アロイジオ・デルコル神父『十六のかんむり 長崎十六殉教者』、10
その後いく日かして、捕えられたあの3人も、長崎におくられてきました。アントニオ神父さまと、京都出身のラザロ、それに、フィリッピン人のルイスです。
*
3人とも、”絶対に信仰をすてない”といったために、あのいまわしい水ぜめのごうもんがはじまりました。なんとあくま的なやりかたでしょう。かれら役人は、殺して殉教者をつくるより、ころばして(=信仰をすてさせて)自分たち悪人の仲間をつくりたかったのです。
*
さいしょに水のごうもんをうけたのは、アントニオ神父さまとラザロでした。
アントニオ神父さまのからだは、水ぶくれで、もうはちきれんばかりになりました。
こうして、やっと口からあのじょうごがはずされると神父さまは、自由になったくちびるを動かして、もう賛美歌をうたいだします。
*
しかし、ラザロのほうは、手をあげています。
「そうれみろ、がまんできないだろ、もうここへんで信仰をすてたほうが利口だぞ」と奉行が勝ちほこったようにいいました。でも、奉行はことばを終えることができませんでした。
「とりけし!とりけし!信仰は、ぜったいにすてません!」ラザロの大きな声がひびきました。
「こやつ、役人をなぶるのか!」かんかんに怒った奉行は、もっと、もっとひどくかれを苦しめるようにと命じたのです。
*
つぎは、フィリッピン人のルイスの番です。
「わたしは宣教帥ではありません。ただ身の危険を感じるところがあって、追っ手をのがれるために日本にわたりました」とかれはいいました。役人は、ほっとしました。
「では、キリシタンでもないな」
「いいえ、キリスト信者です。わたしの国フィリッピンには、妻と、3人の子どもが待っています」とルイス。
「じゃ、会いたいだろ、妻子もひきとってやって、いっしょにくらせるようにしてやってもよいのだぞ、ただそのためには、信仰をすてねばならん」
その後いく日かして、捕えられたあの3人も、長崎におくられてきました。アントニオ神父さまと、京都出身のラザロ、それに、フィリッピン人のルイスです。
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3人とも、”絶対に信仰をすてない”といったために、あのいまわしい水ぜめのごうもんがはじまりました。なんとあくま的なやりかたでしょう。かれら役人は、殺して殉教者をつくるより、ころばして(=信仰をすてさせて)自分たち悪人の仲間をつくりたかったのです。
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さいしょに水のごうもんをうけたのは、アントニオ神父さまとラザロでした。
アントニオ神父さまのからだは、水ぶくれで、もうはちきれんばかりになりました。
こうして、やっと口からあのじょうごがはずされると神父さまは、自由になったくちびるを動かして、もう賛美歌をうたいだします。
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しかし、ラザロのほうは、手をあげています。
「そうれみろ、がまんできないだろ、もうここへんで信仰をすてたほうが利口だぞ」と奉行が勝ちほこったようにいいました。でも、奉行はことばを終えることができませんでした。
「とりけし!とりけし!信仰は、ぜったいにすてません!」ラザロの大きな声がひびきました。
「こやつ、役人をなぶるのか!」かんかんに怒った奉行は、もっと、もっとひどくかれを苦しめるようにと命じたのです。
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つぎは、フィリッピン人のルイスの番です。
「わたしは宣教帥ではありません。ただ身の危険を感じるところがあって、追っ手をのがれるために日本にわたりました」とかれはいいました。役人は、ほっとしました。
「では、キリシタンでもないな」
「いいえ、キリスト信者です。わたしの国フィリッピンには、妻と、3人の子どもが待っています」とルイス。
「じゃ、会いたいだろ、妻子もひきとってやって、いっしょにくらせるようにしてやってもよいのだぞ、ただそのためには、信仰をすてねばならん」