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『旧約のはなし』第1期アダムからアブラハムまで:第1課:天地の創造

2018-02-18 05:10:20 | 新・旧約聖書まとめ
『旧約のはなし』「第1期アダムからアブラハムまで:第1課:天地の創造」浦川和三郎司教、天主堂出版、1927年

第1期  アダムからアブラハムまで
第1課  天地の創造

1 世界のはじまり

 天も地も草木から禽獣、人間に至るまで、みなひとりでに生じたものではありません。永遠の存在であって、始めもなく終わりもなく、いつでもどこにでもおられるのは、ただ神様だけです。その神様によって一切のものは造られたのであります。しかし、創造の年代は、聖書に一言も記してない。現代科学の憶測によると、幾百万年、あるいはそれ以上の昔であろうということです。同じように、人間が初めて地上に現れた年代についても、聖書は何とも教えていない。科学上から推し測るよりほかはないのですが、今日では、科学者の言うところもまちまちで、一向あてになりません。確かなところは分らないと言うよりほかはありません。

2 見えない世界

 世界は、目に見えるのも見えないのも、すべて無から造られました。神様がだた一言おっしゃっただけで、一切のものは出来たのであります。まず神様は、いわゆる天使をお造りになりました。天使は色もなく、形もない、しかも知恵と自由を備えた霊であります。その天使に、永遠の福楽を与える前に、神さまは一応天使をお試しになりました。もちろん、どんな種類の試しであったか、その辺は何ともわからないが、天使の多くは固く忠節を守って動きませんでした。しかし、中には柄にもない傲慢を出して神さまに背き、地獄に罰されたのもありました。彼らのなれのはてが悪魔で、その頭(かしら)をサタンと呼びます。
 悪魔らは常に神様を怨み、人を悪に誘うて止みません。善と悪との戦いはここに始まったのであります。

3 見える世界

 次に神様は、見える世界、すなわち天と地とをお造りになりました。しかし、初めてお造りになったのは、今のように整った世界ではない、ただ、行く行く天となり、地となり、万物ともなるべき材料の大きな塊で、それと定まった形すらない。その塊を真暗な闇が包んで居ました。神様は6日の間にこの材料をそれぞれに整えて、こんな見事な世界となし給うたのであります。もとより6日といっても、24時間を1日としたそれではなく、数えられもしないほどの長い長い歳月を、大きく6つに区分けしたまでに過ぎないのであります。

4 6日間の御業

 神様は、第1日に光を造って、これを暗と分かち、光を昼と呼び、暗を夜と名づけなさいました。2日目には青空を造り、これを天とお呼びになりました。3日目には陸と海とを引き分け、陸には色々の草木を茂らせなさいました。4日目には日、月、星を造って夜を昼とを区別し、季節や日や年を分かつための象(しるし)ともなさいました。5日目には水に泳ぐ魚とか、空に翔ける鳥とかをお造りになりました。6日目に造られたのは、家に畜う牛馬や野山に駆け回る獅子、虎、象などの類でした。このような天地万物は、すべて神さまの御手に造られたのですから、その間には感心するような見事な秩序が立ち、それぞれ神様の全能、全智、全善等の美しい御徳を物語っていたのであります。だが無神主義の先生たちは、その見事な秩序を眺めたくないのです。何とかして天地万物に記されてある神さまの御足跡を磨り消したいものと考えています。「物というものは、ひとりでに出来、ひとりでに進化して無生物から生物へ、劣等生物から高等生物へと進んでいったのだ」
と、口癖のように叫んで止みません。彼らは被造物の上に反射している神さまの偉大さをば、わざと目をつぶって見ないように、見ないようにと努めているのであります。

5 人間の創造

 天地万物は美しく整ってきた。しかし、いくら美しく整ってきても、まだこれだけでは物足りない。なおその上に知恵を持ち、意志を備えた何者かがあって、天地万物の美をたたえ、あわせてこれが創造主である神様を認め、讃め、愛し、神さまに仕え奉らなくては、それこそ龍を描いて眼を入れないようなものです。よって神様は、6日目に土をもって体を作り、これに魂を与えて立派な人間となし給うた。これこそ、わたしたちの元祖アダムで、世界の美を一身に集めたものでありました。そうして、創世の業はめでたく終わりました。神様はその天地万物をご覧になると、いかにも美しく見事にできている。よって7日目にはお休みになり、この日を祝して聖日となし給うた。旧約時代には土曜日を、今日では日曜日を安息日となし、労働を休んで祈祷をとなえ、祭礼にあずかるのは、ここに基づくのであります。

6 教訓

 国王がどこかにお行幸になるという時は、下検分のために、まえもって人が遣わされ、諸般の準備をしておくものです。今、人間は万物の霊長ですから、神さまは住所から食物までの必要なものを一切備えたうえで、ようやくこれをお造りになりました。で、人たるものは、あくまで己の品位を高め、万物の霊長たる身を持ちながら、自ら己を賤しめて万物の奴隷となるようなことをしてはならないのであります。


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