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聖オイフラシア修道女  St. Euphrasia Virgo

2017-03-16 03:44:53 | 聖人伝
聖オイフラシア修道女  St. Euphrasia Virgo     記念日 3月13日


 7歳にして修道女となるとは甚だ珍しい例であるが、オイフラシアは之を実行した聖女であった。

 彼女は380年、東ローマ帝国の首府コンスタンチノープルに生まれた。父は宮廷に仕える高官でアンチゴノといったが彼女の誕生後一年にして世を去った。母は東ローマ教会で聖女と崇められているほどの人で、夫の死んだ頃はまだ年も若かったからしきりに再婚を勧められたけれど、故人を偲び遺児の為を思っては、到底そうした気持ちになれず、かえって世間をうるさいものに思い、縁談を断って娘と共に亡夫の財産のあるエジプトに退いた。
 それから未亡人は諸々を巡り、或いは聖人隠者に道を聞き、或いは慈善の業を行いなどしていたが、たまたま一修道院の童貞方の厳しい生活振りに感心し、その後は同院の付近に居を定め、しばしばそこを訪問しては修女方と祈りを共にしたり彼等に霊魂上の教訓を請うたりする事にした。
 それにしてもその修女方の生活があまりにも貧しいので、気の毒に思った未亡人は、夫の冥福を祈ってもらう事にして毎年一定の金額を寄付し、彼女達を援助しようとした。しかし修院長は「私共はせっかく天主様の為にかような貧しい生活に入ったのですから、生涯この不自由を忍びたいと思います」と彼女の好意を固辞し、ただ聖堂に用いる燈油、香などを受ける事だけを承諾した。

 さて娘のオイフラシアは愛深い母の庇護の下にすくすくと成長し、早7歳を迎えたが、ある日例の通り母について修院を訪れたとき、楽しげな修女達の様を見て子供心にも何かを感じたのだろう、時刻が来て母が連れ帰ろうとしても「いつまでも此処にいるの」と言ってどうしても動かない。院長が「此処は天主様に身を献げた人でなければ居られないのですよ」と諭して帰そうとすると、オイフラシアは傍にあった十字架を取り胸に抱いて「それなら私も天主様に身を献げます」と言う。院長はそのけなげさに感嘆しつつも、なお修院に入れば厳しい断食や激しい労働をしなければならぬ上に、全く我が儘の出来ない事などを話して、思い止まらせようとしたが、幼いオイフラシアは「何でも言うことを聞きますから、此処においてちょうだい。もし少しでも言いつけを守らなかったらその時追い出されてもいいわ」とあくまで願ってやまない。で、その熱心さに、始めは驚いた母も今は共々に院長に頼み、彼女を修院においてもらう事にした。しかし何分幼い子供の事とて、最初は修院の他の人々も多少危ぶんでいたが、さて共に生活してみると成人も及ばぬ真剣な態度に、今更の如く舌を捲いたのであった。
 オイフラシアの母はその後5年にして帰天した。娘のオイフラシアは13歳になった時、東ローマ帝国の宮廷から一通の書簡を受け取った。何事であろうと封を切って見ると、それは幼い時に許嫁になったある人との結婚を果たせとすすめたものであった。けれども日々天主との清い交わりを楽しんでいるオイフラシアには、もとより煩わしい世間の渦中に帰るつもりは少しもない。彼女はテオドシオ皇帝及びその皇后に返書をしたため、今の自分には愛するイエズスの浄配として一生を終える他何の望みもないことを述べて容赦を乞い、また自分の全財産を貧民に施されるよう依頼したので、皇帝皇后も大いに感じ、彼女の願いを許可されたのであった。

 それからもオイフラシアはますます我が身を修め徳を磨くに努め、衆人に優れた熱心を以て苦行、祈り、日々の務めにいそしみ一院の尊敬を集めていたが、30歳になった時急に大患をを得て、410年3月13日天国に旅立った。

教訓

 「三つ子の魂百までも」ということわざは宗教の方面に於いても真理である。聖女オイフラシアはその好適例であるが、彼女が7歳の幼年で心から修道生活を望むに至ったのは、日頃の母の指導もよろしきを得ていた事と思われる。一般信者の親たる者も常に子供は天主より与えられて天主に返すべき者である事を忘れてはならぬ。しかして心して之に宗教教育を施すならば、他日その子供達の中より、ただ国家社会に有用な人物のみならず、また天主の聖意に適う聖人も必ず出ずるに相違ないのである。


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