
わたしにとって、すばらしい旅の思い出となった。
「健が中学生になったら、修学旅行とか、部活の合宿とか、いろいろ忙しくなって、もう旅行なんぞに付き合ってもらえなくなるだろう。ぼくの方はだんだん歳をとって、そのうち旅行にも行けなくなるだろう。今のうちだ」
おじいちゃんはそう言って。一週間ばかりの長い旅行を計画した。まず、山形まで開通したばかりの東北新幹線で、終点まで行った。
山形では、いの一番に山形城跡を訪れた。
山形城は別名霞(かすみ)城(じょう)という。
霞城跡は、昭和六十一年に国の史跡に指定され、霞城(がじょう)公園として整備がすすめられていた。そこは、戦前までは歩兵第三十二連隊が駐屯していた。この連隊は駐屯している場所の名前から、霞(が)城隊(じょうたい)ともよばれていた。
おじいちゃんは戦争中に一度、訪れたことがあったという。
「お父さんが……、つまり。健にとってはひいおじいちゃんなんだけど、ぼくが山形に出張になったと言うと、懐かしそうな顔をしてね、山形に行ったら、あっちいってみろ、こっちいってみろ、と言って、いろいろ思い出話をしてくれた」
おじいちゃんのお父さん、つまりわたしのひいおじいちゃんは中学校を卒業するまで山形市内の香澄町(かすみちょう)というところに住んでいた。
そこに住んでいた人は、東北弁を話さなかったそうだ。
みな江戸弁だった。
というのは、ここの人たちは昔っからそこに住んでいたわけではなかったからだ。
そこに住むようになったのは、明治維新からさかのぼること、ほんの20年ばかり前からのこと。仕えていたお殿様が失脚して、幕府の左遷地ともいうべき山形に転封となり、それに付き従ってやってきた。
それまでは浜松にいた。しかし浜松にいたのも30年間ほどで、その前は肥前の唐津にいた。その前も、その前もあって、要するに、ひいおじいちゃんの一族が使えていたお殿様というのは譜代大名で、政治に直接関与しながら封地を転々としていたのだ。
家臣団は江戸に詰めることが多く、したがって通用していた言葉は江戸弁だった。
山形では、みんな恐ろしく貧乏をした。何しろ、長崎を持つ唐津では実高ニ十五万石ともいわれ、浜松は実高十五万石といわれた。山形は額面5万石だったが、実高はそんなになかったそうだ。唐津時代と比べると実収入は実に五分の一に減ったのだ。
こうした場合、普通、リストラがある。しかし、殿様は誰の首も切らず、全員を山形に連れて行った。そのため、家臣一同、貧窮した。
不足分は自給自足のような生活をして補った。居住している家屋周辺のあいている土地という土地を耕して野菜を植え、生活必需品は手作りをし、その技術を互いに教えあい、助け合って暮らしたという。
「だからひいおじいちゃんは器用な人だったよ。踏み台とか仏壇などは、手作りをした。庭には必ず野菜を植えていた。東京にきてからも体が元気なうちは畑を作っていたね。果樹も随分植えたけど、ぼくがみんな枯らしてしまった」
おじいちゃんは勉強ばかりしていたので、そういうことはあまり教えてもらわなかったそうだ。ひいおじいちゃんが亡くなってから、見よう見まねでやってはみたが、果樹は難しく、枝を払って枯らしてしまったらしい。
わたしたちは霞城公園を出てから、JRの線路の反対側にある香澄町をしばらく歩いた。現在は銀行や病院、学校、その他ビルが立ち並ぶ。昔は侍長屋があり、その庭先には畑が広がっていたそうだ。
「中学を卒業したら、後からおいで」といわれて、家族がみんな台湾に行ってしまった後、ひとり残されたひいおじいちゃんは、どうやって毎日を暮らしたのだろう。
コンビニもハンバーガーショップもなかったのだ。
両親から預かったお金のうち、旅費だけはなくならないようにと用心しながら、ご飯を自分で炊き、洗濯も自分でやったのだろう。家族が残していった畑の手入れなどもしたかもしれない。
うちに、たった一枚だけ、ひいおじいちゃんの中学生時代の写真がある。お祭のときに、友だちと撮った写真だそうだ。絣の着物と袴という書生スタイルのひいおじいちゃんたちは、割ったこもかぶりを前にして、精一杯大人のポーズで撮影に臨んでいた。当時、庶民はカメラなど持っていない。写真屋さんにたのんで特別に写した一枚だ。
めでたく中学を卒業したひいおじいちゃんは、その、友だちとの記念写真を、卒業証書や、身の回りのものなどとともに行李に詰めて、勇躍山形を後にした。まさか、大阪で、全く足が動かなくなるなんて思いもしなかったろう。足が動かなくなって、もう家族とも会えないかもしれないとなった時、どんなに心細い思いがしただろうか。
しかし、助ける人が現れて、生き延び、新しい自分の家族を持つまでになった。野球で言えば、起死回生の逆転満塁ホームランだ。
わたしは自分のこれからを考えてみた。おじいちゃんはいつまで、わたしのそばにいてくれるのだろう。
そう思って横を歩いているおじいちゃんを見上げると、おじいちゃんも気付いてわたしの方に顔を向け、微笑んだ。
「ここ、香澄町というだろう?」
「うん」
「おばあちゃんは東京の霞町というところに住んでいたんだ」
わたしはおばあちゃんの亡くなる前の日のことを思い出した。
「なんで、私と結婚したの? 私が、東京の霞町のお嬢さんだと思ったから?」
おばあちゃんはそう言っていた。
「ただし、字は違うだろう?」
山形は香澄町と書き、東京は霞町と書いた。
「それはね、山形は戊辰戦争のとき賊軍となってしまったので、維新後、東京の霞町に遠慮して字を換えたんだ。だからぼくらは東京の霞町には独特の憧れがあってね。おばあちゃんがそんなところに住んでいたから、最初、敷居が高いと思ったんだ。
おまけにね、ぼくが初めておばあちゃんの家に行ったとき、おばあちゃんは和服でなくて、ワンピースで出てきたんだよ。
戦争中で、街ではワンピースというのは、あまり見かけない時代だったから、それを見て、ぼくは、なんか、リリアン・ハーヴェイみたいな女の子が出てきたぞと思ったんだ。
さすが東京の霞町だなってね。
リリアン・ハーヴェイといってもあんた知らんだろうなあ。昔の、ドイツの女優さんだ」
後年、ネットでわたしはリリアン・ハーヴェイの写真をみた。なるほど、おばあちゃんの若い頃の写真によく似ていた。その女優さんはおじいちゃんがお酒を飲むとよく歌う「ただ一度のチャンス」という主題歌を持つ映画「会議は踊る」にでてくるヒロインだった。
亡くなる前日、おばあちゃんは、
「なんで、私と結婚したの? 私が、霞町のお嬢さんだと思ったから?」と、何度もおじいちゃんに聞いていた。
「真っ白な海軍の制服を着たあなたがやってきたのよね」
そうも言い、おばあちゃんは、おじいちゃんの何かの言葉を待っていた。
「リリアン・ハーヴェイみたいな女の子が出てきたぞ。なんて可愛いんだって思ったよ」、
おじいちゃんはそういえばよかったんじゃないか?
それとも、わたしが聞いていないところで、言ったのかな?
「さて、そこでだ」
とおじいちゃんは、わたしのセンチメンタルな気分を破るかのように言った。
どうして、さて、そこでだ、となるのか意味不明、とわたしは心の中でつぶやいた。わたしはおじいちゃんの照れを感じた。
「次行こうか」
「次はどこ行くの?」
「もう、山形には、住んでいたという家も、親戚も、何もかもなくなってしまったが、一つだけ残っているものがあるんだ。この前のおばあちゃんのお葬式の時にな、谷口の本家の人が来て教えてくれたんだ。ぼくも、その時初めて知ったので行ったことがないんだ」
おじいちゃんは地図を広げた。
「桜町の豊烈(ほうれつ)神社は……と、あった。ここだ。ここから真っ直ぐだ」
山形の目抜き通りは人通りも車も東京に比べてずっと少なく、静かだったが、神社の境内に入るとさらに静けさが深まった。
おじいちゃんは本家の人から書いてもらったらしい手書きのメモを手にしながらその場所を探し、やがて、ひとつの石碑の前で立ち止まった。
その石碑には戊辰戦争で戦死した人の名前が刻まれていた。
おじいちゃんはその中のひとつを指差した。
「ほら、ご先祖様はここにいる」
確かに。
わたしはそこに、自分と同じ苗字を持つ人の名前を見た。
その日の神社の境内は、ほかに訪れる人もなく、真夏の午後のなかで、しーんと静まり返っていた。
「不思議なものだ。この人は、維新当時、賊軍として戦死したので、一族の者はしばらく表立って口にすることさえはばかっていたほどだが、昭和30年になってここに祀ってもらって、神社の柱のひとりになった」
わたしも不思議な気持ちになっていた。
わたしは、母子家庭の子どもだった。軽く扱われていた。民間の安アパートの中で、母親の内縁の夫から、サンドバッグのように殴られていた。母親からは無視され、学校でもハブにされていた。わたし自身も、自分は取るに足らない、道端の石ころほどの値打ちもない者と思っていた。
しかし、石碑に刻まれた名前を見るうちに、自分は道端の石ころなどではないと思えてきた。
この人との血のつながりは薄い。なぜなら、わたし達は、この人が戦死したために、跡継ぎとして迎えられた養子の子孫だからだ。
この人のことは何も知らない。
どんな性格だったか、どんなことをしたのかさえ全く知らない。
ただ石に名前が刻んであるというだけだった。
それだけだったが、誇らしい気持ちが、からだの中に湧き出してきた。
わたしもまた、養子となって一族に迎えられた。
おじいちゃんは「谷口のうちを継ぐ者は、健くん、あなたしかいないんだ。だから、大切な子どもなんだ」と言ってくれたのだ。
「健が中学生になったら、修学旅行とか、部活の合宿とか、いろいろ忙しくなって、もう旅行なんぞに付き合ってもらえなくなるだろう。ぼくの方はだんだん歳をとって、そのうち旅行にも行けなくなるだろう。今のうちだ」
おじいちゃんはそう言って。一週間ばかりの長い旅行を計画した。まず、山形まで開通したばかりの東北新幹線で、終点まで行った。
山形では、いの一番に山形城跡を訪れた。
山形城は別名霞(かすみ)城(じょう)という。
霞城跡は、昭和六十一年に国の史跡に指定され、霞城(がじょう)公園として整備がすすめられていた。そこは、戦前までは歩兵第三十二連隊が駐屯していた。この連隊は駐屯している場所の名前から、霞(が)城隊(じょうたい)ともよばれていた。
おじいちゃんは戦争中に一度、訪れたことがあったという。
「お父さんが……、つまり。健にとってはひいおじいちゃんなんだけど、ぼくが山形に出張になったと言うと、懐かしそうな顔をしてね、山形に行ったら、あっちいってみろ、こっちいってみろ、と言って、いろいろ思い出話をしてくれた」
おじいちゃんのお父さん、つまりわたしのひいおじいちゃんは中学校を卒業するまで山形市内の香澄町(かすみちょう)というところに住んでいた。
そこに住んでいた人は、東北弁を話さなかったそうだ。
みな江戸弁だった。
というのは、ここの人たちは昔っからそこに住んでいたわけではなかったからだ。
そこに住むようになったのは、明治維新からさかのぼること、ほんの20年ばかり前からのこと。仕えていたお殿様が失脚して、幕府の左遷地ともいうべき山形に転封となり、それに付き従ってやってきた。
それまでは浜松にいた。しかし浜松にいたのも30年間ほどで、その前は肥前の唐津にいた。その前も、その前もあって、要するに、ひいおじいちゃんの一族が使えていたお殿様というのは譜代大名で、政治に直接関与しながら封地を転々としていたのだ。
家臣団は江戸に詰めることが多く、したがって通用していた言葉は江戸弁だった。
山形では、みんな恐ろしく貧乏をした。何しろ、長崎を持つ唐津では実高ニ十五万石ともいわれ、浜松は実高十五万石といわれた。山形は額面5万石だったが、実高はそんなになかったそうだ。唐津時代と比べると実収入は実に五分の一に減ったのだ。
こうした場合、普通、リストラがある。しかし、殿様は誰の首も切らず、全員を山形に連れて行った。そのため、家臣一同、貧窮した。
不足分は自給自足のような生活をして補った。居住している家屋周辺のあいている土地という土地を耕して野菜を植え、生活必需品は手作りをし、その技術を互いに教えあい、助け合って暮らしたという。
「だからひいおじいちゃんは器用な人だったよ。踏み台とか仏壇などは、手作りをした。庭には必ず野菜を植えていた。東京にきてからも体が元気なうちは畑を作っていたね。果樹も随分植えたけど、ぼくがみんな枯らしてしまった」
おじいちゃんは勉強ばかりしていたので、そういうことはあまり教えてもらわなかったそうだ。ひいおじいちゃんが亡くなってから、見よう見まねでやってはみたが、果樹は難しく、枝を払って枯らしてしまったらしい。
わたしたちは霞城公園を出てから、JRの線路の反対側にある香澄町をしばらく歩いた。現在は銀行や病院、学校、その他ビルが立ち並ぶ。昔は侍長屋があり、その庭先には畑が広がっていたそうだ。
「中学を卒業したら、後からおいで」といわれて、家族がみんな台湾に行ってしまった後、ひとり残されたひいおじいちゃんは、どうやって毎日を暮らしたのだろう。
コンビニもハンバーガーショップもなかったのだ。
両親から預かったお金のうち、旅費だけはなくならないようにと用心しながら、ご飯を自分で炊き、洗濯も自分でやったのだろう。家族が残していった畑の手入れなどもしたかもしれない。
うちに、たった一枚だけ、ひいおじいちゃんの中学生時代の写真がある。お祭のときに、友だちと撮った写真だそうだ。絣の着物と袴という書生スタイルのひいおじいちゃんたちは、割ったこもかぶりを前にして、精一杯大人のポーズで撮影に臨んでいた。当時、庶民はカメラなど持っていない。写真屋さんにたのんで特別に写した一枚だ。
めでたく中学を卒業したひいおじいちゃんは、その、友だちとの記念写真を、卒業証書や、身の回りのものなどとともに行李に詰めて、勇躍山形を後にした。まさか、大阪で、全く足が動かなくなるなんて思いもしなかったろう。足が動かなくなって、もう家族とも会えないかもしれないとなった時、どんなに心細い思いがしただろうか。
しかし、助ける人が現れて、生き延び、新しい自分の家族を持つまでになった。野球で言えば、起死回生の逆転満塁ホームランだ。
わたしは自分のこれからを考えてみた。おじいちゃんはいつまで、わたしのそばにいてくれるのだろう。
そう思って横を歩いているおじいちゃんを見上げると、おじいちゃんも気付いてわたしの方に顔を向け、微笑んだ。
「ここ、香澄町というだろう?」
「うん」
「おばあちゃんは東京の霞町というところに住んでいたんだ」
わたしはおばあちゃんの亡くなる前の日のことを思い出した。
「なんで、私と結婚したの? 私が、東京の霞町のお嬢さんだと思ったから?」
おばあちゃんはそう言っていた。
「ただし、字は違うだろう?」
山形は香澄町と書き、東京は霞町と書いた。
「それはね、山形は戊辰戦争のとき賊軍となってしまったので、維新後、東京の霞町に遠慮して字を換えたんだ。だからぼくらは東京の霞町には独特の憧れがあってね。おばあちゃんがそんなところに住んでいたから、最初、敷居が高いと思ったんだ。
おまけにね、ぼくが初めておばあちゃんの家に行ったとき、おばあちゃんは和服でなくて、ワンピースで出てきたんだよ。
戦争中で、街ではワンピースというのは、あまり見かけない時代だったから、それを見て、ぼくは、なんか、リリアン・ハーヴェイみたいな女の子が出てきたぞと思ったんだ。
さすが東京の霞町だなってね。
リリアン・ハーヴェイといってもあんた知らんだろうなあ。昔の、ドイツの女優さんだ」
後年、ネットでわたしはリリアン・ハーヴェイの写真をみた。なるほど、おばあちゃんの若い頃の写真によく似ていた。その女優さんはおじいちゃんがお酒を飲むとよく歌う「ただ一度のチャンス」という主題歌を持つ映画「会議は踊る」にでてくるヒロインだった。
亡くなる前日、おばあちゃんは、
「なんで、私と結婚したの? 私が、霞町のお嬢さんだと思ったから?」と、何度もおじいちゃんに聞いていた。
「真っ白な海軍の制服を着たあなたがやってきたのよね」
そうも言い、おばあちゃんは、おじいちゃんの何かの言葉を待っていた。
「リリアン・ハーヴェイみたいな女の子が出てきたぞ。なんて可愛いんだって思ったよ」、
おじいちゃんはそういえばよかったんじゃないか?
それとも、わたしが聞いていないところで、言ったのかな?
「さて、そこでだ」
とおじいちゃんは、わたしのセンチメンタルな気分を破るかのように言った。
どうして、さて、そこでだ、となるのか意味不明、とわたしは心の中でつぶやいた。わたしはおじいちゃんの照れを感じた。
「次行こうか」
「次はどこ行くの?」
「もう、山形には、住んでいたという家も、親戚も、何もかもなくなってしまったが、一つだけ残っているものがあるんだ。この前のおばあちゃんのお葬式の時にな、谷口の本家の人が来て教えてくれたんだ。ぼくも、その時初めて知ったので行ったことがないんだ」
おじいちゃんは地図を広げた。
「桜町の豊烈(ほうれつ)神社は……と、あった。ここだ。ここから真っ直ぐだ」
山形の目抜き通りは人通りも車も東京に比べてずっと少なく、静かだったが、神社の境内に入るとさらに静けさが深まった。
おじいちゃんは本家の人から書いてもらったらしい手書きのメモを手にしながらその場所を探し、やがて、ひとつの石碑の前で立ち止まった。
その石碑には戊辰戦争で戦死した人の名前が刻まれていた。
おじいちゃんはその中のひとつを指差した。
「ほら、ご先祖様はここにいる」
確かに。
わたしはそこに、自分と同じ苗字を持つ人の名前を見た。
その日の神社の境内は、ほかに訪れる人もなく、真夏の午後のなかで、しーんと静まり返っていた。
「不思議なものだ。この人は、維新当時、賊軍として戦死したので、一族の者はしばらく表立って口にすることさえはばかっていたほどだが、昭和30年になってここに祀ってもらって、神社の柱のひとりになった」
わたしも不思議な気持ちになっていた。
わたしは、母子家庭の子どもだった。軽く扱われていた。民間の安アパートの中で、母親の内縁の夫から、サンドバッグのように殴られていた。母親からは無視され、学校でもハブにされていた。わたし自身も、自分は取るに足らない、道端の石ころほどの値打ちもない者と思っていた。
しかし、石碑に刻まれた名前を見るうちに、自分は道端の石ころなどではないと思えてきた。
この人との血のつながりは薄い。なぜなら、わたし達は、この人が戦死したために、跡継ぎとして迎えられた養子の子孫だからだ。
この人のことは何も知らない。
どんな性格だったか、どんなことをしたのかさえ全く知らない。
ただ石に名前が刻んであるというだけだった。
それだけだったが、誇らしい気持ちが、からだの中に湧き出してきた。
わたしもまた、養子となって一族に迎えられた。
おじいちゃんは「谷口のうちを継ぐ者は、健くん、あなたしかいないんだ。だから、大切な子どもなんだ」と言ってくれたのだ。













お久しぶりです。
コメント有難うございます。
譜代大名というのは転封が多かったようですね。日本の封建社会というのは、実は、明治維新後の官僚社会の原型を持っていたと、思います。ただ、官僚が世襲によっていたというだけですね。職種によって藩独自の登用試験があったりもしたそうです。今でいうと、地方公務員試験でしょうか。水野忠邦の失脚は、同じ譜代大名同士の勢力争いに敗れたというのが真相のようです。