カロカンノート

へぼチェス日記

「高田農協倉庫に君臨した男たち

2015年02月14日 | family
「高田農協倉庫に君臨した男たち」(大分合同新聞のコラム「党人郷記」より抜粋)
 日清戦争のあと、日本は軍備の拡張と産業の振興を中心にいわゆる戦後経営を推進し、経済界には空前の好景気が訪れた。全国各地に新進の富豪が勃興し、日本資本主義の基底が形づくられていくこの時代、わが豊後高田にあって、「経済的にはもちろん政治的にも超弩級の威力」をふるったのが、野村礼治郎・力蔵・市夫の三代にわたる「野村財閥」であった。
 「野村財閥」の開祖、礼治郎は江戸時代後期の嘉永元年11月19日に白野村の弥登家に生まれ、やがて高田村新町の野村ミチと結ばれて野村家の甲斐屋を継いだ。甲斐屋は代々の富豪というわけではなかったが、礼治郎が呉服の商いで成功したことによってあちこちに「小銭を貸すうち、だんだん地所が流れ込み、日清戦争後の物価暴騰で自然太りに太った」という。明治37年の第三回衆議院議員選挙にあたって多額納税議員互選資格者が公にされたときには、「礼治郎の名が一躍千五百六十五円余りの税額で彗星のごとくあらわれ、県下の長者番付を大いに狂わせた」ともいわれ、このころ「野村財閥」の有名はすでに不動のものになっていた。
 明治45年、この潤沢な資金力を背景に礼治郎は銀行事業に進出し、自ら取締役頭取となって新町に株式会社共同野村銀行を設立。長女のミヲの婿養子に迎えた力蔵を専務取締役、力蔵の長男の市夫を取締役として、「野村財閥」三代の覇権が確立した。設立当初の共同野村銀行は資本金五十万円、株数一万株であったが、第一次世界大戦後のブームに乗って、盛んに産業界に資金を供給した。特に、大正六年の豊中製紙株式会社高田分工場(新町/今の高田内科周辺)の開設をはじめ、養蚕業や製糸業など地域産業の振興に果たした共同野村銀行の貢献は大きく。「絹は日本経済の防波堤」といわれたように、生糸輸出という最も重要な外貨獲得の一翼をになっていたのである。また、礼治郎が第三回衆議院議員選挙にあたって憲政本党に入党したことから、共同野村銀行は立憲国民党・立憲同志会・憲政会・立憲民政会とつらなる反立憲政友会系の「御用銀行」株式会社共立高田銀行(横町/今の児島書店車庫)と激しいせめぎあいを繰り広げた。
 昭和4年1月30日、立憲民政党と立憲政友会の対立が深まるなか、礼治郎は八十二歳の生涯に幕を閉じたが、二代目の力蔵と三代目の市夫によって「野村財閥」はさらに強大な威力をふるっていくのである。
 「野村財閥」の開祖、礼治郎がこの世を去った昭和初年、野村家が小作人に貸し付けた耕地は西国東・宇佐・下毛の三郡にまたがる約三百六十町歩で、当時の高田警察署の調査によれば「一切の財産をひっくるめて四百万円、小作米だけでもざっと一万表、年間の収入二十万円」を誇ったという。また、そのころ公にされた大分県下の納税額による長者ランキングでは、第三位が「野村財閥」三代目市夫、第二十三位が父である二代の力蔵であった。
 力蔵は明治3年8月10日に南宇佐村の村岡健蔵の二男に生まれ、礼治郎の長女のミヲと結ばれて明治21年6月12日、長男の市夫が生まれたわけだが、「野村財閥」のなかで、市夫は主に「同族会社」を代表し、力蔵は「外部投資」を担当。銀行事業では、市夫が礼治郎なきあとの共同野村銀行の取締役頭取を務める一方で、力蔵が国家の農業金融機関である大分県農工銀行(今の第一勧業銀行)の取締役に出向した。また、市夫が同族会社の豊後灘酒造(新町/今の野村酒店周辺)を経営する一方では、力蔵が「野村財閥」の資金供給による豊中製糸高田分工場の経営に携わった。当時、大分県一ともうわさされた「野村財閥」だが、以外にも納税額は第三位と第二十三位に甘んじていたのは、このように市夫と力蔵の明確な責任分担制による「近代的な機構を整え、地所も酒場も金融もすべてを株式会社組織にして」いたためだといわれる。
 市夫が取締役頭取を務める共同野村銀行では、この潤沢な財力にものをいわせて、昭和6年に資本金を百万円に増資、さらに、昭和8年には新町に本店事務所(今の旧西日本銀行高田支店)を新築移転し、西国東郡の立憲民政党系の資金拠点として、立憲政友会系との激しい政争にまきこまれていくことにもなった。実際、「高田町会の民政派議員で野村の息のかからぬ議員はほとんどいないともいわれていたが、力蔵や市夫自らは帝国議会はもとより県会や郡会、町会の議員選挙に出馬することなく、「家憲がそれを許さぬとの理由で政党幹部の勧説を拒絶し」続けた。ここにこそ政治と経済を峻別する「野村財閥」一流の信条があり、政治にのめりこんで身上をつぶすような愚かなまねはしなかったのである。
 そんな「野村財閥」にも第二次世界大戦の動乱と戦後の混乱は容赦なく襲いかかり、昭和17年には戦時金融統制の一環として共同野村銀行が大分合同銀行(今の大分銀行)との合併を余儀なくされた。さらに戦後の財閥解体や農地改革によって致命的なダメージをこうむりこそしたが、豊後高田の近代に君臨した「野村財閥」の勇名は永遠に消え去ることはないだろう。
 力蔵---------昭和15年1月27日没、71歳
 市夫---------昭和23年12月20日没、70歳

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