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2 姿をあらわすヒッタイト帝国

2017-07-06 14:01:37 | 世界史
『文明のあけぼの 世界の歴史1』社会思想社、1974年

10 幻の帝国の再現――ヒッタイト帝国――

2 姿をあらわすヒッタイト帝国

 「アマルナ文書」は、ヒッタイト帝国再現の手がかりの重要なもののひとつであったが、もちろんこれひとつで、すぐにすべてがわかってしまったわけではない。
 ちょうど絵合わせ(ジグソー)パズルで、複雑な曲線をもった小さな絵のかけらが、いろいろ組み合わせられて、大きな絵をしだいにつくっていくように、長いあいだにわたっての考古学者、言語学者、歴史学者たちの調査、研究、仮説などの結果がいろいろ組み合わせられて、しだいにヒッタイト帝国の存在は明らかになっていったのである。
 ヒタタイト帝国が発見されていく経過には、シュリーマンのトロイア発掘などのようにわくわくするようなはでな物語はない。
 しかし長い期間にわたる大ぜいの学者たちの一見バラバラにみえる研究が、しだいにひとつにつながり、ちょうど濃い霧がゆっくりと晴れあがって、うしろにある偉大なものの姿がみえてくるように、人々に忘れられてしまっていたヒッタイト帝国の姿が、しだいにはっきりと再現していく物語は、魅力もあるし、感動的でもある。
 セイスが一八七九年に「小アジアにおけるヒッタイト人」という題の論文を書くきっかけになったのは、「ハマト石」とよばれる奇妙な象形文字のような記号を刻んだ石だった。
 この石については早く十九世紀のはじめに、シャイヒ・イブラヒムという男が記録をのこしていた。
 シャイヒ・イブラヒムというのは本名ではなく、ヨハン・ルートウィヒ・ブルクハルトというのが本当の名だった。
 あの有名な歴史家のヤコブ・ブルクハルトと同じスイスの名門の出だった。
 彼は東インド会社につとめる商人と称して、シリアの各地を歩きまわった。
 彼は商人だというのに商売にはあまり熱心でなく、その地の言語や歴史・地理の勉強に熱中し、またさかんに旅をして歩いた。
 そのためスパイと疑われたが、メッカにも行き、アララト山にものぼった。
 しかし一八一七年、わずか三十三歳という若さでエジプトで急死し、イスラム教徒として葬られた。
 彼はくわしい記事の、大部の日記をのこした。それは彼の死後編集されて、何冊かの本になって出版されたが、その一冊に「シリアと聖地の旅」と題するものがあった。
 そのなかに、ブルクハルトがオロンテス川のほとりのハマトでみた、「象形文字の一種らしくみえる小さな図形と記号がたくさん書かれている石」についての記事があった。
 この石はハマト町の市場に面した家の角のところにはめこまれていた。
 この本は一八二二年に出版され、その興味ふかい旅の冒険談は人々をよろこばしたが、この記事はさっぱり注目されなかった。
 その後半世紀ちかくたって、一八七〇年にオーガスタス・ジョンソンとジュサップというふたりのアメリカ人が、ハマトの町をとおり、この奇妙な石に目をひかれた。
 しかしそばに近づくと、町の人々が大ぜい集まってきた。そのためふたりはスケッチをすることさえできなかった。
 町の人々はこの石は神聖なもので、この石にさわると、病気がなおると考えていたのだった。
 ジョンソンは帰国すると、この石のことを、ある講演会で発表した。
 一八七二年の末に、当時ダマスクスにいたスコットランドの宣教師ウィリアム・ライトは、この石のことをきき知っていて、ぜひ見たいとかねがね思っていた。
 運よくシリアの総督スプヒ・パシャが任地を視察旅行することになり、彼に同伴を許してくれた。
 パシャは兵士をつかって強引に、この石を家の壁からはずしてしまった。
 そのためあやうく住民たちの暴動さえおこりかけた。よそ者に神聖な石をわたすくらいなら、こわしたほうがよいというのだった。
 しかしパシャは応分の金をあたえて住民をなだめ、またおりから大流星があったのも凶兆だと住民はさわいだが、パシャは天が祝して花火をうちあげ、自分のやりかたを承認したのだと詭弁で住民をいいくるめ、石をイスタンブールヘおくってしまった。
 ライトはさいわい石膏で写しをとることを許され、それは大英博物館におさめられた。
 こうしたやりかたは、たいへん乱暴だったが、人々の目にふれやすくなったハマト石は、やがてその象形文字を読みとかれることになり、ヒッタイト研究の進展に大きな貢献をした。
 そのころ、エウフラテス川の右岸のイェラブルス(あるいはイェラビス)にある遺跡がみつかり、ここからハマト石と同じような象形文字を書いた遺物がたくさん発見された。
 この遺跡はのちにカルケミシュ市であることがわかった。カルケミシュはヒッタイト帝国の末期の都だったところである。同じような象形文字は次々にみつかり、その分布のひろいことが人々をおどろかした。
 東はカルケミシュのようにシリアの奥地まであり、西は小アジアの海岸のスミルナで発見された。
 そしてそのあいだの小アジアでは各地にそれは分布していた。
 この文字をセイスはヒッタイト文字と考え、その分布地をヒッタイト帝国の領土と考えたのである。
 ウィリアム・ライトも彼の説を援護して、「ヒッタイト帝国とA・H・セイス教授によるヒッタイト碑文の解読」という著書を、一八八四年にだした。
 しかし先述したように、彼らの説はすぐには受入れられなかった。

 彼らの説を証拠だてるのに「アマルナ文書」の発見はおおいに役にたったが、本当にヒッタイト帝国の姿が明らかになったのは、その首都ハットゥシャシュの発掘がおこなわれるようになってからだった。
 はじめてハットゥシャシュの遺跡をみて、その見聞を書いたのは、フランスの考古学者シャルル・フェリクス・マリ・テクシエだった。
 彼は小アジアのハリュス川の岸辺にあったローマ時代の都タヴィウムの遺跡をさがそうと、そのあたりを旅して歩いていた。
 そして一八三四年の七月のすえ、ボガズキョイという村のそばで大きな遺跡をみつけた。
 その遺跡は、数キロメートルにもおよぶ大城壁をめぐらしていた。そしてその城壁には巨大な門が二つあった。
 東門には、二メートルほどある大きな浮き彫り像がついていた。テクシエはこれを王の像と考えたため、この門は「王門」とよばれたが、今日では神像と考えられている。
 他の門には南西側にライオンの前半部が彫ってあった。
 テクシエはこの最盛期のアテネ市くらいあったと思われる大きな遺跡こそ、さがしているタヴィウムにちがいないと考えた。
 しかし、ローマ時代と考えられるような遺構は、どこにもないことがわかってきて、彼はその考えをすてた。
 そしてヒッタイト人を知らなかった彼は、これをどういう人々の遺跡と考えたらよいのか、途方にくれた。
 テクシエは土地の人に案内されて、近くの岩山にある「文字の書かれ(ヤジリ・カヤ)た岩」もみることができた。
 それは、一種の神殿址で、神々の像が彫られていた。
 そしてそこには象形文字らしいものも彫られていた。
 これはのちにわかったのだが、トゥドハリヤシュ四世(紀元前二一五〇~二○ごろの王)の名をあらわしたものだった。

 彼は一八三九年に、彼の旅行記を「小アジア記」と題して出版した。
 テクシエのすぐあとにはイギリス人のウィリアム・ハミルトンがボガズキョイの遺跡を見て、彼はそれをタヴィウムの跡と考えた。
 また彼はすこし北のほうにあるアランジャ・ヒュユック村の近くの遺跡をみている。
 一八五九年から六二年にかけては、ドイツ人のバルトとモルトマンが、つづいてフランス人のペローが、ボガズキョイを見、くわしい報告や、見取り図などを出版している。
 このほかにもこの地への旅行者が次々にでて、ボガズキョイについてのヨーロッパ人の知識はしだいにふえていった。
 このボガズキョイこそヒッタイト帝国の首都ハットゥシャシュの遺跡にほかならないが、そのことが確実になったのはかなり後のことである。
 一八九三年にはフランスの考古学者、E・シャントルがボガズキョイで、いわゆる「アルザワ語」で書かれた粘上板を発見している。
 しかしボガズキョイの粘土板がぞくぞくと発見され、ヒッタイト帝国の歴史が明らかになってゆくのには、もうすこし時間が必要だった。
ジャンル:
科学
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