは、開幕してからの展開のいかんにかかわっている。
ばく自身も8月にロータリーホールを借りて実施する国際シンポジウムのプロデューサーを務めるが、フツーの人が博覧会に携われる仕組みが機能するかどうかに注目していきたい。


ブッシュ政権 イスラム圏でのプロパガンダに本腰?

2005年03月17日 21時05分20秒 | プロパガンダ
>ブッシュ米大統領は14日、アラブ、イスラム世界での対米イメージ戦略など米国の広報外交
>(パブリックディプロマシー)を担当する国務次官にテキサス州知事時代からの側近
>カレン・ヒューズ元大統領顧問を指名した。

第一期政権の国務次官で「マディソン・アベニューの女王」と呼ばれたシャーロット・ビアーズの無残な失敗については、以前ブッシュは広報を理解していない? のエントリーで触れた。

第二期政権で起用されたのは、カール・ローブと並ぶテキサスマフィアで、「史上最も大統領に影響力を持った女性」「ブッシュのもう1人の母親」と呼ばれたカレン・ヒューズ元大統領顧問(48)である。
西森マリーのUSA通信によると、3月26日封切のサイコロジカル・スリラー「クライシス・オブ・アメリカ」でメリル・ストリープが、副大統領候補である息子を洗脳し影で操る母親を演じるにあたり、役作りの参考にしたモデルがカレン・ヒューズだという。
テキサス州のテレビ局のリポーター出身の彼女は、2000年の大統領選挙で、戦略担当のカール・ローブに対し、広報を担当してブッシュを勝利に導き、そのままホワイトハウス入り。
02年に家庭の事情で大統領顧問(広報担当)を辞任したが、04年夏には大統領選のためホワイトハウスに呼び戻され、ブッシュ再選を支えた。

シャーロット・ビアーズに比べ、カレン・ヒューズのエクスパティーズは、このポストにマッチしている。
・広告ではなく、広報の専門家。
・ブッシュと近く、直属の上司にあたるライス国務長官ともホワイトハウス仲間。

とはいえ、彼女の任務はまな易しいものではない。
アメリカ政府の広報活動がますます謀略的になっていることは、ここに面白いエントリーがある。
かつてアメリカは、うそだけはつかない「ホワイトプロパガンダ」の伝統を誇っていたが、最近では目的達成のためには、倫理的規範をかなぐり捨てる「ブラックプロパガンダ」もいとわない国になってきている。このやりかたは、長期的にアメリカの信用を失墜させるやり方だ。
そもそも、イラクでの強引な作戦の遂行中に、親アメリカの世論形成をイスラム圏でなしうるのか。

カレン・ヒューズのやりかたを注視しておく必要がありそうだ。


メディア文化の覇権を目指した鹿内春雄の戦略

2005年03月12日 20時54分38秒 | ブランディング
インターネットがいまだ登場しない20年前に、メディアの変身をリードした男がいた。
フジサンケイグループの議長だった鹿内春雄氏である。
当時の彼の抱いていた問題意識は「ニューメディア」時代の到来にフジサンケイグループはどう立ち向かうかだった。

手元に、「メディア軍団 0号」という1985年7月16日発行の資料がある。
フジサンケイコミュニケーショングループのCI推進室が発行するグループ内の情報誌で、面白いことに40歳以下の社員にのみ配られたものだ。
ここに発行前日に行われたフジサンケイグループ全体会議での鹿内春雄氏のスピーチの口述筆記が掲載されている。
この中で鹿内氏は、

>皆さん方もご存じのようにニュ」メディア時代、ニューメディア時代ということが言われます。
>で、テレビは変化するだろう、新闇は変化するだろう、ラジオは一体全体、中波は存立しているのどうか、
>FM放送はどうなっているんだろうか……いろんなことが言われております。
>これは全部、我々の企業を取り巻く環境でございます。
>したがって我々としては、この環境を黙って見過ごしていくわけにはいかない。
>一体全体どうなるんだろう、その中で我々はどうやって生きていけぱいいんだろうということを今、
>真剣に討議する時期ではないだろうかということから、2年以上前にこの作業にかかったわけです。

と前置きした上で、「フジサンケイグループはメディア文化の覇権を目指す、戦闘軍団である」とのスローガンを掲げ、

>皆さん方には、恐らく耳にタコができるぐらいなじみの深い言薬になったであろう「ニューメディア時代」。
>実は私、この「ニューメディア時代」という言葉が大嬢いなんです。なぜかというと、
>新しく出てくるニューメディア、それの時代であるならぱ、我々はオールドメディアなのか、
>既存メディアなのか、その時代は去ってしまうのか、我々の時代はもう古くなっちゃうのか。
>そうじゃないと思う。このニューメディアという、すぺてがとって代わるような呼び方というのは、
>私は必ずしも真理を突いている言葉ではないと思いますんで、私自身は好んで使っていない。
>むしろ、「新たなるメディア文化の時代」ということを言ってるわけです。

彼は、メディアの変化が、次の3つの複合で訪れると指摘します。
1)新たに登場するデジタルメディア。
2)それらと相互補完関係を構成する既存メディア。
3)ビル・ファッション・イベントなど従来はメディアとみなされなかったもののメディア化。
この3つの変化がアウフヘーベンし、新しい「メディア文化」の時代が到来する。
その時代の覇権を握るのは、そこでいかなるコンテンツを送り出せるかであり、ハードではなくソフトこそが死命を決すると訴えています。

メディア変化の時代には、三井・三菱・住友・安田などの財閥や東急・西武などの企業集団、そして新日鐵・トヨタ・NTT・AT&T・IBMなどの参入も覚悟しなければならないだろう。
このような大企業に伍してフジサンケイグループは存立するのか。
いかなる大企業が立ち現れようと、それに負けないだけの能力をフジサンケイグループは持っている、それは人を感動させる力だ、と喝破します。

>皆さん方の扱っている産業-新聞を含めてテレビであろうがラジオであろうが、
>すぺて人間の知恵、科学技術というものの中から生まれてきたものです。
>ただし、その中でお分かりいただきたいのは、その科学技術が大きな産業を生んだのではないということ。
>印刷技術というものは、決してそれ自身は強くはなかったけれども、そこにソフトというものが生まれてきて、
>そのソフトが発展したときに初めて大きな産業になり得た。
>テレビもそうです。向こう側にいる人がただこっち側に見えるという技術や機械だけでは、
>これは大きなものになり得なかった。そこのところに人々が楽しみ、新鮮な感動を得、驚き、
>そして人間くささ、人間のドラマ、喜怒哀楽というものを感じていったときに初めて一つの産業に進み始める。
>そしてそれが今日、マスコミ業界という非常にパワフルな業界に育っているということが言えると思います。
>つまり、どんなに素晴らしい技術であっても、そこに素晴らしいソフトがつかなげれぱ
>決して大きなパワーにはならない。

>お祭り好きと言われようが、事業屋と言われようが、イベント屋と言われようが何と言われようが、
>熱気をつくっていく、社会現象をつくっていく、流行現象をつくっていく、
>そういうカは他のマスコミグループには絶対引けを取らない。
>我々がもし勝つとしたならぱ、これだけが勝てる最大のプラスメリット、
>我々の武器ではないかなというふうに考えている次第です。

「楽しくなければテレビじゃない」のキャッチフレーズはこの基本認識の下で生み出され、それらのシンボルがあの目玉マークだった。
この戦略は見事に成功し、フジテレビは暫く視聴率独走時代を突っ走る。そのエンジンとなったひとりが、当時の日枝編成局長だった。
・徹底した娯楽路線の追求
・夢工場などイベントとの連動
・グループ各社連携によるシナジー効果
など、テレビの枠にとどまらない柔軟でダイナミックな展開が勝利の方程式だった。

「ニューメディア」を「インターネット」に置き換えれば、鹿内氏の問題意識は今日でも少しも古びていない。
「財閥」を「IT企業」に置き換えれば、競合環境はより切実である。
鹿内氏が今日ありせば、今回のニッポン放送株問題にどう対応しただろう。
おそらく、「既存メディアとインターネットの融合の具体像が不分明である」としてかたくなに耳を貸さない姿勢はとらなかったのではあるまいか。





既存メディアとインターネットとの融合

2005年03月12日 18時38分26秒 | 参加型ジャーナリズム
ホリエモンに対する批判のひとつとして、「既存メディアとインターネットとの融合」を標榜するにもかかわらず、その具体像が明らかではないという指摘がある。
しかし、これに対する明快な解答をひとりホリエモンに求めるのは酷ではあるまいか。

日本のテレビ草創期のことを振り返ってみよう。
テレビだってテレビ表現の具体的イメージ無しでスタートしたのだ。
テレビの本放送開始は昭和28年2月1日。
当日の番組表を見たことがあるが、式典の中継にはじまり、菊五郎劇団の中継があったり、落語があったり、ニュース映画をそのまま流したり、ラジオの音楽番組を同時中継したり、・・・。
テレビらしい映像表現はいまだ初歩にとどまっていた。

やがて、NTVの井原高忠が、「光子の窓」でアメリカに学んだバラエティの手法を日本に根付かせる。
NET(現在のテレビ朝日)が、アメリカの人気番組「TODAY」に範をとり「木島則夫モーニングショー」をスタートさせたのが今なお猛威をふるうワイドショーのはじまりだった。
カラー放送のスタートはテレビの表現の幅を広げたし、VTR技術の発展は、テレビドラマの制作現場を、生放送の制約と過剰な照明がもたらす灼熱地獄から救い出した。
このようにしてテレビ独自の表現形態は、技術革新と、さまざまなひとの暗中模索の中から出来上がってきたのだ。

こうして、テレビがメディアの王座を占めると、必然的に他のメディアに影響を与えずにはおかない。
それまで娯楽の王座を占めていた映画は、「五社協定」と呼ばれる映画スタアの囲い込みをすることでテレビに対抗しようとしたが、結果的に長い低迷の淵に沈んでしまった。

ラジオはダイレクトにテレビ急成長のあおりを受けた。テレビが茶の間の中心にどっかり座り込み、ラジオは子どもの勉強部屋に追いやられた。
それまで「みなさん」と呼びかけていたラジオはいつの間にかリスナーに「あなた・きみ」と呼びかけるようになったのだ。いわば「ラジオのパーソナルメディア化」である。これによりラジオは命脈を保ったわけだが、この流れをリードしたのが、ニッポン放送の看板番組「オールナイトニッポン」だった。
この番組のパーソナリティとして斉藤安弘氏とコンビを組み、「カメ&アンコー」のグループ名で「水虫の歌」を歌っていたのが亀渕昭信社長だから、振り返れば隔世の感がある。

新しいメディアの登場に遅れて新しいメディア表現が生まれる。
同時に新しいメディアの登場は、近隣メディアに表現形式の変貌を促すのだ。
テレビに限らず、既存メディアはインターネットの登場を受け、インターネット時代にふさわしい独自の表現を模索しなければならない。ちょうどテレビの登場を受けてラジオが変貌したように。
そしてそれは一人の天才が生み出すのではなく、多くの心あるものの営みの中から生まれてくるのだ。


フジサンケイグループの失ったもの

2005年03月12日 08時23分41秒 | ニュースコメント
>インターネット関連会社ライブドアが、ニッポン放送株を新たに取得できる権利(新株予約権)をフジテレビジョンに与えることの差し止めを求めた仮処分申請について、東京地裁は11日、差し止めを命じる仮処分決定をした。(読売新聞)

良識的な司法判断で良かったと思う。
当然こうなるだろうとは思いつつも、裁判所はITへの理解が薄く、時々素っ頓狂な判断をするので、実は心配していた。

フジサンケイグループ以外のマスコミも同じ危惧を抱いていたのだろう、あるいは同じマスコミ仲間の日枝会長を批判することを控えたのだろうか、ほとんどが成注報道に留まっていた。
(成注報道:「成り行きが注目されます」とのコメントにとどめ、主張の表明や独自の論評を回避すること。時としてジャーナリズムの自殺行為ともなる。)
ブログには明快な主張が溢れているのに、マスコミが揃って及び腰なのは、やはり今のマスコミの限界を示しているといえるだろう。

そこに司法の判断が下った。
水に落ちた犬を叩きまくるのは、マスコミの悪しき習性である。
日枝批判にお墨付きが与えられた今、司法判断を大義名分としたアンチ日枝報道が増加すると思われる。

思うに、フジテレビとニッポン放送は新株予約権付与の決定に際し、仮処分申請で差し止めとなる可能性も充分に織り込みつつ、「もし、差し止めとなっても、失うものは何もない。」と考えこの暴挙に走ったのではないだろうか。
確かに、ダメでもともとだし、この奇襲あればこそ、日枝優勢の状況認識がTOBへ応じる流れに拍車をかけたのかもしれない。混迷に持ち込んでの時間稼ぎは、資金力に余裕を持たないホリエモンにダメージを与えたかもしれない。

反面、この強引な手法をやりすぎと評価するアンチ日枝の世論も生み出した。
×新株発行予約権、○時間外取引の司法判断は、この世論を定着させるだろう。
公共性を錦の御旗として掲げる報道機関として、正しい選択だったのだろうか。
失うものがないとして選択した手法は、フジサンケイグループの信頼を揺るがせる結果を招いたと思う。



西武鉄道の総会屋利益供与が今回の発端では?

2005年03月04日 00時25分43秒 | ニュースコメント
堤義明氏は04年10月13日、記者会見し、コクドの会長などグループの役職を同日付ですべて辞任し、経営から身を引くと表明した。

なに故に堤氏はこの記者会見を行ったのだろう。
今日の報道ステーションによると、堤氏は自発的な記者発表により、商法違反の問題は免責されると思っていたとのことだ。
案に相違して虚偽記載の問題とインサイダー取引問題で今日の逮捕に追い込まれてしまった。

インサイダー取引を行ったにもかかわらず、免責されると考えたとするなら、堤氏の認識が甘く、適切なアドバイザーを持たなかったというしかない。
ほんとうに報道ステーションの言う通りなのだろうか。
むしろ、堤氏は自発的記者発表に「追い込まれた」とみるのが正しいのではないのか。
そう考える理由は04年3月の西武鉄道への強制捜査である。

読売新聞の報道によると、
>私鉄大手「西武鉄道」(本社・埼玉県所沢市)が子会社を介して総会屋側に資金提供していた事件で、
>警視庁組織犯罪対策部は1日、西武鉄道専務伊倉誠一(65)、同社取締役菅野徳紘(のりひろ)(59)の2容疑者ら
>西武側6人、総会屋側3人の計9人を商法違反(利益供与)の疑いで逮捕、西武鉄道本社などの捜索を始めた。

西武鉄道本社への強制捜査で、警視庁はクリティカルなデータを多く入手したはずだ、これをベースに地検特捜部と国税庁を加えた連係プレーが行われ、この進展に脅威を感じた堤氏が、捨て身の戦略として記者会見に臨んだものの、地検の追及をかわしきれなかったという読みがあたっているのではないだろうか。


木鐸はどこへいったのか

2005年03月03日 23時56分40秒 | ニュースコメント
堤義明氏が逮捕された。
マスコミ各社は堰を切ったように堤バッシングに走り始めた。
こんなことは以前から判っていたことではないのか?
非公開のコクドが西武鉄道を支配する実態はかねてより指摘されていた。
土地の購入などで負債をつくり税金を圧縮する商法も周知の事実だった。
堤氏の専制支配についても誰知らぬものはない。
しかし、これらを正面から批判した報道は寡聞にして知らない。

かつて、立花隆が田中角栄の金脈を暴き、故児玉隆也が越山会の女王を記事にしたとき、記者クラブの記者は、われわれの知らない情報はないと嘯いたという。
心あるジャーナリストの中には、角栄的政治手法を批判したいと思った人もいただろう。
堤商法のいかがわしさを論難しようとした人もいただろう。
しかし、既存マスコミにはそのような論説を展開できる場は失われている。

ぼくが今読みたいのは、堤氏の罪と同時に功績をも正しく評価する記事だ。
しかし、大衆迎合的紙面からは、堤性悪説以外の記事は排除されてしまう。

こうしてぼくは、不毛と知りつつも、ライブドアニュースに期待してしまうのだ。
やがては裏切られる期待だろうと諦観しつつ・・・・。

木鐸よ出でよ!