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ドン・ボスコの見た夢

2017-03-28 02:11:33 | その他
A・オフレー著、F・バルバロ訳『ドン・ボスコの生涯』ドン・ボスコ社 より

 ヨハネ・ボスコの少年時代を語るとき、書きおとしてはならない一つの事実がある。それは、神秘にみちており、かれを司祭職にかたむかせた重大な動機の一つとなったものだからである。

 それは、ある夢だった。かれの生涯の重大な時期に、ちょうど音楽の導調のようにくりかえされるその夢は、わずか九つになったばかりのかれの魂を打った。

 ドン・ボスコ列聖の、最初の守り手であらたヴィヴェス・イ・トゥート枢機卿がいっているように、それは、ヨハネの生涯を通じて介入した超自然の、最初の干渉だった。かれは、夢のなかで、遊び、わめき、いたずらのかぎりをつくしている、おおくの子どもたちのまんなかに突っ立っていた。

 かれは、その子たちをなだめてみたが、どうしてもいうことをきかないので、ついに腕力をふるおうとした。

 すると、そのとき、気高いひとりの婦人が、かれに近づいて、

「暴力をつかわないで、柔和と愛とで、友だちの心をおさめなさい」

といった。

 その間に、子どもたちは、猛獣に姿をかえていたが、間もなく、かわいい小羊になって、かれのまわりにむらがった。そのとき、威厳にみちたその婦人は、こうりいった、

「羊かいの杖をつかって、かれらを牧場につれて行きなさい。いつかある日、このことが、すべてわかるでしょう」。

 この夢を見た翌朝、ヨハネは、早くみなに、話したくてならなかった。家族がそろったとき、それを話すと、みなは、勝手な意見をのべた。

「おまえは、きっと、やぎか羊かの牧童になるんだよ」とヨゼフはいった。

「匪賊のかしらにでもなるのさ」とアントニオはからかった。

「夢なんか、あんまり気にするもんじゃないよ」と、経験者のおばあさんはいった。

 しかし、マルゲリタだけは、しばらく、むすこをじっと見ていてから、
「おまえが司祭になるしらぜじゃないだろうか?」といった。

 この母の一意見だけが正しかったようだ。なぜなら、その翌年から、ヨハネは、「神父になりたい」と、はげしい望みを、母に打ちあけるようになったからである。

「神父になりたいというのはやさしいが、簡単になれるもんじゃないよ」と母はくりかえした。

「なぜ、神父になりたいの?」とたずねたとき、ヨハネは答えた、

「おかあさん、ぼくは、神父になったら、一生を子どものためにささげたい。子どもを集め、正しくみちびいてやりたい。自分を犠牲にして、かれらの救いのためにはたらなりたいんだ」。



 かれは、その使徒職のプログラムを、早くもペッキで、実行しはじめていた。カプリリオ町の主任司祭のまかないをしていたおばさんの家に、しばらく滞在していた間に、読みかきを習いはじめた。ものが読めるようになると、長い冬の夜もたいくつしなかった。かれは、家々をまわって、朗読者になった。人々は、争って、かれを家に招いた。招かれると出かけていって、いきいきとした口調で、かずかずのおもしろい物語を朗読してきかせた。

 耳をかたむけているそぼくな人片を前にして、かれは、「フランスの王様」という有名な昔話も読んだ。愛すべき義理がたいピエモンテ人は、ときには、数時間もヨハネの朗読にききほれた。こういう集まりが、いつも、十字架のしるしと一つの"めでたし"とで開かれ、とじられたことはもちろんである。

 四季が移るにつれて、ヨハネの仕事もかわった。ときには奇術師にもなったし、またときには、漫才もやった。

 家の裏の、広々とした草原のすみ、梨の木と桜の木とに綱をわたし、その下に、しき物をひろげた。そして、集まってきた人々の前で、本職のような奇術や軽わざを見せた。

 もんどり打って車輪のよらにまわったり、不思議なさか立ちもをしたり、手品をつかって卵を十倍に見せたり、水をぶどう酒にかえたり、殺したおんどりを生きかえらせたり、見ている人の鼻から銀貨をとり出したりした。渡した綱に、一本足でぶらさがる芸には、観衆は手をたたいてよろこんだ。

 ヨハネは、こういう芸を見せて、村の人たちを集めた。集まった人たちには、見物料として、コンタツをとなえることと、ムリアルドの主任司祭の説教を聞きに行くこととを、要求した。この要求をきかない者がいると、ヨハネは、きっぱりと、こう命令した。

「何か買ったら、料金を払わねはなりません。ここも同じです。私は、コンタツをとなえる人にだけ、芸を見せます。祈りの時間になって逃げ出すような人は、もう今度から来ないでください」。

 おそるべき子ども! これが、十歳の少年のしたことだった。かれは、村のおとなたちからも、敬服されていた。こうして、幼い使徒は、村人の心を高めようとしていたのだった。

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永井隆「孤児」

2017-03-28 02:04:45 | 格言・みことば
永井隆「孤児」(著者はカトリックの医師・医学者、長崎で被曝)

 私がまだ講義に出かけていたころ、二年ばかりも前のことだが、停車場や市場でよくこんな声を聞いた。

「ちょいと、荷物に気をつけな。そら、きょろきょろ目玉を光らして孤児が来よるぞ」

また、

「まあ、ごらん、あの子を。あれ、きっと親なし子よ。かわいそうにねえ。さあ一郎、この五十銭を持っていってあの子におやり・・・。ちょっと。あのね、手や着物に触らぬように、離れていて渡すんですよ。シラミがうつるからー」

また、

「ちえっ、せっかく早起きして作ったお弁当が臭くなってらあ。夏分はいたむのが早うござんすなあ。捨てるのも、もったいないし。ーおお、ちょうどよい。あすこに孤児がいるよ。おうい、そこの子供。おうい、お前だ、そのボロを着た。-うん、こっちへ来い。小父さんがご馳走をやるから・・・」

また

「おい、お前、ちょっと来い。お前の生まれはどこだい?-ふうん。親はいないのかい?-ふうん。おやじはいつ死んだのかい?-ふうん。爆弾でかい?-ふうん。頭か足か何か残っとったかい?-ふうん。おふくろさんもいっしょに殺されたのかい?-なに、後で? ほう-すると何かい、焼き殺されたんだな? -そうかい。骨が見つかったのかい? -ふうん。それでお前はその骨をどうしたんだ? -埋めたのか?自分ひとりで? -ふうん。よくまあお前だけが生き残ったもんだね。ーオヤ。発車時刻だ。さあ、立ち上がるとしようか。いや、いい暇つぶしじゃった」

また、

「やいっ、つかまえたぞ。今度こそ逃がさぬぞ。世話をやかせる奴じゃ。-なに?痛い?痛いがどうした?痛いのが当たりまえだ。そのくらいの口先ではだまされんぞ。手をゆるめたら逃げる気だろう。じたばたすると縛り上げるぞ。-おい、なぜ収容所を逃げ出したんだ?あれだけよく言って聞かせておいたのに・・・なんだって?妹に会いたかったから?・・・妹っていうと? ふうん。あの子か。あれは女子の収容所へちゃんと入れてあるんだ。お前が何も心配することはない。ー妹、妹と言うが、妹に会いだいばかりじゃあるまい。女子収容所へ男の子が行ってはいかん。ああん。子供のくせに、もう色気なんか出しやがって・・・」

また、

「あんたっ、親切もいいけれど、度を越すと後が大迷惑よ。そりゃあネ、信心参りの旅先のことですから、宿無しっ子に、お弁当の残りやお金の十円も早るのは結構でございます。だけど、名刺まで渡して、困ったらいつでも訪ねておいで、とまでおっしゃらなくてもいいでしょう? もし本当に訪ねて来られたらいかがなさる? お客様のたくさんいらっしゃってる店先へ、あのボロボロの子供がやって来たら・・・。どこの子かもわからないのに・・・」

ー ああ!

 わが亡き後、誠一やカヤノが、こんな言葉を吐きかけられるのか?

永井隆『この子を残して』

カピストラノの聖ヨハネ  St. Joannes a Capistrano C.

2017-03-28 02:03:29 | 聖人伝
カピストラノの聖ヨハネ  St. Joannes a Capistrano C.  記念日 3月28日


 14世紀末から15世紀初めにかけて、イタリアには巡回説経家と呼ばれる熱心な人々が現れ、南欧諸国を巡って、古の洗者聖ヨハネの如く世人に悔い改めをすすめ、信仰の復興を計った。それはいずれもフランシスコ会修士であるマルコの聖ヨハネやシェナの聖ベルナルディノやカピストラノの聖ヨハネ達であるが、この3人の中でも社会に対し特に広くかつ深い感化を及ぼしたのはカピストラノの聖ヨハネであろう。

 彼は1386年イタリアのカピストラノという小さい町に住むドイツ人騎士夫妻の間に生まれた、幼時より優れた才能を恵まれていたヨハネは、僅か14歳にして早くも大学に入り、法律を修め、26歳の若干の身でナポリ王ラジスラオの信任を蒙り、ペルージャ市長に任命される名誉を得た。
 ところがたまたまペルージャ市とリミニ市との間に闘争が起こり。彼は捕らわれてリミニ市の牢獄に投ぜられたが、死刑の宣告を恐れるあまり脱走を企て、獄屋の高い窓から墜落して大怪我をし、一時は生命も危ぶまれているほどの有様になった。しかし幸いにも片足が折れただけで助かり、再び獄中に入れられている間に、彼ははからずもアッシジの聖フランシスコの出現に接し、浮き雲の如くにはかない現世の名誉財産をなげうって修道院に入り、ひたすら天主の聖旨にのっとって徳を磨く者になろうという求道心を起こすに至ったのである。
 その後間もなく多額の賠償金と引き換えに、身の自由を得たヨハネは、許嫁の女性に獄中における聖フランシスコの出現とそれに伴う自分の聖なる決意の程を物語り、相手の承諾を得て即日ペルージャにあるフランシスコ会修道院を訪れ、同会入会の許可を院長に懇願したのであった。
 けれども今までのヨハネの世間的享楽的な生活や盛んな名誉欲を知っている院長は、その改悛が真心から生まれたものであるか否かを疑い、珍しくもまた恥ずかしい試練を命じた。それはみすぼらしい身なりの背中に、自分の犯した罪の数々を記した紙を貼り付け、ロバに乗って町中を廻れというのであった。
 聖パウロの言葉に「我等はキリストの為に愚者となり(中略)世の芥、衆人の捨物の如くなれり」(コリント前書4、10-13)とあるが、ヨハネもキリストへの愛の為に、深い謙遜と従順とを以て院長の命を果たし、この衆人環視の裏に自分の赤恥をさらすようなつらい試みによく耐えて、遂に聖フランシスコの弟子となる事に成功した。かように最初から道の為には一切を捨てて邁進する勇気を有していた彼であるから、徳の進歩も著しく、後年天主のお選びを受けて特別の使命を授けられるに至ったのも敢えて驚くに足らぬのである。

 さてヨハネは修練期を終えると、哲学を研究して司祭になり、名高いシェナの聖ベルナルディノと共にイタリアの各地方を廻って、舌端火を吐くごとき熱烈な説経に、あらゆる人の心に深い感動を与え、無数の罪人の改心に導いた。
 ヨハネとベルナルディノとの仲はさながら世に言う水魚の交わりにも比すべく、互いに清い友情に結ばれていたが、1444年ベルナルディノがまずこの世を去るや、ヨハネは熱心を倍加して友の分まで働かんものと、弱々しい単身痩躯ながら真に東奔西走、席の温まるいとまもなく所々を説経行脚し、ある時は酷暑と闘い、ある時は聖堂に入り切らぬ大群衆に戸外において道を説きなどした。その効果は空しからず、至る所感激の渦を巻き起こし、殊に彼の教えにより翻然悔悟し、当時の悪弊たりし賭博や淫靡奢侈の害から救われ、真面目なキリスト教徒の生活に帰った者は数知れぬほどであった。
 さればカピストラノのヨハネは世に稀な聖人であるとの評判は天下に高く、フランス、ドイツ、オーストリア、ハンガリー、ボヘミア、ポーランド等の外国からも招聘されるに至ったが、そのドイツ訪問の時などは、皇帝フリードリッヒ三世御自ら彼を出迎えられたとの事である。そして彼の説教の結果は、ただ冷淡にして罪に沈んでいた信者が、再び熱烈な信仰によみがえって正しい生活に帰ったばかりではない、また多数の異端者やユダヤ人等まで聖教真理の光を仰いで人類の母なる公教会の懐に抱かれるに至り、ボヘミアに於けるフス派の異端者だけでも一万六千人も帰正したと伝えられている。
 が、聖人が最も大効をたてたのは、1453年、トルコの皇帝マホメッド2世がコンスタンチノープルを陥れた余勢をかって、直ちに欧州を突き、オーストリアのウイーンに攻め入ろうとした時であろう。その際ヨハネは既に70歳の老齢の身ながら、全欧州を異教徒の手より救うべく敢然と立ち、十字架を手に進んだところ、天主の冥助か二日の激戦の後、遂に劣勢の味方を以て優勢の敵を撃破潰滅せしめ、キリスト教国を回教徒の蹂躙から免れしめる事が出来たのであった。
 その二ヶ月後、カピストラノの聖ヨハネはユーゴスラビアにあるヴィラクという町で天主のお召しを受けて帰天した。時に1453年10月23日の事であった。

教訓

 カピストラノの聖ヨハネのかくかくたる事績は主イエズス・キリストの「我を信ずる人は、自らまた我が為す業をも為し、しかも之より大いなるものをなさん」(ヨハネ14-12)という聖言を実際に証拠立てたものである。されば我等も聖人の熱烈な信仰にあやかり、カトリック運動の精神を一層振興せねばならぬ。