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9-4 殷墟の発掘

2017-06-30 13:27:02 | 世界史
『文明のあけぼの 世界の歴史1』社会思想社、1974年

9 殷王朝の都を求めて――殷墟の発掘史――

4 殷墟の発掘

 一九二八年(昭和三年、民国一七年)、蒋介石のひきいる国民革命軍は北京の軍閥政権(張作霖)を倒して、中国全土の統一を達成し、南京に国民政府が樹立された。
 ところでこの年まで、殷墟の発掘はおこなわれていない。
 その当時までの中国には考古学という学問が発達していなかったからである。
 中国人の考古学者も生まれていなかった。
 しかし外国人学者の動きは、すでに活発となっている。
 一九二〇年代の初めから、中国のあちこちで、ヨーロッパ人の学者が、考古学や人類学の部門において貴重な発見をしていた。
 宣教師のリサンは、中国の北方で旧石器時代の遺跡を発見した。
 地質学者のアンダーソンは、河南省や甘粛省で新石器時代の遺跡を発掘し、彩陶を発見した。
 日本人の考古学者による活動も、二〇年代には目ざましくなっている。
 そのころ日本領となっていた朝鮮では、平壌において漢代の楽浪郡の遺跡が、次々に調査され、発掘された。
 それは世界の学界が注目したほどの、綿密な科学的調査であった。
 半島南部の慶州では、新羅(しらぎ)の遺跡が調査された。
 一つの古墳からは見事な金冠が出土し、世間をおどろかした。
 このような気運に動かされて、中国でも、自分たちの祖先がきずいた偉大な文化を、中国人自身の手で明らかにしたい、と考えるようになった。
 そのために中央研究院が北京に設立され、歴史語言研究所が開かれた。
 研究所には考古学も一部門として設けられ、アメリカ留学から帰った李済がその中心となった。
 そうして研究所は、まず殷墟の発掘にとりかかったのである。
 安陽県の小屯の北の丘に、はじめて発掘の鍬が入れられたのは、一九二八年十月十三日のことであった。
 発掘の主任は董作賓(とうさくひん)であり、二ヵ月前から安陽におもむいて、発掘すべき場所を検討していた。
 しかし中国人にとって、科学的な発掘は最初の経験である。第一年目の発掘は、思うように進まなかった。
 期間も一ヵ月と限られていた。つづいてつぎの年は、二回にわたって発掘をおこなった。
 そうして三回の発掘により、不十分ながらも、いくつかの成果をえたのである。
 収穫は甲骨が四干六百三十六片、ほかに土器や石器や青銅器が多数あった。
 なかでも、完全な形の亀甲が四枚、それも全面に文字の刻まれているものが発見されたことは、関係者をよろこばせた。
 従来の甲骨は、いずれも断片ばかりだったのである。
 董作賓は、この四枚の大版をくわしく研究し、そのなかから貞人(占ない師)の署名を見つけだした。
 また甲骨文字の書かれた年代をしらべていって、それが五期にわけられることを知った。
 つまり甲骨文字のすべてにわたって、殷代のどの時期につくられたものか、わかるというのである。
 偉大な発見であった。
 さて発掘は一九三一年の春に再開され、これから順調に、しかも大規模にすすめられた。
 参加する学者もふえていった。
 李済(りさい)や董作賓のほか、梁思永(りょうしえい、梁啓越の子)、郭宝鈞(かくほうきん)、また大学を出たばかりの石璋如(せきしょうにょ)や夏鼎(かてい)らも、次々に参加していった。

 発掘は小屯を中心としたが、しだいに周辺の地域にも調査の手はのばされてゆく。
 殷(いん)の都の規模は、小屯だけではなく、その周辺にもおよんでいたことが、わかってきたからである。
 小屯(しょうとん)では一九三二年から三三年にかけて、殷代の宮殿の跡が発見された。
 それは敷地の土壇をしっかりと突き固め(版築)、その上に礎石をならべて、柱を立てたものである。もちろん木造であって、屋根は草ぶきであったと思われる。
 その長さは三〇メートルにもおよぶものもあったから相当な大きさの宮殿であった。
 草ぶきの家では、現代人の目からみれば宮殿としていかにも粗末である。それでも殷の人々にすれば、驚くべき偉大な建築であったに違いない。

 一般の住居は、地中に穴をほってつくった、いわゆる竪穴(たてあな)の住居であった。
 その跡も、小屯からいくつも発掘された。
 一般の人々にとって、地上に家を建てるなどということは、思いもよらぬ時代だったのである。
 今から三千年以上も前の時代で、日本では縄文式時代がこれから千年ちかくもつづくのである。
 もちろん石器時代であった。
 ところが、殷では、すでに青銅器がつくられていた。それも、すばらしく精巧な青銅器である。
 器形もバラエティに富んでいる。祭器のセットもあり、酒器のセットもあった。
 すべてが三千年以上も前の作品とは思えぬほどの、見事な美術品であった。
 さらに三三年の秋には、小屯から東南およそ二キロのところにある後崗(こうこう)で、殷代の大墓が発見された。
 南北が三八・六メートルもある大きな墓であった。しかも北の墓道には馬車がうずめられている。
 墓室には、二十八個の人間の頭蓋骨がころがっていた。犠牲として、頭を切りとられたものに違いない。
 これは大きな驚きであった。
 これほどの大墓がある以上、小屯の周辺も、もっと調査しなければならぬと関係者は考えた。
 そうして発掘はいよいよつぎの段階へはいった。
ジャンル:
科学
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