斉藤光子diary斉藤のさいは、「斉」です (^-^)v

元FM石川アナウンサー
こどもアナウンス発声協会講師。盛岡市生涯学習指導者
無料出前授業は盛岡市中央公民館へ♪

東日本大震災から6年

2017年03月11日 | 日々のこと
地震発生時間の14時46分、家族と一緒に黙祷しました。

あの時のことを思い出すと怖く、つらくなります。



大地震の時、私は仙台の自宅マンションで原稿書きなど翌日の司会の準備をしていました。

携帯電話の緊急地震速報が鳴り、5、6秒でしょうか?時間があり、

入れたばかりの珈琲を流しに置き、犬を抱えて、窓や大きな家具から離れることができました。

揺れは、横揺れからまるで横にぐるぐる回転するように大きく大きく揺れ、

マンション全体がひねられるようにギシギシ鳴り、

立っていられず犬を抱えたままソファに座ったものの、ソファごと動いてゆっくり回転し始めブルブル震えました。

2~3分は揺れていたと思います。長く長く感じました。

幸い、つっぱり棒など家具は全て地震対策していたため、大きな被害はありませんでしたが、

地震で電気、水道、ガスが止まりました。



地震発生直後に、ありがたいことにものすごい数の着信とメールがあり、

応対などをしているうちに充電が切れました。

回線も混雑していたため、家族と連絡をとることができなくなりました。

非常持ち出し袋を用意してあったので、手巻きラジオで情報を聞き、

復旧まで時間がかかりそうだと判断し、その後、夜にむけてろうそくの準備をしました。



この大地震では結婚式はないとは思いましたが、電話がつながらなかったため

翌朝早く、スニーカーをはいて、長い距離を歩いて確認にいきました。

街中は、ビルから壁が剥がれ落ちている箇所が何ヵ所か、

光のページェントで有名な定禅寺通など信号がついていない箇所も何ヵ所かありました。

街中で営業をしていたコンビニやドラッグストアには、

50人や100人の行列ができていて、

私も30分並んでチョコレートやペットボトルのお茶、ウェットティッシュなどを買いました。

通りかかった小学校には、避難している人が大勢いて、

宮城県庁に行ってみると

食堂に600人ほど、入口から廊下や階段にはさらに多くの人達が段ボールをひいて座ったり横になったりしていました。

毛布は一部の人にしか行き渡ってないようでした。

県庁で携帯電話の充電をさせてもらいました。



電気が復旧した13日、

初めて見た津波の被害に言葉を失いました。

あの恐ろしい光景を、

地震発生直後に見ていたら、何もできなかったかもしれません。

何気なく挨拶した近所のおばちゃんから「娘が津波で流されてさ…」と言われたときの、どうしようもない感情。

被害の少なかった私でさえ、忘れてはいけない、でも思い出したくない。と思ってしまう時があります。

沿岸など、被害の大きかった方の悲しみははかりしれません。

あの地震で、暗闇で不安になり、

食材はもちろん、薬を買うにも雪がちらつく中、行列に並んだのを思い出します。



ガスの復旧は4月13日。

それまではIHでお湯を沸かし、

少ないお湯で髪や身体の汚れを流しました。

1ヶ月後にやっとお風呂に入れて垢だらけだったこと、

湯船に浸かって涙を流したことは忘れません。



あれ以来、

当時役立った避難持ち出し袋、十分な食料と水の備蓄はもちろん、

後悔しないよう、自分は自分の出来ることを精一杯すること。

会いたい人にはできるだけすぐ会うこと。

温かい、屋根のある家で眠れること、食事がとれることに感謝すること。

いつも頭に置いています。

もう6年、

まだ6年です。

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