
また、おじいちゃんは、母親のように、わたしを一人家に置いて、夜出かけてしまうというようなことはしなかった。
わたしを引き取るまでは、大学の同期会である十七機会の仲間と、けっこう頻繁に各地を旅行しては温泉につかったり、うまいものを食べ歩いていたりしたようだが、わたしの面倒を見るようになってからは
「いつ魔女が現れて子どもをさらっていくかわからないから、家をあけられない」と断わっていた。
そのかわりだろうか、わたしが中学に入ったあたりで、
「お料理を習い始めたんだ。手料理をごちそうするから、十七機の鬼の宴会をうちでやらないか。もう、ばあさんもいないし、気兼ねはいらないんだ。二階が空いているからうちに泊まっていってもいいぞ」といって、招待した。
おばあちゃんが亡くなってから、わたしは2階の部屋を引き払い、一階のおばあちゃんの部屋に移っていた。
夜寝るときは、あいかわらずリビング続きの和室でおじいちゃんといっしょに寝ていたが、それも小学校の間までで、中学校になってからは各自、自分の部屋で寝るようになり、登下校する時のおじいちゃんの送り迎えもなくなっていた。
そんなわけで、鬼の宴会を自宅でとり行う環境は整っていた。
宴会の当日、一七機会の鬼達はにやにや顔で手土産をぶら下げてやってきた。
「落語にありましたな。習いたてのなにかを、人に試してみたいってやつ」
「ああ、太鼓腹ね」
「あれは針でしょう。針ならぼくも遠慮したい」
「謡曲とか都々逸でもちょっと二の足踏みますなあ」
「今日は、お料理ですか。これもけっこう怖いですなあ。なにを食べさせらるか」
「ですから、ほれ、これ口直し。ワインと生ハム持ってきましたよ」
「わたしは食後のデザートのケーキ。健くんもいるものね」
おじいちゃんもにやにや顔で応酬した。
「胃腸の薬を用意してお待ちしておりましたよ」
それはオソロシア、と、鬼たちはどよめいたが、おじいちゃんが得意の中華料理をならべると、笑いが納まった。
「へー、これはたいしたもんですな。本格的な中華料理じゃないですか」
「でしょう?」
おじいちゃんは得意満面だった。
「いやいや、味を見るまではわからない」
昔、学校で机を並べたもの同士は遠慮容赦がない。厳正に味を吟味していたが、
「うん、悪くない。たいしたもんだ」
となって、鬼の酒盛りはおおいに盛り上がった。
それから、年に一度くらいのペースで、おじいちゃんたちは家に集まって宴会を催していた。わたしも会食のお相伴にあずかった。食べるものだけ食べると自室に引き上げることもあり、そのままそこに居続けて、キッチンのテーブルでテレビを漫然とみていることもあり、いったん引っ込んだけれど、喉がかわいたとかいって再び出てきて、またテーブルにつくこともあった。
つまり、けっこう自由に振舞っていた。会のメンバーは、そんなわたしに、なにかしら声をかけてくれて、時には学校の様子なども聞いてくれたりした。
酔っ払うと、おじいちゃんは必ず「会議は踊る」の主題歌「ただ一度のチャンス」をドイツ語で歌った。この世代の人はドイツ語世代なのか、その後に続く歌も「野ばら」とか「菩提樹」など、ドイツ語の歌が多かった。誰かがフィッシャー・ディスカウのCDを持ってきて、それをカラオケがわりにかけて、次々となつかしの青春時代の歌を唱和していたときもあった。
そのメンバーの鬼たちも、会を重ねるにつれ、ひとり、ふたり、と減っていった。
その方たちの葬儀には、おじいちゃんに同行して、わたしも参列した。
だから、わたしのまわりには、死というものがいつも身近にあった。
いつ、おじいちゃんの番になるのか、ということは、いつも頭の片すみにあった。
おじいちゃんは、わたしが二十歳になるまでは、絶対死なないし、病気にもならない、と宣言してくれたが、わたしが二十歳になるのと、おじいちゃんの寿命と、ゴールをめざして、競争しているようなイメージを、わたしは常に抱いていた。
しかし、わたしの大学受験の時は、まだまだおじいちゃんはかくしゃくとしていた。
数学のわからないところなどは、おじいちゃんから教わった。
微分積分などは、学校で習ったときは抽象的すぎて、紙に書いてあるだけの平面的な数式にすぎなかったが、おじいちゃんから教わったときは、実際の工学ではどういうふうに使うのかという説明までしてくれたので、奥行きをもった実態のあるツールとなって、苦もなく頭にすっと入った。
「英語はちょっと無理だな。現役時代は英語で論文も書いたが、受験英語はちょっと自信がない。これは受験の専門家にまかせたほうがいいな」
おじいちゃんはそう判断し、英語は塾にいかせてもらった。
「本当に塾は、英語だけでいいのか?」
気をもむおじいちゃんに、わたしは、大丈夫ですと答えた。予備校に払うお金のことも心配したが、それよりも数学だけはおじいちゃんから教わりたかった
大学を選ぶときは、チャレンジ校、相応校、滑り止め、の三段階で志望校をピックアップしたのを、おじいちゃんは、列車のダイアを組むように、受験日程、入学金の支払期限などを一覧表にまとめてくれた。
「雄一の時は……」
おじいちゃんは出来上がった表を眺めながら、ぽつりともらした。
「なにもしてやれなかったなあ。仕事が忙しくて。全部、貴三枝に任せきりだった」
わたしに、母子家庭状態のおばあちゃんと父の姿がうかびあがった。
しかし、それにもまして、その時のおじいちゃんは後悔の苦渋に満ちていた。
後悔は、後になればなるほど針小棒大になる。勉強ぐらいは教えた、ということでも思い出してもらって、気を取り直してもらおうと、わたしは尋ねた。
「でも、やっぱり、数学とか、勉強、教えてあげたんでしょう?」
が、おじいちゃんは、首を横にふった。
「いや、勉強もな、まかせっきりだった。受験は大丈夫か? くらいは言ったと思うが。そしたらおばあちゃんがな、『スンダイいかせたいんですけど』と言うからな、そんな大学は聞いたこともない、と言うとな、『あなた、スンダイは予備校です。入るのに難しい試験があります』とか言うんだよ。ぼくは何にも知らなくてな、そうか、今はそうなってるのかと思うばかりで、まかせっきりだった」
あまり助けにならなかった。
息子にはしなかった分まで、埋め合わせをするかのように、わたしにいろいろしてくれたように思う。
くしゃみをすれば、すぐ葛根湯を飲めといい、インフルエンザの注射を受けさせ、受験当日は、消化のよさそうな、軽めの弁当を作ってくれた。
ところで、わたしは、大学の専攻に、生物化学系を選ばなかった。
その昔、おじいちゃんから「DNAが気になるなら、そっちのほうの学問をしたら?」といわれたことがあったが、もうそんなことはどうでもよくなっていた。というよりも、むしろ、あまりはっきりさせたくないという気持ちが働いていた。
また、おじいちゃんはちょっと残念に思ったかもしれないが、機械工学系も選ばなかった。おじいちゃんの友だちの息子さんで、弁護士をやっている倉田さんが、かっこよく見えたこともあって、法学部を選んだ。そのくせ弁護士にはならなかった。現役時代に司法試験にチャレンジしたが合格しなかったからだ。
わたしは就職浪人をする気はなかった。早く就職しなくては、と思った。
早々に司法試験を諦めて、公務員試験に切り替え、それには合格した。
選んだのは地方公務員だった。転勤がないから。
わたしはおじいちゃんのそばを離れたくないと思った。
しかし、おじいちゃんには、こう言った。
「うちは、代々、地方公務員だったからね。ぼくはいわば家業を継いだんだ」
おじいちゃんは、半ばはあきれ顔だったが、「ああ、そうだな」と言い、半ばはうれしそうだった。
学校のクラブ活動は、これもおじいちゃんをがっかりさせたかもしれないが、運動部には入らなかった。
中学の時、まず、ブラスバンド部に入った。
「ああ、ブラスバンドか。じゃあ、スポーツ大会かなんかあるとき、応援にいくのか?」おじいちゃんはそうコメントをした。
本当は野球とか水泳のクラブに入ってほしかったかもしれない。でもブラスバンドは文化部のなかではスポーツの周辺に近いということで、納得しようとしてくれたのではないか。
高校、大学はブラスバンドではなく、管弦楽部を選んだ。より、文化部に傾斜してしまったわけだ。その時は、おじいちゃんは「そうか」と言って何も言わなかった。
中学、高校の時は、トランペット、ユーフォニウム、ソプラノサックスなど、その場に応じて学校の備品を使っていたが、大学の管弦楽部に入部したとき、お祝いとして、おじいちゃんにピカピカのトランペットを買ってもらってから、わたしはトランペットを専門に吹くようになった。
おじいちゃんは、中、高、大を通じて、わたしが出るコンサートには必ず来てくれた。
おじいちゃんが亡くなった後のことだが、わたしは、上司の勧めもあって、地元のフィルハーモニーに入団した。まさに地域密着型の生活をするようになったのだが、そういう進路を選択した背景には、おじいちゃんが時折こぼしていたこの言葉が、わたしの心に深く根を下ろしていたからだ。
「うちには郷里(きょうり)というものがないんだな。ぼくが生まれたのは大阪だが、大坂にはもう誰もいないし、ひいおじいちゃんの生まれた山形にも、もう誰もいない。じゃあ、本家のある場所がそうかというと、いったん台湾に渡った本家も、戦後は内地に戻ってきて、普通の核家族として関東に住んでいる。じゃあ、先祖代々のお墓があるところが郷里かというと、あいにく先祖代々のお墓もない。人から、お国はどちらですか? と聞かれると、ぼくは返答に困ったものだ。」
うちの今のお墓は、富士山の麓にある。おじいちゃんが買って、曽祖父母がここに眠っている。勿論、おばあちゃんもここに眠っている。おばあちゃんの納骨に行ったとき、おじいちゃんがこういって自慢した。
「うちは日本国中を渡り歩いたから、日本全土が郷里かな。だから、お墓は、日本一の富士山の麓につくることにしたんだ。どうだいいだろう」
やや、強がりに聞こえた。
わたしを引き取るまでは、大学の同期会である十七機会の仲間と、けっこう頻繁に各地を旅行しては温泉につかったり、うまいものを食べ歩いていたりしたようだが、わたしの面倒を見るようになってからは
「いつ魔女が現れて子どもをさらっていくかわからないから、家をあけられない」と断わっていた。
そのかわりだろうか、わたしが中学に入ったあたりで、
「お料理を習い始めたんだ。手料理をごちそうするから、十七機の鬼の宴会をうちでやらないか。もう、ばあさんもいないし、気兼ねはいらないんだ。二階が空いているからうちに泊まっていってもいいぞ」といって、招待した。
おばあちゃんが亡くなってから、わたしは2階の部屋を引き払い、一階のおばあちゃんの部屋に移っていた。
夜寝るときは、あいかわらずリビング続きの和室でおじいちゃんといっしょに寝ていたが、それも小学校の間までで、中学校になってからは各自、自分の部屋で寝るようになり、登下校する時のおじいちゃんの送り迎えもなくなっていた。
そんなわけで、鬼の宴会を自宅でとり行う環境は整っていた。
宴会の当日、一七機会の鬼達はにやにや顔で手土産をぶら下げてやってきた。
「落語にありましたな。習いたてのなにかを、人に試してみたいってやつ」
「ああ、太鼓腹ね」
「あれは針でしょう。針ならぼくも遠慮したい」
「謡曲とか都々逸でもちょっと二の足踏みますなあ」
「今日は、お料理ですか。これもけっこう怖いですなあ。なにを食べさせらるか」
「ですから、ほれ、これ口直し。ワインと生ハム持ってきましたよ」
「わたしは食後のデザートのケーキ。健くんもいるものね」
おじいちゃんもにやにや顔で応酬した。
「胃腸の薬を用意してお待ちしておりましたよ」
それはオソロシア、と、鬼たちはどよめいたが、おじいちゃんが得意の中華料理をならべると、笑いが納まった。
「へー、これはたいしたもんですな。本格的な中華料理じゃないですか」
「でしょう?」
おじいちゃんは得意満面だった。
「いやいや、味を見るまではわからない」
昔、学校で机を並べたもの同士は遠慮容赦がない。厳正に味を吟味していたが、
「うん、悪くない。たいしたもんだ」
となって、鬼の酒盛りはおおいに盛り上がった。
それから、年に一度くらいのペースで、おじいちゃんたちは家に集まって宴会を催していた。わたしも会食のお相伴にあずかった。食べるものだけ食べると自室に引き上げることもあり、そのままそこに居続けて、キッチンのテーブルでテレビを漫然とみていることもあり、いったん引っ込んだけれど、喉がかわいたとかいって再び出てきて、またテーブルにつくこともあった。
つまり、けっこう自由に振舞っていた。会のメンバーは、そんなわたしに、なにかしら声をかけてくれて、時には学校の様子なども聞いてくれたりした。
酔っ払うと、おじいちゃんは必ず「会議は踊る」の主題歌「ただ一度のチャンス」をドイツ語で歌った。この世代の人はドイツ語世代なのか、その後に続く歌も「野ばら」とか「菩提樹」など、ドイツ語の歌が多かった。誰かがフィッシャー・ディスカウのCDを持ってきて、それをカラオケがわりにかけて、次々となつかしの青春時代の歌を唱和していたときもあった。
そのメンバーの鬼たちも、会を重ねるにつれ、ひとり、ふたり、と減っていった。
その方たちの葬儀には、おじいちゃんに同行して、わたしも参列した。
だから、わたしのまわりには、死というものがいつも身近にあった。
いつ、おじいちゃんの番になるのか、ということは、いつも頭の片すみにあった。
おじいちゃんは、わたしが二十歳になるまでは、絶対死なないし、病気にもならない、と宣言してくれたが、わたしが二十歳になるのと、おじいちゃんの寿命と、ゴールをめざして、競争しているようなイメージを、わたしは常に抱いていた。
しかし、わたしの大学受験の時は、まだまだおじいちゃんはかくしゃくとしていた。
数学のわからないところなどは、おじいちゃんから教わった。
微分積分などは、学校で習ったときは抽象的すぎて、紙に書いてあるだけの平面的な数式にすぎなかったが、おじいちゃんから教わったときは、実際の工学ではどういうふうに使うのかという説明までしてくれたので、奥行きをもった実態のあるツールとなって、苦もなく頭にすっと入った。
「英語はちょっと無理だな。現役時代は英語で論文も書いたが、受験英語はちょっと自信がない。これは受験の専門家にまかせたほうがいいな」
おじいちゃんはそう判断し、英語は塾にいかせてもらった。
「本当に塾は、英語だけでいいのか?」
気をもむおじいちゃんに、わたしは、大丈夫ですと答えた。予備校に払うお金のことも心配したが、それよりも数学だけはおじいちゃんから教わりたかった
大学を選ぶときは、チャレンジ校、相応校、滑り止め、の三段階で志望校をピックアップしたのを、おじいちゃんは、列車のダイアを組むように、受験日程、入学金の支払期限などを一覧表にまとめてくれた。
「雄一の時は……」
おじいちゃんは出来上がった表を眺めながら、ぽつりともらした。
「なにもしてやれなかったなあ。仕事が忙しくて。全部、貴三枝に任せきりだった」
わたしに、母子家庭状態のおばあちゃんと父の姿がうかびあがった。
しかし、それにもまして、その時のおじいちゃんは後悔の苦渋に満ちていた。
後悔は、後になればなるほど針小棒大になる。勉強ぐらいは教えた、ということでも思い出してもらって、気を取り直してもらおうと、わたしは尋ねた。
「でも、やっぱり、数学とか、勉強、教えてあげたんでしょう?」
が、おじいちゃんは、首を横にふった。
「いや、勉強もな、まかせっきりだった。受験は大丈夫か? くらいは言ったと思うが。そしたらおばあちゃんがな、『スンダイいかせたいんですけど』と言うからな、そんな大学は聞いたこともない、と言うとな、『あなた、スンダイは予備校です。入るのに難しい試験があります』とか言うんだよ。ぼくは何にも知らなくてな、そうか、今はそうなってるのかと思うばかりで、まかせっきりだった」
あまり助けにならなかった。
息子にはしなかった分まで、埋め合わせをするかのように、わたしにいろいろしてくれたように思う。
くしゃみをすれば、すぐ葛根湯を飲めといい、インフルエンザの注射を受けさせ、受験当日は、消化のよさそうな、軽めの弁当を作ってくれた。
ところで、わたしは、大学の専攻に、生物化学系を選ばなかった。
その昔、おじいちゃんから「DNAが気になるなら、そっちのほうの学問をしたら?」といわれたことがあったが、もうそんなことはどうでもよくなっていた。というよりも、むしろ、あまりはっきりさせたくないという気持ちが働いていた。
また、おじいちゃんはちょっと残念に思ったかもしれないが、機械工学系も選ばなかった。おじいちゃんの友だちの息子さんで、弁護士をやっている倉田さんが、かっこよく見えたこともあって、法学部を選んだ。そのくせ弁護士にはならなかった。現役時代に司法試験にチャレンジしたが合格しなかったからだ。
わたしは就職浪人をする気はなかった。早く就職しなくては、と思った。
早々に司法試験を諦めて、公務員試験に切り替え、それには合格した。
選んだのは地方公務員だった。転勤がないから。
わたしはおじいちゃんのそばを離れたくないと思った。
しかし、おじいちゃんには、こう言った。
「うちは、代々、地方公務員だったからね。ぼくはいわば家業を継いだんだ」
おじいちゃんは、半ばはあきれ顔だったが、「ああ、そうだな」と言い、半ばはうれしそうだった。
学校のクラブ活動は、これもおじいちゃんをがっかりさせたかもしれないが、運動部には入らなかった。
中学の時、まず、ブラスバンド部に入った。
「ああ、ブラスバンドか。じゃあ、スポーツ大会かなんかあるとき、応援にいくのか?」おじいちゃんはそうコメントをした。
本当は野球とか水泳のクラブに入ってほしかったかもしれない。でもブラスバンドは文化部のなかではスポーツの周辺に近いということで、納得しようとしてくれたのではないか。
高校、大学はブラスバンドではなく、管弦楽部を選んだ。より、文化部に傾斜してしまったわけだ。その時は、おじいちゃんは「そうか」と言って何も言わなかった。
中学、高校の時は、トランペット、ユーフォニウム、ソプラノサックスなど、その場に応じて学校の備品を使っていたが、大学の管弦楽部に入部したとき、お祝いとして、おじいちゃんにピカピカのトランペットを買ってもらってから、わたしはトランペットを専門に吹くようになった。
おじいちゃんは、中、高、大を通じて、わたしが出るコンサートには必ず来てくれた。
おじいちゃんが亡くなった後のことだが、わたしは、上司の勧めもあって、地元のフィルハーモニーに入団した。まさに地域密着型の生活をするようになったのだが、そういう進路を選択した背景には、おじいちゃんが時折こぼしていたこの言葉が、わたしの心に深く根を下ろしていたからだ。
「うちには郷里(きょうり)というものがないんだな。ぼくが生まれたのは大阪だが、大坂にはもう誰もいないし、ひいおじいちゃんの生まれた山形にも、もう誰もいない。じゃあ、本家のある場所がそうかというと、いったん台湾に渡った本家も、戦後は内地に戻ってきて、普通の核家族として関東に住んでいる。じゃあ、先祖代々のお墓があるところが郷里かというと、あいにく先祖代々のお墓もない。人から、お国はどちらですか? と聞かれると、ぼくは返答に困ったものだ。」
うちの今のお墓は、富士山の麓にある。おじいちゃんが買って、曽祖父母がここに眠っている。勿論、おばあちゃんもここに眠っている。おばあちゃんの納骨に行ったとき、おじいちゃんがこういって自慢した。
「うちは日本国中を渡り歩いたから、日本全土が郷里かな。だから、お墓は、日本一の富士山の麓につくることにしたんだ。どうだいいだろう」
やや、強がりに聞こえた。












