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6-3 アメネムヘト三世のピラミッド

2017-06-16 03:21:45 | 世界史
『文明のあけぼの 世界の歴史1』社会思想社、1974年

6-3 アメネムヘト三世のピラミッド

 ウィリアム・マシュー・フリンダース・ピートリは、エジプト考古学者のなかでも、もっとも有名なひとりだろう。
 しかし彼は正規に考古学者としての教育はうけなかった。
 それは子供のころ、彼はからだが弱く学校に行けないためだった。
 彼は家庭で、学識の深かった父親のウィリアム・ピートリと、母親(彼女の父親は有名な探検家のマシュー・フリンダースだった)から教育をうけた。
 そのうえたいへんな読書好きの少年で、手あたりしだいに乱読した。
 彼は父親から機械に対する関心を植えつけられ、母からは数学や幾何学に対する興味を教えられた。
 こうして彼は古い建築の規準的な尺度に対して強い関心をもつようになり、イギリスの古い教会を測量して歩いた。
 そして父親の助けをえて、著書を出版したりした。
 たまたま彼の父は、さきにあげたチャールズ・スミスの著「大ピラミッド内のわれらの遺産」を読み、大いに興味をもち、息子といっしょにエジプトに行き、精密な測量器を使って、大ピラミッドを科学的に測量しなおそうと思った。
 息子がまず一足さきに、エジプトにでかけた。
 父はあとから行く予定になっていたが、けっきょく行かずに終わってしまった。

 これは一八八〇年の冬のことで、エジブト考古学者としてのピートリの第一歩は、こうしてはじまった。
 彼が二十六歳のときだった。
 彼の測量の結果わかったことは、予想以上に、おどろくほど正確にピラミッドがつくられているということだった。
 しかしスミスのような、神秘な数関係はぜんぜん存在しないことも明らかになった。
 一八八九年ピートリは、ファイユーム地方のハワーラにある、あるピラミッドの調査をした。
 ピラミッドの墓室の入口は、ふつう北側のあまり高くない所にあるので、北側をさがしたがどうしても入口はみつからなかった。
 みつかったのは、彼より前の盗掘者が入口をさがしたあとと、壁に穴をあけようとしたあとだった。
 それは、はじめてみるとあまりたいへんな仕事なので、途中で中止されていた。
 ついでピートリは東側を調べたが、そこにも入口はみつからなかった。
 入口さがしに時間を無駄に費やすよりもと、彼はピラミッドに穴をあけることにした。
 それは予想以上にたいへんな仕事だった。
 しかし七週間もかかって、それでも、どうやらうまく墓室の壁に穴をあけることができた。
 穴は小さく、彼ははいることができなかったので、やせたエジプト人の若者を中にはいらせた。
 彼はろうそくを持って穴にはいって行った。
 上からのぞいているピートリには、ろうそくに照らされて、墓室になかば水につかった大きな石棺と、そばにある小さな石棺が見えた。
 しかし、それらはなかば予想していたことであったが、彼より前に泥棒たちにこじあけられていた。
 彼は落胆はしたものの、彼の調査の目的は、ピラミッドの中の宝物ではなかった。
 だれが建てたピラミッドかを知ることも、彼の目的のひとつだった。彼は調査をすすめた。
 ナイルの洪水のさいに地下水が浸(し)みこんだらしく、墓室は水でいっぱいになっていた。

 彼と助手のエジプトの少年たちは、胸まで水につかりながら、石棺のなかを数日間調査した。
 何か文字を書いた遺物、ことに王名をしるしたものを見つけた場合には、特別に賞金をだすことにした。
 やがて、雪花石膏(アラバスター)製の壺のかけらが見つかり、それには「アメネムヘト」王の名が刻まれており、そのピラミッドの主が、アメネムヘト三世であることがわかった。
 そばにある小さな石棺は、王女ブター・ノフルのものであった。
 調査はなおすすめられた。ピートリの興味は、墓室にはいった盗賊の侵入口をさぐることだった。
 しかしそれはたいへんなことだった。アメネムヘトのピラミッド設計者は、盗賊に荒らされないように、あらゆる巧妙な工夫をしていた。
 ピートリがピラミッドの外面に入口をさがしてもどうしてもみつけられなかったのは、そのためでもあった。
 建築家は盗賊の侵入をさけるために、通路を複雑に曲がりくねらせ、本当の扉をかくし、にせの扉をつくって、あざむいていた。
 そのうえそれらは洪水のため水びたしになり、泥土がつまっていた。
 ピートリは泥を押しのけながら、やっとできたすこしばかりの空間を腹ばいになって、手足の指で少しずつ進まなくてはならなかった。
 口も鼻も泥でつまった。そして何度も行きどまり、途方にくれてはやっと道をみつけだすのだった。
 ピラミッドの中はまるでむしぶろのようで、暑さのために湯気が立っていた。
 着物は汗と湿気のためグチャグチャになり、持っているろうそくが消えると、乾いたマッチを取りにいちいちもどらなくてはならなかった。
 懐中電燈のような便利なものが、まだ使われていない時代だったのである。
 こういう苦心の結果、やっとピラミッドの外にでることができた。
 入口はほかのピラミッドとちがってピラミッドの南側にあり、それもまん中でなく西よりのところにあった。
 入口をはいると階段になっていて、それを降りると小さな部屋にたっする。その部屋からは短い通路があるが、行き止まりとなっている。
 しかしその通路の天井の大石の一つ(二〇トンはある)は動かせるようになっていて、それを動かすと、さきの小さな部屋の上にある第二の部屋に行ける。
 この部屋には長い通路がついているが、それはぜんぜん行き止まりの偽(にせ)の道だった。
 べつに木の扉でふさがれている道があり、それは二度直角にまがり、二つ偽扉があり、大きな前室に通じている。
 この大きな部屋の四隅には深い井戸があり、石をぎっしりつめてあった。
 これも盗人をあざむくためで、井戸の底には何もないのだが、そこに墓室への道があるかもしれないと、石をどけさせ、手間どらせるためだった。
 部屋の北側も石塊でふさがれているが、これも盗賊をあざむくためで、石塊のうしろには岩があるばかりで、墓室への道をかくすためのものではなかった。
 墓室とこの前室とは、前室の床に、搆があって通じていた。
 墓室は一〇〇トン以上もある堅い石英岩でできていた。
 それをくりぬいて長さ六メートル半、幅二メートル半、高さ一メートル八〇ほどの一枚石の箱型につくられていた。
 これが一メートル以上も厚さのある堅い石英岩の板三枚でふさがれていた。
 この蓋石(一枚四五トンもある)に支えをしてすき間をつくり、これが前室の溝に通じていた。
 王女がたぶんさきに死に、そのミイラが棺に入れられたが、すき間はそのままにされており、王の死後、王のミイラが棺に入れられたあと、蓋石の支えがはずされ、すき間がとざされ、前室の溝もうめられ、前室の床は石で舗装され、埋葬室への通路は、まったく見えなくなってしまうように工夫されていた。
 ピートリは建築家のこの細心巧妙な工夫におどろいたが、盗賊がそのすべての計略を見やぶって、まんまと墓室にしのび入り、盗みを働いている老練さにもおどろいた。
 彼はむしろ建築家よりも盗賊の知恵と勇気に感心しないわけにはゆかなかった。
ジャンル:
科学
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