城陽人のフォトアルバム

季節の移ろい、日々の情景、目に映る景色、町並みの風情や、カメラに映った画をそのままに貼り付けてゆきたいと思っております。

西国三十三ヶ所遍路旅<第九回>

2016年08月01日 | 西国三十三ケ所遍路旅
四国八十八ケ所遍路旅は平成22年(2010年)に打ち終わっていますので、今度は西国三十三ヶ所を遍路してみようと始めました。
実は「西国さん」は平成10年(1998年)に1度打ち終わっております。今回で2度目を打つことになります。
前回はマイカーで巡りましたが、今回は「お四国さん」を巡ったときと同じように、12回で満行するバスツアーに参加しました。
昔の人は歩いて回られたのでしょうが、現代では到底歩いて巡るのは至難の業です。ですから本当の意味の遍路旅にはなりませんが、取敢えず全行程を回って来ますので、このブログに記録してゆきたいと思っています。

では第9回を2014年10月9日に行ってきました。

今回もバスツアーで、第9回の札所・二ヶ寺を巡りました。


今回の打ち始めは「法華山一乗寺」です
兵庫県加西市に位置する天台宗の寺院です

前回の「花山院菩提寺」や「御嶽山清水寺」と同じくインド僧「法道仙人」による開山です



「笠塔婆」(県指定文化財)

播州地方攝津、丹波にかけては仙人による開山は100あまりに登ると云われ、いかに仙人の法力が優れていたかを物語っています
インドの霊鷲仙から紫雲に乗って中国朝鮮を越え八葉蓮華の霊山のこの地に法華山と名付け開山されました

本堂へは三つに別れて162段の石段が続きます


最初の石段を登ると・・・

法道仙人の法力がいかに凄かったかこんな逸話が残っています
『観音像・仏舎利・鉄鉢のみを持参したことから別名「空鉢仙人」と呼ばれ、飛鉢の術のより供養を乞いました。ある時播磨灘を行く船に鉄鉢を飛ばしましたが、船師・大宰府藤井麻呂はこの船荷は正税であると供養を拒みました。すると船中の米俵は一つ残らず雁の飛ぶ群れのように法華山に飛来したため、驚いた船師は仙人を訪ね謝り憐れみを乞うと、一鉢の米を残し船に返したが、一俵だけ落下しそれが高砂市の米塚と伝わります』



青銅製の常夜灯と・・・


左手に「常行堂」があり、不断念仏・止観道場となっています


聖武天皇勅願で建立されました。2度の火災にあい、現在の建物は明治元年の再建で、阿弥陀如来をお祀りされています


2段目の石段を登ると・・



その右手には、法輪を回せばが誰でも勝縁(素晴らしい出会い)が頂けると云う法輪堂(経蔵)と・・・


左手には国宝「三重の塔」があります


そして3段目の石段を登ると・・・


県重要文化財「鐘楼」が・・・



寛永五年、本堂と同じく本多忠政により再建されている「袴腰」付きの江戸初期の特徴を現す優雅な建築です


そして鐘楼の左手、ここが本堂(金堂・大講堂と呼ばれました)です
御本尊は聖観世音菩薩


病が癒えなかった「孝徳天皇」は法道仙人の法力を聞かれ、仙人にご祈祷をさせられるとたちまち平癒したため、白雉元年(650)に本堂を建立され、鎮護国家道場とされました


二代目本堂は後醍醐天皇の勅願で再建され大講堂と呼ばれました。三代目は1532の兵火による消失後、赤松氏により再建、現在の四代目は寛永五年(1628)姫路藩主本多忠政により再建されたものです

仙人の徳を慕って行基が逗留し聖武天皇、孝謙天皇の勅願により、講堂、常行堂開山堂、経堂、鐘楼、護法堂などが次々に造営されました



平安時代には空海が訪れ、嘉祥二年(849)に仁明天皇の御願で、行者堂、弁天堂、妙見堂が創建されました



本堂(講堂)は「大悲閣」と名付けられています



永延二年(988)には花山法皇が御幸され、金堂を「大悲閣」と命名され、西国第二十六番札所と定められ、「春は花夏は橘秋は菊いつも妙なる法の華山」と歌われ巡礼の霊場となりました



三重の塔は承安元年(1171)に建立され、各層の逓減が大きく・安定感があり平安様式の優美な古搭で、五智如来をお祀りしています



美しく残されている相輪(宝珠・竜車・水煙・九輪(五智如来と四菩薩(普賢菩薩、文殊菩薩、観音菩薩、弥勒菩薩)を表す)・花受・伏鉢(仏舎利の土饅頭)・露盤)



本堂の北には仁明天皇の御願の鎮守三社の内右より、春日造「護法社」で、毘沙門天をお祀りしています

真中、三間社流造り「「妙見社」、と左は春日造「弁才天社」で、孝謙天皇勅願による神社建築の様子を伝える貴重な建物だそうです


本堂西の仁明天皇の御願の「行者堂」で、寛文年間に再建され、役行者、前鬼、後鬼木造をお祀りされています

  

本堂背後より開山堂と賽の河原への路傍に立つ「十一面観音石造」と三重の塔の前に立つ宝匡印塔や地蔵菩薩石造

 
権律師阿弁の銘があり梵字もしっかりと刻まれた「石造五輪塔」


「右 見子堂道」「右 見子社道」「右いなり」とあるが、何れも稲荷社のようです
 

その方向には「太子堂」?がありました

 
駐車場に戻るとその前に、一乗寺の塔頭寺院 隣聖院「粟嶋堂」があります。
隣聖院は道を隔てて一乗寺の向かいにあります



「水掛地蔵」様がいらっしゃいます
 

沢山のお地蔵さんが奉納されていますが、供養を願っての事でしょうか

 
風車は何故かもの悲しさを感じさせて落ち込みそうです



さてお参りも終わり次の札所に向かいましょう。「清水寺八里 志よしや山五里」とありますので、次は書写山圓教寺ですね

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その前に昼食を頂きます。今日はバスツアーなのでドライブインで頂きました


次の札所の近く、姫路市内の姫路城のまん前でした


現在平成の大修理が行われている最中ですが、覆いだけは取り外されその雄姿を見ることが出来ます

 
以前より一段と白さが増していました。と云うのも創建当時を再現されているそうです


お腹も一杯になったところで、姫路市内の書写と云うところから、ロープウエイで書写山山頂371mまで一気に上ってきました。山内の鳥瞰図を参考に見て下さい
広大な境内と天台三大道場とし多くの僧を集め東の「比叡山」に対し、西の「比叡山」と呼ばれます

山頂駅から圓教寺本堂までは約1kmの山道を歩かないといけません。しかも山門までは爪先上がりの道が20分続きます。足の不自由な方は寺のマイクロバスが有料で走っています。
 

駅近くに岡本太郎画伯の「言葉 命は愛である」の碑がありました


この常夜燈からは、後ろに見えています「西国巡礼の道」碑にある通り、道の両側には札所の観音像が山門まで続きます



道標が出てきました。十四丁とありますが何所まででしょう


先ず第一番「那智山西岸渡寺」如意輪観音です

第2番「紀三井寺金剛寺」十一面観音菩薩と三十三番まで続きます。
「うつし霊場」と云われ全てを巡ると西国札所を巡ったのと同じご利益が得られるとされます


向かいには慈悲の鐘と名付けられた梵鐘が立っていました



十五丁の道標がありましたが、あれ!先ほどの十四丁より増えています?どうやら山麓の参道登り口から道程のようです


ずらりと観音様が並んで迎えてくれています


33番の観音様が見えましたが、二十七番の圓教寺の観音様は見られませんでした。と云うことは本堂までお参りしなさということなのでしょう


やっと山門までやって来ました。仁王門になっています


門の扁額には「志よしや」と書かれています。何故「圓教寺」ではないのでしょう?

  

見えにくいですが阿吽(あうん)形の仁王様です
一礼して入門しましょう

境内は東から西へに延びており、三つの谷があります。東谷、中谷、西谷です


平坦な道の右側に「壽量院」が現れました

この辺りから東谷となります

後白河法皇が参籠されたと云う、最も格式が高い塔頭寺院で、中門を設け書院造風部分と庫裏とを分けた、唐破風造りの玄関を構え、圓教寺型とも云える塔頭の典型だそうです



「すぐほんどう 右 西 左 東」これってどっちに行ったらよいのですか?どちらも同じ所にいけると云うことのようです


左右は逆になっていますが「壽量院」とほとんど同じ平面構成を持つ「十妙院」で、独特の塔頭形式だそうです


美しい白壁の外れに祠がひとつ祀られています

ここまでが東谷です

続いて中谷になります


そして丸味を帯びた重厚な石橋にやって来ました。「湯屋橋」と呼ばれ、姫路城主に着任した本多忠政は諸堂の大破に驚き家中を挙げ、その修復に尽力され、その頃にこの橋も補修されました

この橋から中谷になります


「摩尼殿」
こちらが本堂となり如意輪観音をお祀りされております
見上げると崖に張り出す懸造となっています


圓教寺の縁起が記されています


「摩尼殿」はお堂の半分が迫り出していて、舞台(懸造)となっています


2度の火災に遭い昭和八年に再建されており、豪壮な舞台つくりの建物です

崇敬篤い、また2度の御幸をされている花山法皇の勅願により、退位した翌年、永延元年(987)に建立され「圓教寺」の寺号を賜っています

内陣「宮殿」には、天禄元年(970)崖上の桜の木に観音を感得し彫られた如意輪観音を、如意輪堂にお祀りされ、延徳4年に焼失した「生木如意輪観音像」に代わり同じ枝分かれした櫻で、性空上人と弟子作の観音像も秘仏としてお祀りされております

 

迫り出した廊下部分の舞台です


北側になります。こちらから西谷に向かいます

この摩尼殿までが中谷となり、次に西谷に向かいますが、

『平安時代ここを開かれた開祖性空上人は、九州霧島山、背振山などで修行され康保三年に瑞雲に導かれ、ここ書写山に入山されました。ある時山中に文殊菩薩の化身である老人が現れ「ここは霊鷲山の土を分けて造り、姿形も似ているので書写山と名付け、また山上に3つに聖地がある。また、この山に登るものは菩提心を起こし、峰に棲む者は六根を浄められる」と云うお告げにより、悟りを得られ、三つの聖地を定められました』これが圓教寺の始まりです

この摩尼殿は2つ目の聖地「如意輪堂」の後身です


西谷の途中に「大仏」がどっかりとお座りになっておりました
書写山の元の名は「素盞山」と云い、巨石を崇める信仰で素盞信仰(磐座信仰)だったと考えられるそうです


この辺りは樹齢数百年の杉木立の林の中の山道です。さながら東の比叡山を彷彿とさせます


「三之堂」
急に視界が開けて、突然壮大な三つの大伽藍が目の前に現れます。何れも室町期に再建されています

こちらが西谷となります
 

 
その真ん中に建つのは「食堂」です。
後白河法皇勅願による創建で、別名「長堂」とも言います


そして1つ目の聖地「大講堂」です。三聖地の内の第一番の聖地です
 

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本尊は釈迦如来坐像、脇持に文殊・普賢菩薩立像がお祀りされております

 
 
「常行堂」
食堂を真ん中にして「コ」の字型に囲むように建っています


食堂横に「弁慶の鏡井戸」と呼ばれる池
「昼寝をしている弁慶の顔に、信濃坊戒円がいたずら書きをして、等と笑った。目を覚ました弁慶が池で自分の顔を映し激怒し、大喧嘩になり、大講堂や山内の建物を焼き尽くした」と伝わります


その池を通り西に行くと奥の院「開山堂」に出ます
 
 
開祖・性空上人をお祀りするお堂で、寛文五年(1665)に再建されています


軒下の隅に左甚五郎作と伝わる「力士像」があるそうですが見落としました
「四隅の内、西北の力士は軒の重みに堪えかねて、逃げ出した」と云います

 
開山堂右手に性空上人の仕えた乙天・若天を祀る2棟の「護法堂」です
護法童子は高僧に仕える童子姿の霊的存在らしいです。
右・乙天は不動明王、左・若天は毘沙門天の化身だそうで、同寸、同形のお姿だそうです

前に三聖地の内2つは出てきましたが、三つ目は「白山の峰」とされており摩尼殿の後方の山のようです。この三つの聖地を定められ、尊崇されたのが圓教寺の始まりとされています

広大な境内には堂塔伽藍や様々な遺構があります


こちらは、代々の姫路城主も信仰篤くお寺を援助され、御三家の御廟所もお祀りされております


こちらは「本多氏御廟所」です

 
そして「榊原家御廟所」
 

「松平家の御廟所」の三つの御廟所です


三十三ヶ所観音霊場ゆかりの建物は、湯屋橋を渡って右の「三十三ヶ所堂」


最初歩いてきました道の両側に「うつし霊場」の観音様がいらっしゃいましたが、それを更にミニチュア化したのがこの三十三ヶ所堂と考えられるそうです


境内諸堂の内の杉木立の間の「杣観音堂」
 
 
本多家御廟前の「宝蔵跡」
性空上人御真影、源頼朝公奉納の太刀、泉式部の色紙等八十七点あったようですが焼失しまっているようです


奥の院に建つ「不動堂」
乙天童子の本地堂ですが、若天童子の堂はなく、一説に若天はあまりにも怪異な姿のため人々が恐れたため、性空上人が暇を出されたと云われます


同じく奥の院にある「護法堂拝殿」
向かいの護法堂の拝殿ですが、広場を挟んで離れているのは珍しく、神社形式の仏殿風の一風変わった拝殿だそうです
その昔弁慶が修行した所から「弁慶の学問所」と云われ、今も食堂に勉強机が残っています


奥の院の南に立つ「金剛院」
もとは普賢院塔頭の持仏堂で、天井に天女などが描かれており、性空上人はこの地において金剛薩埵より密教印を授けられ、また普賢院は上人の居所であったと云われ、本尊金剛薩埵は食堂に安置されております


金剛堂の南にある「薬師堂」
圓教寺に現存する最古の遺構で、1308年に焼失し、現建物は元応元年(1319)に再建、元々は根本堂と呼ばれ小さな草堂を三間四面に作り替えたとされます。本尊薬師如来は食堂に安置されています


薬師堂の北、榊原家廟所の東に建つ「法華堂」
法華三昧堂と云い播磨国司藤原秀孝により寛和三年(985)に創建されましたが、現建物は江戸時代のようです


その東の建つ「十地院」
もとは奥の院西の広大な敷地に、名称のみ残るのを勧請殿跡地に建立されました

庭越しに瀬戸内海を一望できる唯一の建物だそうです(茶店になっているようです)


その北に袴腰で堂々と建つ「鐘楼」
堂、鍾とも14世紀前半に再建再鋳されたようです。鎌倉時代の様式を残す全国的に古く貴重な鐘楼だそうです


休憩所向かいの「大黒天」祠


そこから湯屋橋へ向かう途中の「瑞光院」
多くの塔頭がありましたが宿坊も兼ねていて、この院も網干観音講の宿院となっているそうです
門前の紅葉は11月ともなれば古びた土塀ともよくあって抜群の美しさだそうで、どうぞお出掛け下さい
堂塔伽藍の次は珍しいものもありました


湯屋橋袂にある「護法石(別名・弁慶のお手玉石)」
昔この石の上に、乙天、若天の童子が降り立ち寺門を守ったと云う伝説があるそうです
また、大きな護法石を弁慶がお手玉にしたと言われています


奥の院に佇む「和泉式部歌塚」
「暗きより暗き道にぞ入りぬべき 遥かに照らせ山の端の月」
性空上人の教えに触れようと訪れた、平安期の代表的女流歌人和泉式部が、居留守を使われたとき詠まれた歌です
この歌に感動し急いで一行を呼び戻しこの歌を返されました
「日は入りて月まだ出ぬたそがれに 揚げて照らす法の灯」

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湯屋橋側に立つ「笠塔婆」
正面上の方を花頭形に彫り、その中に阿弥陀如来を浮き彫りにし、笠の反りが鎌倉時代の様式をよく伝えているようです



本堂前に彫られた「如意輪観音石造」
おそらく本堂の六臂如意輪観音様を模されていると思います
 
展望公園の側に白壁の塀に囲まれた石のお地蔵様
何か特別な事でもあるのでしょうか
 
 
遥か播磨灘まで見渡せますが、画像では見えませんでした


広大な境内を歩き回りましたのでいささか疲れました。ここらでチョット一服
本堂摩尼殿下にある茶店「はづき茶屋」です


そして帰りはバス道を下りました。参道もバス道も同じように傾斜はありましたが、歩きやすいのはバス道でしょうか。一昔前は馬が引いていた馬車があったのを思い出しました。


今はロープウエイ4分で山頂まで来る事ができます


姫路の町が一望出来素晴らしい景色でした

次回はまたどんな道が待っているのでしょうか?

今回はここまで!


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