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聖アルフォンソ・リゴリオ司教教会博士  St. Alphonsus Maria de Ligorio D. E.

2017-08-01 23:58:30 | 聖人伝
聖アルフォンソ・リゴリオ司教教会博士  St. Alphonsus Maria de Ligorio D. E. 記念日 8月1日


 1730年より1790年に至るころおい、司祭として令名の高かった人にリゴリオの聖アルフォンソがある。この人は1696年9月29日、イタリアはナポリ市の近傍、マリアネラに呱々の声を挙げた。両親は高貴の家柄であったが、財産から言えば中流階級に属していた。アルフォンソはその7人の子供の総領であった。その誕生後間もなくのことである。イエズス会の聖人のような一司祭が彼の母の許へ来て、この子は90歳までは必ず長生きして司教となり、天主の為に大事を為し遂げるであろうと預言したが、これは後に一々適中した。
 アルフォンソは天主の御加護の下に母の敬虔な教育を受け、幼少の頃から御聖体の秘蹟と聖母マリアに対し、勝れた信心を示した。それと共に学業の進歩も至って早く、中学卒業後は法律を専攻し、法学博士の称号をかち得たのはまだ若年の時であった。
 彼はそれから将来国政に参与するつもりで、種々経験を積む為に弁護士を開業した。生来親切で人ざわりのいい彼はすこぶる好評を得、大いに世人の信望を博したが、一方宗教も決して忘れるようなことはなかった。彼は毎日ミサ聖祭にあずかり、貧民を救い、病人を見舞った。されば彼は至るところで尊敬を受け、その前途は洋々として春の海の如くであった。彼の父は身に余る幸福を感じ、一日も早く彼に嫁を迎えたいと思った。しかしアルフォンソはそれを承知しなかった。さりとてまた父の考えを無下に斥けもしなかった。
 その頃天主は彼の上に一つの試練を送り給うた。ある日彼は重大な訴訟事件を引き受けたが、彼の見込みでは自分の担当した側に歴々たる勝算があった。ところが彼が重要な備忘書類を見落としたばかりに、思いもかけず一敗地にまみれてしまった。アルフォンソはそれを深く心に恥じ裁判所の門を出るや否や、我が家に馳せ帰り、二日間というもの部屋に閉じこもり、食事も取らず泣き続けた。母親は息子の身を心配し、いろいろと慰め嘆願したので、ようよう彼も再び出て来たが、その心は全く一変していた。彼はもう弁護士を廃業し、今後は信仰の道にのみ精進するつもりである旨を言明したのである。
 かくてある日不治の病に悩む人々の療養所を訪問したアルフォンソは、突然地震のような強い振動を二度我が身に感じ、同時に厳かな声が「世を捨てて我に仕えよ!」というのを明らかに聞いた。
 彼はその言葉に従って即座に修道院に入ることを思い立った。父はもとより頻りに反対し、辛うじてその決心の実行を他日に譲るよう説得し得たけれど、叙品の準備をしたいという彼の熱望は容れぬ訳にはゆかなかった。彼はその為熱心に研究し、祈り、苦行を行った。そして暇な時には子供達を集めて公教要理を教えた。
 アルフォンソがいよいよ品級の秘蹟を受けたのは1726年のことであった。彼の篤信はつとに世人の知る所となり、彼の御ミサにあずかり、彼の説教を聴き、彼に告白する為に四方から集い来る者は夥しい数に上った。彼が愛をこめて諄々と説く言葉には、誰一人逆らうことが出来なかった。
 彼はある司祭会に入会して至る所に黙想会を開いた。一日フォッジャで黙想会を行った時のことである。アルフォンソが力の限りを尽くして人々の指導をしていると、その報いか一つの奇蹟が起こった。即ち彼が聖母の御像の前で祈祷を献げている最中、突然それが生あるものの如く彼に向かって微笑みかけたのである。そういう事は彼の生涯になお幾度もあった。
 彼にはまた天主の御摂理によって他の一大使命が与えられた。一人の修道女がある時示現を見たが、それは幾多の司祭がアルフォンソを真ん中に囲んで、黙想会、殊に学問のあまりない単純な人々の為にそれを行っている光景であった。彼女はそれを彼に打ち明けた。しかし彼は躊躇せざるを得なかった。なぜなら十分調査もして見ずに他人の幻を信ずるなどは、あまりに愚かな事と思われたからである。
 ところがやがては学者や名望家からも彼に新修道会を創立せよとの要望の叫びが挙がり始めた。ここに於いて流石の彼もそれが天主の思し召しであることを確信せぬ訳に行かなくなった。彼は、涙を流して引き留める父に、悲しい別れを告げ、親戚朋友と袂を分って数人の同志と共に淋しい所に行った。そして彼等はそこで厳格な生活を送り将来の活動の準備をした。
 しかし試練もまたない訳ではなかった。彼等の間には間もなく会の目的や活動の範囲やその方法などに就いて種々な意見が対立した。その結果アルフォンソを野心があるとか我が儘だとか悪口する者もあれば、彼の事業そのものを痴人の夢と嘲笑非難する者もあった。
 さあれ、アルフォンソはやはり聖人となるほどの人物だけあった。彼は耐え忍び、へりくだり、自分を損なおうとする人々に愛を以て対し、ただ天主と聖母に満腔の信頼を献げた。とはいえこうした試練は彼の一生を通じて見られ、彼に対する衆人の尊敬を増す因となったのであった。
 彼は新修道会の院長を次々と三つまで設置するに成功した。けれども悲しいかなその二つは、迫害の為間もなく閉鎖の運命に立ち至った。もっとも後にはまた幾つかの新修道会が設けられたが。
 現今ではこの修道会は方々の国に進出し、その会員は今日もなお熱心に黙想会の指導に働いている。そして創立者に倣い説教、文書、教授等により伝道に努めている。実際アルフォンソ自身も倦まずたゆまず教えを説き、数多の修養書を著し、深遠な神学書を書いたものであった。彼が聖会博士の称号を得たのも主としてその効に依ってである。
 聖人は高齢に達してから更に一大試練を蒙らねばならなかった。彼はまず聖アガタ聖堂の司教に、次いで修身総会長に任ぜられたが、これは自ら望まずにも拘わらず、教皇の特別の厳命でやむなく引き受けたものであった。それはさておき彼が自分の修道会に対し教皇の認可を得たのは1749年のことであった。けれどもナポリ王国政府の認可はいつまで経っても下らなかった。ようよう1779年になって宿望達成の見込みのついた時、あいにく彼は重病にたおれたので、一切を他人に委任した。ところがその人は僭越にも容易に認可を得る為、勝手に会則を変更した。これは極めて重大な事と言わねばならぬ。しかしアルフォンソがそれを知った時にはもう手遅れであった。政府はその改変された会則に対して認可を与えたのである。
 聖なる創立者は苦しんだ。が、その苦しみは会の一部がその新会則を奉じて脱退分離するに至って更に深刻となった。教皇はナポリ王国内の修道院にいる修士をことごとく除名した。その中にはアルフォンソ自身も加わっていたのである。
 彼は断腸の思いであった。けれども謙遜にその言葉に服した、黙々と心に深い悲しみを抑えながら。彼の懊悩、心労はその他にも数限りなくあった。その上また病魔は1787年彼が永眠するまで、絶え間もなくその肉身を苦しめたのであった。
 アルフォンソが帰天したのは8月1日お告げの鐘の鳴り渡る頃であった、訃報一度伝わるや、たちまち大勢の人々が押し掛けて来て、その遺骸を見、且つそれに触れん事を望んだ。
 その後在天の彼の霊により、奇蹟もしばしば起こった。その為彼に対する崇敬は益々盛んになるばかりであった。先に脱退した彼の弟子達は、彼の没後4年にして再び帰参し、聖会に認可された元の会則に依り修道に励むこととなった。そしてこの度はナポリ国王もそれに認可を与えたのである。かくてアルフォンソは1816年福者に1839年聖人に挙げられたのであった。

教訓

 イエズス・キリストでさえその公生活中幾多の反対、迫害をお受けになった。されば主の御あとに従う者も皆それを甘んじて忍ばねばならぬ。これは一見善を妨げる事のようであるが、実は聖アルフォンソの生涯に見る如く善を促進する所以なのである。十字架によりて光へ!


成聖の恩寵を受けている人が
御聖体拝領をするほど、
神を喜ばせることはない。

自分に信頼する者はすべてを失い
神に信頼する者は、なんでもできる。
聖アルフォンソ・リゴリオ


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