城陽人のフォトアルバム

季節の移ろい、日々の情景、目に映る景色、町並みの風情や、カメラに映った画をそのままに貼り付けてゆきたいと思っております。

西国三十三ヶ所遍路旅<第五回>パート2

2016年07月31日 | 西国三十三ケ所遍路旅
四国八十八ケ所遍路旅は平成22年(2010年)に打ち終わっていますので、今度は西国三十三ヶ所を遍路してみようと始めました。
実は「西国さん」は平成10年(1998年)に1度打ち終わっております。今回で2度目を打つことになります。
前回はマイカーで巡りましたが、今回は「お四国さん」を巡ったときと同じように、12回で満行するバスツアーに参加しました。
昔の人は歩いて回られたのでしょうが、現代では到底歩いて巡るのは至難の業です。ですから本当の意味の遍路旅にはなりませんが、取敢えず全行程を回って来ますので、このブログに記録してゆきたいと思っています。

では第5回を2014年7月1日に行ってきました。
と云っても、実は今回は回数としましては、第6回になります。
と云うのは前回は通常ならば2014年の11月に行く事になる第十一回が挟まってしまったからなのです。
バスツアーの都合でこうなりました
今回は前回予告通り、5月に行く予定が諸事情により遅れてしまい行けなくなりました第5回目の札所を巡りました。今の所、今回と第6回、それに第7回もマイカーになるかもしれません

今回は第十二番岩間寺⇒第十三番石山寺⇒第十四番三井寺⇒番外元慶寺⇒第十五番観音寺の五ヶ寺の順に向かいます。
今回もマイカーでのお遍路となります

前半の石山寺を後にして次にやって来ましたのは「三井寺」です。

車で行きましたので駐車場に一番近かったのが「豊饒池」でした。そしてまた観音堂に行くのにはこの池を南に行くのが一番近道です

楼門・仁王門
本当は現在はこの仁王門から入るのが通常ルートなので、先に紹介しておきます
宝徳四年に建立された甲賀・石部の常楽寺の楼門で、後に伏見城に移築され、慶長6年に家康により寄進されました。また、寺の総門は南西、疎水近くにあります

 
池に架かる石橋、その奥は「千団子社」子供の守り神、鬼子母神(訶梨帝母)をお祀りし、5月の祭礼は「千団子さん」で賑う護法善神堂です


拝観受付を通り観音堂への途中にある「水観寺」

御本尊は薬師如来をお祀りされており、西国薬師霊場第四十八番札所となっています。お堂は明暦四年(1655)に建立されています。両脇侍日光月光菩薩の美しいお姿です
 
観音堂への階段の側に建つ「十八明神社」
別名「ねずみの宮」といい太平記によれば当寺の戒壇檀建立の勅許がおりたが、比叡山の強訴により取りけされ、これを怒った頼豪は、二十一日間の護摩をたき壇上に果ててしまいました。その強念が八万四千のねずみとなり比叡山へ押し寄せ、堂塔や仏像経巻を喰い荒らしたと記されています
 
この石段を登ってゆきますが、比較的なだらかで段数も200段なかったかな
左に祠がありますが、この場所は「浄妙坊跡」で三井寺の僧兵中一騎当千中の勇者、筒井浄妙の坊だったそうです
『京都祇園祭の山鉾の一つ「浄妙山」は、橋合戦(宇治川の合戦)において、敵陣に一番乗りをしたい一来法師が、狭い橋の上で奮戦する浄妙坊の頭上を「悪候、御免あれ」といい飛び越えた一瞬の場面を表現しています。また、この場面は先陣争いではなく、一来法師が浄妙坊をかばうために前に出たともいわれています。
 三井寺境内水観寺の側、西国第十四番札所観音堂へと続く石段の登り口には、浄妙坊を祀る祠があります。毎年7月、浄妙山保存会が祇園祭にあわせてここを訪れ、当山僧侶が供養し、山鉾巡行の無事を祈願しています。』三井寺HPより。くしくも祇園祭の時期に来られました
 

石段を登りきった左手に「百体観音堂」

堂内の正面中央に三井寺観音堂(正法寺)本尊と同じ如意輪観音像を奉安し、西国三十三ヶ所、坂東三十三ヶ所、秩父三十四ヶ所観音霊場の合計100体の観音様がお祀りされており、一度にお参りできてしまいます

ずらりと並んでおられます
 
何故か天井に方位版があります。四国八十八ケ所の三十五番、四十番札所にもありました
 

そしてこれが有名な大津絵「鬼の念仏」です。このお堂に奉納されておりました。
大津絵の画家のお店はこのお堂を長等神社に下ったところにあります
反対側は「鐘楼」です

中に入って見上げると鐘が見えました

この鐘は「童子因縁の鐘」と呼ばれており『昔、梵鐘鋳造の寄進に托鉢を行い、尾花川のある富豪に勧進を願ったが、そんなものにお金を出す気はない。子供なら家にたくさんいるから何人でも呉れてやると悪態をつきました。程なく梵鐘が出きあがったところ、不思議なことに3人の童子の遊ぶ姿が梵鐘に浮かび上がっており、その日にかの富豪の子供三人が行方不明になっていた。かの富豪はすっかり目覚め、それ以来慈悲深くなっ』たという伝説が伝わっています。
 
確かに3人の子供の遊ぶ姿が見えます。この鐘は第2次大戦時に供出され今はありません


百体観音堂の東は大津市が見下ろせる「観月舞台」となっています

  
石山寺にも舞台はありました。こちらははっきりを見る事が出来ました。清水の舞台を思わせます

その舞台から左に境内を見ています

左端は絵馬堂です

2枚をパノラマにしています

 こちらが「第十四番長等山園城寺(三井寺)」観音堂です

 「手洗水舎」で身を清めてお勤めをしましょう

 大きな鰐口の鐘を鳴らして仏様に挨拶をしてお参りです。千社札が多いですね


ご本尊は開祖智証大師円珍作と伝えられる如意輪観音(秘仏)で、向かって右に愛染明王坐像、左に毘沙門天立像が安置されています
また、延久四年後三条天皇の勅願により勅額を賜り聖願寺を建立、後に正法寺または如意輪堂と称しており、山上の華の谷にあったお堂は、文明十三年にこの地に移り、元禄二年再建され現在に至っています

 
この石造は15番札所にあったものですが、ここ十四番・石山寺の如意輪観音様のお姿です
絶対秘仏なのに何故お姿が分かるのでしょう

 本堂前には「水子地蔵尊」
 
 お隣には「宝篋印塔」が3基

 この上に展望台があり途中から振り返った観音堂

 なだらかな石段の先に「大津算盤」の故郷碑

 
江戸初期大津の片岡庄兵衛と云う方が中国風算盤に改良を加え日本算盤を作り全国に普及しました。大津は算盤発祥の地だったんですね

 
こちらの展望台からは大津市内が一望できます。お参りも終わり、綺麗な景色も見たので境内を見て帰りましょう
 
 
来るときに登ってきたなだらかな石段の側に建つ「弁慶引き摺り鐘」への道標
『田原藤太秀郷が三上山のムカデ退治のお礼に琵琶湖の龍神より頂いた鐘を三井寺に寄進したと伝えられています。 
その後、山門との争いで弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げて撞いてみると ”イノー・イノー”(関西弁で帰りたい)と響いたので、弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまったといいます。鐘にはその時のものと思われる傷痕や破目などが残っています。 』三井寺HPより

 
順路を逆に取るとやけに極彩色のお堂が現れました「毘沙門堂」です
もともと園城寺五別所のひとつ尾蔵寺の南勝坊境内に元和二年(1616)に建立され、現在地に移築され、内部は文様などが描かれ桃山時代の様式です

 
側には「衆宝観音」
三十三観音の一つで、この観音様を信仰すれば、大衆の求めて止まない財産が貯まり、福徳を授けられ出世が出来ると云う有り難い観音様だそうです

 
あの有名な弁慶にちなんだ「力餅(力持ち)」ですね

 
「天台智者大師」
中国天台山で修禅された天台大師で、智証大師はその天台山で修禅し法華円教をこの三井寺に持ってこられた、その報恩感謝を捧げるためお祀りされたようです

 
お隣の「微妙寺」 (湖国十一面観音第一番札所)
 
 
右に折れその先に架かる「村雲橋」
『智証大師がこの橋を渡ろうとされた時、ふと西の空をご覧になって大変驚かれました。大師が入唐の際、学ばれた長安の青竜寺が焼けていることを感知されたのです。早速真言を唱え橋上から閼伽水をおまきになると、橋の下から一条の雲が湧き起り、西に飛び去りました。
のちに青竜寺からは火災を鎮めていただいた礼状が送られてきたといい、以来、この橋をムラカリタツクモの橋、村雲橋と呼ぶようになったと伝えています。』三井寺HPより

 
「唐院」への参道
唐院は開祖・智証大師の廟所として最も神聖な場所で、入唐求法の旅で持ち帰られた経典類を納めています

 
金堂前の「天狗杉」
『室町時代の初め、相模坊道了という僧が勧学院書院で密教の修行をしていたとき、ある夜、突如として天狗となり書院の窓から飛び出し、この杉の上に止まり、やがて朝になるや東の空に向かって飛び去りました。』と云う「天狗杉」です(三井寺HPより)

 
「金堂」
ご本尊は千三百年余り前、三井寺創建時に天武天皇から賜わったと伝えられ、絶対の秘仏となっていて、誰一人として仏様を拝んだひとはいません
天台寺門宗の総本山で、飛鳥時代、天武天皇十五年(686)に大友皇子の子、与多王が創建したと伝わります。
建物は淀殿により慶長四年(1599)再建された桃山時代の代表作の一つとされます。
三井寺は山門(延暦寺)と寺門(三井寺)の対立・抗争による焼き討ちまた源平争乱、南北朝の抗争などによる戦火も加わって幾度も堂宇が焼失しましたが、その都度再建復興を遂げています。

 
この左に、天智・天武・持統の三帝が産湯に用いたという三井の霊泉があり、古来より閼伽水として寺の名前の由来となった霊泉があります

 
「堂前灯篭」
天智天皇が大化の改新で蘇我入鹿一族を誅し、その罪障消滅のため天皇自らが左薬指(無名指)を切りこの灯籠の台座下に納めたと伝えられています。そのため「園城寺金堂無名指灯篭」とも呼ばれます


近江八景のひとつ三井の晩鐘で有名な巨大な梵鐘を吊る鐘楼

 
今は2代目で、初代は霊鍾堂に納められている弁慶引き摺り鐘です

 
そして順路を逆に東大門(裏側)の見えるところに戻ってきました

 
門の北側に建つ「釈迦堂」
秀吉による破却の後、清涼殿を移築したものとの伝えもありますが、室町時代に建立されたものと思われます。
「園城寺境内古図」には、大門を入ってすぐ右手に食堂が描かれており、この堂も食堂として移築されたものと思われますが、現在は清涼寺式釈迦如来像を本尊とする釈迦堂として信仰されています。
 

その前の「弁財天社」
学問や芸事の女の神様です

三井寺はここまでです
そして次は、バスツアーでは巡拝箇所には入っていませんが、三十三ヶ所中興の祖「花山天皇」が出家して入られた番外「元慶寺」に向います

山科区の住宅と田圃に挟まれた渋谷街道と呼ばれている通りの北花山交叉点東を北に入ったところに建っています

 
天台宗「番外華頂山元慶寺」
開創は平安初期の貞観三年(868)桓武天皇の孫・僧正遍照が清和天皇の第一皇子誕生を期に発願。翌年、陽成天皇の母・藤原高子が伽藍を建立したのに始まります
陽成天皇9歳に即位し、元慶と年号が変わり「定額寺」となり寺号とした。当初は今の北西に当たる花山山の山際にあったようです

花山天皇は寵愛していた女御藤原忯子(きし)死別とともに出家を考えるようになった。懐仁親王の外祖父であった右大臣藤原兼家は孫である皇太子の即位と自らの摂政就任を早めるために、天皇に仕えていた次男・藤原道兼に対して花山天皇に出家を勧めさせた。
986年6月23日の明け方、天皇は藤原道兼の勧めに従って内裏を出て山科の元慶寺に向かった。兼家は三種の神器を皇太子の居所に移し、内裏諸門を封鎖した。藤原義懐が事態を知った時には既に天皇は元慶寺において出家を済ませた後で、懐仁親王は一条天皇として即位し、道兼の父兼家は摂政に就任した。謀略による政変(寛和の変)です
と云うわけで19歳の若さで出家されました

 
 
山門の梵天像、帝釈天像は京都国立博物館に保管されているため写真でしか見られません

 
観音霊場巡りの出発の寺として平安末期までは寺勢盛んでしたが貴族支配が弱まり、江戸中期には礎石が残る状態までに衰退し、寛政元年(1789)法親王により再興されました
 
本堂は寛政元年頃の再興と見られます
宝珠をのせた宝形造瓦葺となっており、ご本尊は京の七仏薬師の一つ「薬師如来」をお祀りされています
境内には僧正遍照の和歌「天津風雲の通い路吹き閉じよをとめの姿 しばしとどめむ」などの碑もあります
またお墓は南西200mくらいにあります

今回最後の札所はこの「第十五番新那智山観音寺(今熊野観音)」です

 
泉湧寺の参道を今熊野観音の案内板に従い左に折れ、
赤い鳥居橋を渡り
 
 
参道を行くと入り口の門につきました
 
 
手前の道標には「右 三宝大荒神道・洛陽楊貴妃観世音」となっています。この石段を降りて右に曲がっていきますと200mほどで着きます。ここから近道です

 
境内へと入ると、迎えてくれるのがこの「子守り大師」です

 
その後の石段を上がると「本堂」です
嵯峨上皇の命を受け、自ら彫られた十一面観音像の体内に、熊野権現翁より授けられた観音像を納められ、建立されたのが観音寺の始まりです
その後左大神藤原緒嗣が伽藍を整え観音信仰が広まり興隆しました
朝野の尊崇を受けていたが、応仁の乱の兵火により衰退したので、皇室の寺であった泉湧寺の塔頭として再興が図られました

 
本尊「十一面観世音」のお姿です。但し、境内の三十三ヶ所霊場巡りの石造です
日本一の大天狗と頼朝が呼んだ後白河法皇を悩ませた頭痛の持病を、こちらの観音様が枕元に立たれ霊力により平癒したと伝えます。以来頭の悩み治癒、智慧授けの観音様として信仰が広がりました
明治維新以後は修験道から脱却し弘法大師開創の観音霊場として信仰を集めました

 
本堂の右上に見えておりました「医聖堂」

 
医療界に貢献された人々をお祀りする多宝塔形式のお堂です

 
本坊脇に建つ「三重石塔」
創建当時と伝わる平安時代のものだそうです。なんだか重みが感じられます

 
本堂南に立つ「講堂」

 
講堂右横に何処からか集められた四本の道標
山しな(山科)・すぐいまくま(今熊野)・京大仏(方広寺の大仏)・ようきひかんぜおん(楊貴妃観世音)等の文字が見えます
 
 
本堂右のお祀りされた、いづれも観音様でしょう。聖観音でしょうか

 
如意輪観音様でしょうか

 
いづれも蓮の花をお持ちです
脇には他の仏様も

 
その右側には「ぼけ封じ観音」
第十二番岩間寺にもありましたね。ほぼ同じ形をされていて、近畿十楽観音巡礼の第一番札所

 
観音様の足元にすがり付いているのは、子安観音でしたら子供でしょうが、こちらはお爺さんお婆さんでした。

 
その年寄り達がずらりと奉納されております。チョット異様な感じです

 
その後は「弘法大師堂」
平安初期の天長二年(825)頃、東山にかかる瑞雲を見られた弘法大師がこの地を訪れ堂を建立されたのが観音寺の始まりだそうです
護摩修法を行う大師像をはじめ不動明王、愛染明王とともに平安時代基礎を築いた藤原諸嗣像もお祀りされています

 
「五智水」
大師が錫丈で突いた所から湧き出たと云う霊水です

 
境内に山門はなく鐘楼がありました

 
その前には供養塔、でもなんだか変です。多すぎたり足らなかったりしていますね

 
「熊野権現社」
熊野信仰に篤かった後白河上皇は、熊野権現を勧請し院の御所法住寺殿の鎮守とされた。この神社が新今熊野神社で観音寺はその本地堂として新那智山と号し、熊野修験者の本山に並ぶ扱いを受け多くの堂宇が建ち栄え、文暦元年(1234)崩御された後堀河天皇も御陵を築かれました

 
権現社の後ろ側に、医聖堂へと西国三十三ヶ所札所巡りへの道があります

 
休憩所前の「菩提樹」
ご存知、釈迦がこの木の根元に座って悟りを得たという菩提樹です

 
門前の道標にを進むと「来迎院」がありました
三宝大荒神をお祀りされおり、また、こちらの寺で「寺請証文(寺の檀家であると云う証明)」を受けた「大石内蔵助所縁のお寺でもあります。寄進の茶室「含水亭」や念持仏「勝軍地蔵」
など赤穂浪士の遺品が所蔵されております

 
こちらのお寺の近くにはこの泉湧寺やその塔頭・(七福神巡りで有名)、楊貴妃観音など見所の多い所ですので是非立ち寄ってみて下さい

今回はここまで、階段もほとんどなく楽にお参りさせてもらいました
次回は京都市内4ヶ寺です清水さん以外は平坦な所でルンルン気分で行けそうです
それでは乞うご期待! 

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