わたしは小学校6年生になった。
朝ごはんはおじいちゃんと一緒に作って食べた。
メニューはハムエッグとトースト、季節の果物と決まっていた。
「毎日決まってやる仕事をルーチンワークというのだよ。ルーチンワークは内容を決めておくと楽なんだぞ。これで一日の食事のうち、パンで炭水化物、バターやチーズで脂肪とカルシウム、ハムと卵でたんぱく質、、果物でビタミンと食物繊維、と、これだけの食品を摂取したことになる」
飲物はオレンジジュース、または紅茶だった。
「ごめん。おじいちゃん、牛乳、苦手なんだ。牛乳は学校の給食で飲むからいいだろう?」
そんなわけで朝食に牛乳はなかった。
学校の行き帰りは、あいかわらずおじいちゃんが送り迎えしてくれた。
「6年になったら、もういいかと思っていたんだが、このまえ、お母さんが取り返しに来たから油断ができない。小学校の間だけでも送り迎えをさせてくれ。中学校はさすがにちょっとまずいかな」
学校から帰ると、洗濯物を取り込んでたたむのはわたしの仕事。
それが終わると、おじいちゃんが夕食を準備している台所のテーブルで、わたしは宿題をしたり、勉強をしたりした。
おじいちゃんはわたしが学校に行っている間、お料理を習いに行くようになった。
男の料理教室というクラスなんだそうだ。
「じいさんばっかりのクラスだよ。若い人もちょっといるけれど、あれでも50代だろうな。ほとんどが60代で、なんとぼくが最年長だった」
おじいちゃんは楽しそうだった。
「健、塩コショウするって言葉知ってた? ほう、知ってたか。
さすがだな。
いや、先生が、塩コショウするっていうから、塩が故障するのか? と、とまどったよ。
となりのじいさんも知らなくてさ、となりのじいさんは現役時代薬品会社に勤めていたんだそうだ。なまじ科学畑なもんだから、『塩が故障するということは、食べ物の成分に塩基が結びついて、なんらかの化学変化を起すということではないか』などと言い出し、二人でごそごそ言ってたら、先生から、『なにかわからないことありますか?』って、ちょっと注意を受けちゃってね、しかたないから『先生、塩コショウするって、なんですか?』って思い切って聞いたら、『あら、ごめんなさい、そうよねえ、そういうことがわからないということが、わたしたちにわからなかったわ。ごめんなさいねえ』って逆に謝られてね。意味を聞いたらなんのことはない。最初から塩とコショウをふりかけると言えばいいのに」
新しく何かを始めると話題には事欠かない。おじいちゃんというのはけっこうおしゃべりだということが、この頃になってようやくわかってきた。おまけに一過言ある。
「食べることは大事なんだぞ。寝ることも大事だ。この二つさえしっかりおさえておけば、人間、健康で勉強や仕事にうちこむことができる。いわば、食べることも寝ることも仕事や勉強のうちだ」
父が生前、わたしの食事や睡眠にうるさかったのは、おじいちゃんから受け継いだんだと、わたしは得心した。
また、おじいちゃんは食事が大事だということを言うために、アルマダの海戦と日本軍が悩まされた脚気の話を、よく引き合いに出した。
「アルマダの海戦で、イギリス海軍がスペインの無敵艦隊を破ったのは、実はライムがあったからなんだ。当時は長い海上生活を続けると壊血病という病気にかかった。壊血病というのは、ビタミン不足によって細胞が破壊され、あちこちから血が出るという恐ろしい病気なんだよ。それは長い船上生活によって、生鮮野菜が食べられなくなることから起こるため、仕方がないということにされていたのだが、イギリス艦隊はライムを持ち込むことで壊血病を解決したんだな。一方スペイン艦隊は壊血病で多数の死者を出し、結果としてイギリス軍が勝利した」
その話の後には、脚気の話が必ずセットで出た。
「昔、地方から江戸にでてくるとこの病気になったので江戸患いと言っていたんだ。故郷にかえるとケロッと直った。原因は白米のみを食べたことによる栄養障害だったので、田舎に帰って玄米や雑穀を食べると治ってしまうわけだ。
これが明治維新後は軍隊に蔓延した。兵隊に行くと、なぜか脚気に罹って体の具合が悪くなったり死んだりした。日本軍特有の病気だったので、風土病と思われていたんだが、海軍は、日本人だけが罹ることに着目し、鈴木梅太郎博士のビタミンB群の不足による栄養障害説を取り入れ、食事を洋式化した。
それで脚気で死ぬ者はなくなった。ところが、陸軍は森鴎外などがそれに反対したんだ。鴎外は脚気は伝染病であるという説をとっていた上、軍隊に行ったら白いご飯が食べられるということを、みんなが楽しみにしているので、それをやめたらかわいそうだ、ということで白米を中心とする和食を改めなかった。
そのためいつまでたっても、脚気による大量の病死者を出したんだ」
その話の後は、決まって次のようなおまけがついた。
「指揮官たるもの、常に、僚員たちの健康に責任を持たなくてはならない。健康をそこねれば、任務も遂行できないばかりではなく、自分たちの生命をも危うくするんだ」
おじいちゃんが小学生のわたしに何を教えようとしたのか、そこのところはよくわからなかったが、「指揮官たるもの、常に」という語感が好きで、わたしもこの話を聞くのが好きだった。
また、実は、脚気については、我家にとって、特別な出来事があった。
それは、わたしにとってひいおじいちゃんにあたる人の話だ。
ひいおじいちゃんの一家は、政府のすすめで、台湾に移住することになった。でもひいおじいちゃんは、まだ中学生だったので、「中学校を出たら、後からおいで」といわれてひとり郷里に残された。
やがてひいおじいちゃんはめでたく中学校を卒業し、郷里の山形から汽車に乗り、東京を素通りして、大阪までいった。そこから船に乗って、台湾まで行く予定だったが、いざ乗船しようとしたとき、突然、足がピクリとも動かなくなって、タラップを登ることさえできなくなつた。
脚気だった。
中学生くらいの年齢で親と離れて生活し、まだ栄養に関する情報もない時代だったから、ろくな食生活を送っていなかったのだろう。大阪は見知らぬ土地。まわりには親兄弟は無論のこと、知人も親戚もいない。本来なら青年・ひいおじいちゃんはここで野たれ死ぬところだった。
ところが、いかなる天の配剤か、助けてくれる人が現れた。その人は渡辺さんという
商売をやっている人で、谷口家とは縁もゆかりもなかったが、一歩も歩けないでうずくまっているひいおじいちゃんに声をかけ、車屋を呼び、病院まで運んでくれた。
思わぬ滞在による出費で、路銀が心もとなくなり、途方にくれるひいおじいちゃんに、
「中学を卒業しているのなら、先生の試験を受けてみてはどうかね」と言って、しばらく自宅に住まわせてくれた。
昔は先生になる国家試験というものがあって、それに合格すれば小学校を卒業しただけでも先生になれた。ひいおじいちゃんはアドヴァイスに従って、先生の試験を受けてみた。そしたら、受かってしまった。
そこで、ひいおじいちゃんは、大阪にとどまることにし、学校の先生になるという旨の手紙を台湾の両親のもとに送り、大阪府小学校の訓導となった。ひいおじいちゃんは三男坊で、どのみちどこかに就職しなければならなかったから、それでよかったわけだ。
渡辺さんはお嫁さんの世話もしてくれた。そのお嫁さんもやはり身寄りがなく、小学校しか出ていなかったが、猛勉強して国家試験を受けて先生になった人だった。
わたしのおじいちゃんは、その二人の次男として生れた。
「昔は、全く縁もゆかりもないが、有為の青年とみれば、無条件で助けてくれるという篤志家がいたんだなあ」
わたしはその話に、日本の古き良き時代のロマンを強烈に感じた。
それと同時に、食事が大事だ、という教えをたちまちのうちに自分に取り入れた。それは、ひいおじいちゃんから、おじいちゃんへ、おじいちゃんから、お父さんへ、そしてわたしに伝えられた一族の申し送りのようなものだった。












