団塊的“It's me”

コキロク(古稀+6歳)からコキシチ(古稀+7歳)への道草随筆 2週間ごとの月・水・金・火・木に更新。土日祭日休み

戦争 ミサイル 核実験 戦争を知らない子供たち

2017年09月06日 | Weblog

①    旧ユーゴスラビア NATO 空爆

②    サハリン 砲弾

③    第二次世界大戦 徴兵された父

①    『戦争を知らない子供たち』作詞 北山 修 作曲 杉田二郎 歌 ジローズ

♪戦争が終わって僕等は生まれた

戦争を知らずに僕等は育った

おとなになって歩きはじめる

平和の歌をくちずさみながら

僕等の名前を覚えてほしい

戦争を知らない子供たちさ

・・・・

いつでも笑顔のすてきな人なら

誰でも一緒に歩いてゆこうよ

・・・♪

まさか“戦争を知らない子供たち”の一人だった私が旧ユーゴスラビアで暮らすなどと思っても見なかった。明日からNATOの空爆が始まるという前日、ベオグラードを発着する最後の外国便に乗ってウイーンへ避難した。それから約半年の避難生活が始まった。空爆が終わりベオグラードに戻った。ミサイルによるピンポイント爆撃の跡を見た。仕事の持ち場の関係で空爆中も残った日本人の話を聞いた。「夜になると空爆が始まった。アパートの窓ガラスが大きく外の景色が良く見えた。ミサイルがすぐ近くのビルの真上から落ちた。ミサイルや爆弾の飛ぶ音、閃光、爆発音、地響き。毎晩続いた。妄想が始まった。大きなガラス窓に向かってミサイルが飛んで来る。恐怖で発狂しそうになった。住民のほとんどが外国人のアパートは、皆逃げて空っぽ。騒いでも誰も文句を言わない。だから大声で叫んで恐怖からのがれようとしていた」 私は彼の話が今になって理解できる。今回の北朝鮮の行動は、ミサイルだけではない。北朝鮮はNATOもユーゴスラビア大統領ミロシェビッチもほのめかすことさえなかった原子爆弾を使うと脅す。生まれて70年間、戦争を知らない子供たちのまま人生が終わるかもと思っていた。やはり私は平和ボケの一人でしかなかった。

②    サハリンでキノコ採りをしていた。深い森の中に不自然にへこんだ窪地があった。そこにたくさん美味しいオオモミタケがはえていた。喜び勇んで採り始めた。キノコの脇に固い丸いモノがあった。砲弾だった。その窪地は砲弾の爆発でできたものだった。私は手に取った。「こんなものが爆発と同時に飛び出し、体に当たったら」と絶句した。(写真:サハリンで見つけた砲弾)

③    父は戦争について語ることはなかった。満州、シベリア抑留の話を少し聞いた。私が思ったのは、もし父が戦死していたら、もし徴兵されず戦争に行かなかったら、私は生まれていなかった。とにかく生まれた。ここに私がいる。「もし・・」と考えても仕方がない。

 7日に北朝鮮へ一人乗り込むアントニオ猪木さんは、私より4歳年上である。彼は行動する。何もしない、できない私より立派だ。見守りたい。


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