ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

映画「神の小屋」

2017年06月10日 | 映画•映像

金曜日に表題の試写会に行った。

原作は行く前には下馬評で、三位一体のとらえ方に問題があると聞いていた。映画は同名のウィリアム・ポール・ヤングの原作をもとにして忠実に制作されたという。まだ読み終えてないので、映画だけの話になるが、観ただけでは私は問題ないと受け止めた。キリスト教映画という部類では、ある意味、見分けとかいろいろな意味での話題作に入ると思う。 もちろん私はキリスト教界に、この映画の非常に現代的で人間的な三位一体の神のシーンや語りについて、アレルギー的超拒否症状が発症するということも容易に想像できる(私自身がそのようなクリスチャンでもあったので)。しかし聖霊の(バプテスマ)体験がある方なら、そんな拒否症状や違和感なしに、神の容貌に惑わされず、語っているセリフが自身の神体験から、「確かにそうだろう」と正当かどうかがわかるはずだからだ。(写真は原作者)

映画のイントロだけ少々。「愛する末娘を猟奇的な殺人事件で失う」というクリスチャンホームのショッキングな事件・・・・それは犯人への憎悪と、守り切れなかった家族自身の責めという、とてつもない不幸の連鎖を惹き起こしたのだが、この不幸の底に沈む主人公マックに、あの現場となった小屋への一つの招待状が届くところから、物語は本題へと展開する。マックは意を決して出かけ、週末を三位一体の神と過ごすことになるのだ。

あまりネタバレにならないようしたいが、「不幸」というものがどうして神を信じる者(家族)に許されるのか?ということがテーマである。私もそうだったが、家族に病という不幸が襲って来た時、「祝福を受けるはずの家族に、どうして?」と信仰が試され、病状が進行する都度、いっそう揺さぶられた。「神さま、どうしてですか!居るのなら、何とか言ってください!」と叫び続けるようになった。映画でマックは犯人へのたぎる憎しみが抑えきれなく、悲しみの憎悪に支配されてしまっていた。

 

「赦す」ことに、どれほどの痛みが必要なのだろうか。それは自分も赦されていること、憎い相手すらも神は愛してやまないことを受け入れるしかないのだ。 私はこの映画が、傷を負っていて、その傷の癒し=赦し、赦されることが必要な人には通じても、その必要があまりないクリスチャンには、ただご自分の神イメージが崩され、つらいだけになることを心配する。
この映画は神の愛も一つのテーマである。イスラエルの王「マナセ」の話をP牧師がよくされる。偶像礼拝を盛んにし、イザヤ殺しのマナセ王をも神は愛される方なのだ。この神の愛がわかるなら、あなたはこの映画でこころから感動できるはずだ し、赦すことの恵みを受けるはずだ。ただ一つ残念なのは、「感謝」というより積極的、肯定的な信仰が語られていないことだ。(下写真は聖霊役の石田純一の娘すみれさん--クリスチャンになるよう祈りましょう)

  

 

 

ケパ

 

 

 

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