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『ばらの聖女 ヴィテルボの聖ローザ』企画:デルコル神父、文:江藤きみえ

2017-05-03 23:09:53 | ヴィテルボの聖ローザ
『ばらの聖女 ヴィテルボの聖ローザ』企画:デルコル神父、文:江藤きみえ

 わたしの魂は、主をあがめ、わたしの精神は、救い主である神により、よろこびおどりました。主が、いやしいはしためにおん目をとめられたからです。これからのち代々の人々は、わたしをさいわいなひとと呼ぶことでしょう。  ルカ 1:46-48

 聖女ローザは、いま天国で、マリアのことばをくりかえし、感謝と愛にみちて、神をほめたたえます。

◆ ヴィテルボの聖女ローザ

 750年も遠い昔のこと、中央イタリアのヴィテルボの町に、信仰ぶかい夫婦が住んでいました。貧乏でも、心は神への感謝でいっぱい、とても豊かな日々でした。ただ、子どものいないのが悲しくて、朝夕、神に長い祈りをささげました、「ああ、天のおとうさま、わたしたちに子を与えてくださいませ」

 祈りは、ついに聞きいられて、1235年3月6日、玉のような女の子が生まれ、家には、天国のよろこびがあふれます。それは、日曜日、当時の典礼ではばらの主日といわれるその日曜日に、子どもに洗礼をさずけてもらい、ローザ「ばら」とその名を叫びました。

 なんと、かわいくて、やさしい子どもでしょう! 娘は両親のなぐさめ、小さな鳩も、2つか3つの幼ないローザと遊びます。

霊魂が体を得るとき   聖ジャン・マリ・ヴィアンネ

2017-05-03 02:37:37 | 格言・みことば
霊魂が、自分にとって、もはや罪の道具でも、苦しみの原因でもないこの体、この光栄の体に合一するとき、どんなに大きな歓喜の叫びをあげることでしょう。丁度蜜蜂が花の中に臥しまろぶように、霊魂は愛の芳香の中にふしまろぶのです・・・それが永遠に薫る霊魂であります!

聖ジャン・マリ・ヴィアンネ

聖フィリポ、聖ヤコブ使徒   Sts. Philippus et Jacobus App.

2017-05-03 02:25:54 | 聖人伝
聖フィリポ、聖ヤコブ使徒   Sts. Philippus et Jacobus App.       祝日 5月3日


 聖フィリポ及び聖ヤコブ両使徒の記念は、昔から日を同じくして行われる定めになっている。しかし彼等は同じ日に帰天した訳でもなければ、主の御昇天後共に働いた訳でもない、却って別れ別れに異なる国へ、福音を述べ伝えたのである。もっともその遺骨は共に今なおローマに祀られている。

 聖フィリポは聖ペトロや聖アンドレアと同じく、ゲネサレト湖畔にあるベッサイダの生まれであった。ペトロが主に召された翌日の事である、途で主にお逢いして「我に従え!」という有り難い御言葉を賜ったフィリポは、すぐそのまま御弟子の中に加わることになったが、間もなく彼はナタナエルという友人に逢うと、「私達はモーゼの律法にも預言者達にもかきしるされた人に逢ったよ、ナザレトのイエズスという方だ」と言った。そしてナタナエルが「ナザレト人? ナザレト人にろくな者があるものか!」と軽蔑したように言うのを聞くと「まあ来て見るがいい」とすすめて主の御許に連れて行った。その結果はナタナエルも主に二、三の御言葉を賜ると、早くもその救い主なる事を認めて御弟子になったのである。
 聖書にはまだフィリポに関する記事が三つほど載せてある。その一つはベッサイダでイエズスがパンを殖やす奇跡を行い給うた時、御後を慕って来た無数の群衆を見て「この人々の食すべきパンはどこから買ったらよかろうか」と問い試み給うたに対し、彼が「二百デナリオのパンを買って少しずつわけ与えても、この人数ではとても足りますまい」とお答えしたという話で、フィリポの世慣れた人物である事が偲ばれ、その二は翌年主と共にエルサレムに上った時、二、三の友人が彼を訪ねて来て、主を拝みたいと頼んだが、彼は一人では主にお願いしかねてアンドレアと共に彼等の望みを申し上げたという話、そして最後はあの最後の晩餐の時、御聖体の秘跡の御制定があってから、イエズスが「汝等もし我を知るならば我が父をも知るであろう。間もなく汝等は我が父を知るに相違ない。いや既にこれを見た」と語り給うたに対し、彼が「主を、御父を私共にお示し下さい、そうすれば私共はもう満足でございます」と申し上げたという話である。その時フィリポには他の使徒達同様、やはり主の聖言葉が解らなかったのである。で、主は優しくとがめるように「汝はこれほど久しく我と共にいるのに、まだ父を我等に示せなどというのか」と仰せになったのであった。
 使徒フィリポのその後の生涯と動静については、知られる所ははなはだ少ない。使徒達が思い思いに諸国へ布教に赴いた時、彼はスキチア、リビア方面に行き、およそ78年頃十字架上に逆さに磔刑にされて壮烈な殉教を遂げたという事である。



 本日共に記念される聖ヤコブは、小ヤコブと呼ばれ、7月25日に祝われる大ヤコブとは別人である。父はアルフェオと言い、母のマリアはイエズスの御母と親戚の間柄であるから、彼も主とは血続きの縁がある訳になる。聖福音書には彼についてただ十二使徒の一人としか記されていない。しかし伝説があるので、聖ペトロ聖パウロを除く他の使徒達よりは比較的よくその一生を知られている。それによれば彼は子供の頃から厳しい生活を送り、決して肉食飲酒をせず、髪やひげを伸びるに任せ、裸足で歩き、長い上衣とマントの外身につけなかった。そして暇さえあれば祈りにふけったが、ユダヤ人等のように立ったままでなく、必ず跪いて祈ったという。聖書の精神に徹していた彼は、神殿の儀式やその他のユダヤ人の善良な習慣を大いに尊重し、また極めて敬虔であって、人々から義人又は「人民の味方」と敬称されたほどであった。彼はイエズスより二三歳年長であったが、はじめてその弟子となった一人で、主の御信任厚く、その御昇天の前に親しくエルサレム市の布教を委ねられたそうである。で、ヤコブはエルサレム最初の司教となり、よくその任を果たした。彼はイエズスの聖教を自分でも立派に守り、人にも正しく教えたが、旧約の律法に定められた事も併せて守る必要があるという論者で、異教からの改宗者にもこれを要求した。しかしエルサレムに第一回の公会議が開かれ、教皇ペトロが聖霊の御照らしを受けてその必要なしと断定宣言するや、彼は快くこれに服したのであった。彼はかつて異教徒の間に生活するユダヤ人のキリスト信者達に宛てて一通の書簡を送ったことがある。それは今も聖書中にヤコブ書の名で収録されているが、その中には主に善行の必要と終油の秘跡の設定とにつき説かれているのである。
 聖なる生活を送ったヤコブは勿論多くの人の尊敬を受けていたが、一方には又彼を憎む敵もない訳ではなかった。既に主を迫害し十字架に磔けたファリザイ人等は、その忠実な弟子なるヤコブにも迫害を加えようとした。その意を迎える為にまた時のエルサレム市長ハンナンは彼を石打の刑に処する旨を宣告した。が、その処刑の前、御復活の祝日に彼はまず神殿に引き出され、甘言を以て聖教を捨てるように誘われた。けれども勿論その手にのるような彼ではない。断固としてこれを拒んだから、早速地上に投げ落とされ、ついで石打の刑によって惨殺された。その時彼は気高くも「彼等はその為す所を知らざれば、願わくは彼等を赦し給え!」と敵の為に祈ったと伝えられている。
 彼を死刑に定めたハンナンは、間もなく職を免ぜられ、彼の血に染められたエルサレムは23年後ローマの大軍に完膚なきまで蹂躙され破壊された。それもこれも義人を蔑した者への天罰であったろう。

教訓

 フィリポ及びヤコブの両聖人は、主に召されるや、いささかの躊躇もなく之に従った。我等も彼等の如く、天主の与え給う善きすすめには飛び立って従い、かつ死に至るまで忠実に主に仕えねばならぬ。