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アロイジオ・デルコル神父 江藤きみえ訳『十六のかんむり 長崎十六殉教者』、2

2016-10-31 03:00:12 | 日本キリスト教史
アロイジオ・デルコル神父 江藤きみえ訳『十六のかんむり 長崎十六殉教者』、2

 3人は、もうすでに日本語の勉強をはじめていました。でも、話して通じるのは、まだミゲル神父さまひとりだけです。

 さいわい、マニラには、ただひとりだけ日本人の神父さまがいました。長崎生まれのかれが、どうしてここにいたかを、まず話しましょう。

 この神父さまのひじょうに信仰心のあつい両親は、7名の子どもの末っ子として生まれたかれを、神にささげました。かしこいかれは、11才で浦上のセミナリオ(小神学校)に入学し、のちにマカオに留学しました。でも日本に帰ったときは、迫害のまっさいちゅうです。かれは、やっと役人の手をのがれて、マニラににげ帰ると、ここで神父さまになりました。

 学問にひいでていたかれは、そのとき、日本人神学校で教えていたのでした。この日本人神学生たちは、日本に帰ったら死ぬ運命にあります。なんときびしい道でしょう。それで、かれのはげましは、とても貴重でした。

 そんなかれに、あの3人の宣教師がさそいをかけました、「いのちが危険にさらされるのですから、とてもいいにくいが、もしあなたが、いっしょに日本にきてくださるなら,どんなに助かるかわかりません」と。かれは、そのとき静かに画をかいていました。血なまぐさし、日本にくらべるなら、ここは、なんと平和でしょう。

 でも、筆をおくと、かれは、にっこりほおえんで、明るい声で答えました。

 「よろこんで、おともします。もちろん、天国にもですよ」と。

 まず第一にかれがしたことは、イエズス会からドミニコ合にうつったことです。ルイス(=アロイジオ)塩塚とよばれるこの人は、修道名をこのときから、クルスのヴィセンテ(十字架のヴィンセンシオ)と名のりました。

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