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笠原一男(東大教授)『物語 日本の歴史22 キリシタン一揆と信仰の悲劇』木耳社、1992年 5

2016-08-22 09:00:32 | 日本キリスト教史
笠原一男(東大教授)『物語 日本の歴史22 キリシタン一揆と信仰の悲劇』木耳社、1992年

5、家康のキリスト教禁令(2)

 この家康の禁教令の犠牲となって、遠くフィリピンのマニラに追放された大名に、高山右近と内藤如安の二人がいる。高山右近は、もと摂州高槻城主で山崎合戦には戦功を立て、その後は播州明石を領地したが、天正十五年、秀吉の禁教令のために大名の地位を捨て、加賀に赴いて前田利家に重用されて客将となっていた。

 内藤如安は信長時代には丹波の領主であり、秀吉時代には、日本・朝鮮・中国三ヵ国を舞台として活躍した外交家であった。彼もまた、晩年を前田家に頼って高山右近と同じ道を歩んだ。特に高山右近は、武芸に秀でたのみでなく、茶の湯でも高山南坊の名で有名であり、彼の住する加賀の地は、右近の計らいによって、永く、キリシタン宗徒らを保護したのであった。ところが慶長十九〔1614)年、禁教の嵐は、彼らの頭上にも吹き荒れ、高山右近も内藤如安もともに加賀の地を追われ、長崎を経てマニラに放逐された。

 マニラでは、フィリピンの大守ドム・シルウス自らが歓迎に当り、全市をあげて高山右近と内藤如安を迎えた。彼らは、日本に比べても決して不足のない壮麗な邸宅を与えられ、歓迎攻めにあうという有様だった。しかし右近には、マニラの慣れぬ風土が災いしたためであろうか、到着わずか四十日の後に、早くも熱病にかかり、

「この信教国に来って、善良なる師父モレイオン師の侍座を得て死す事は、何よりも喜ばしい。思い残す所はさらにない。」
と語って瞑目した。

 マニラでは、彼を殉教者として扱い、追放人とは思われぬほど立派な葬式が行われた。内藤如安はその後十二年間、マニラに永らえ、八十余歳の高齢で、寛永四(1627)年に世を去った。

 先に、高山右近が長崎からマニラに追放される時、冬の陣にそなえる大坂方は、彼を城内へ迎えようと急便を派したが、一行の船はすでに港を離れた後であった。家康は、大坂方とキリシタン宗徒の握手を怖れていたが、実際、彼らの間に連絡のあったことは確かである。高山右近は入城しなかったが、彼の部下は秀頼に味方した。

 いよいよ関東と手切れとなった戦いがはじまると、キリシタン大名の一族で大坂方へ加担する者が多く、宇喜多秀家の娘婿明石掃部介をはじめ、細川忠興の次子長岡与五郎興秋、木村伊勢守秀俊の子秀望、及び大友宗麟、内藤如安らの一族も加わった。その他にキリシタン武士よりなる一隊もあれば、トルレスその他の外人宣教師数名もいた。彼らは、十字架やキリスト像を描いた六流の旗を翻えして大いに戦った。わけても明石掃部介と長岡興秋は、翌年の夏の陣に際して、天王寺と岡山口の中間に陣し、東軍を走らすこと.二度、華々しく奮戦し、落城とともに、キリシタン武士のほとんどは討死した。

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