4人部屋の病室が空いていなくて 優雅に個室を使っている、
なんとお部屋にトイレもシャワーも付いてるんだよ、
そう聞いていたので その「個室」とやらを拝見がてら
二度目のお見舞いに行くつもりだった日曜の朝、
「病院から呼び出し!意識がないって!」と言う母の声で飛び起きた。
寝ぼけているのか起きているのか分からない状態で「私も行く!」と叫んだ。
初めて入った集中治療室。
そこも「個室」だったけど 私が見てみたかった「個室」とはイメージが違い過ぎる。
別室で 脳の断面写真を見ながら 母と叔母と3人、医師から説明を受けた。
そんな写真を見たって 何がどのくらいどうなっているのか 私には分からない。
ていうか正直、分かりたくない。
でもはっきりと 一番聞きたくない言葉を聞いた。
「長くはありません」


モニターに刻まれる、脈拍 血圧 呼吸を表す数字に振り回されて
ロウソクの炎が消える瞬間を待つ様な、恐ろしく重く つらい日曜日を過ごす。
呼び掛けに反応しているかのように感じることも、こちらの希望でしかないんだろう。
意識が戻るなんてことも、もうないだろうと聞かされていた。


月曜は出勤。
職場の誰かに話し掛けられると それに甘えて泣きそうで
なるべく話し掛けられない様に隙なく 平常心を保とうとするのが精一杯。
「仕事はどう?楽しい?」会うといつも決まって同じ質問だった。
いつも決まって同じ質問をしていたのは 私が「楽しい
!」と答えるからでしょう?
きっとそれが聞きたかったんだよね。
最後に会った日も おんなじ。
男の人に混ざって仕事する様な そんなタイプじゃなかったのにね、と笑いながら
「(病院からの)帰りにお茶でもして行って」と、小さなお財布からお小遣いをくれた。
あの日の笑顔が最後だった。
終業後 病院へ向かう途中に「仕事終わるの何時?」と、大阪にいる兄からメール。
驚いたことに、この時 私にメールしてきたのは偶然だったらしい。
電話を掛け直して 事情を説明すると「俺、今から行こか?」と。
「え?大阪から?」心強く思う私に「今(仕事の帰りで)沼津」。
でも、間に合わなかった。
兄も おそらくその瞬間 病院の入口まで来ていた私も。
母の 私への第一声は「ごめんね」だった。
感覚的には ほんの数分前だったらしい。



打ち合わせと準備でバタバタする中、
父に頼んで お気に入りの和菓子屋さんで生菓子を買ってきてもらった。
父が選んでくれた生菓子は ちょうど一年程前に
清水の家までお線香をあげに来てくれた時に私が用意したモノと同じだった。
自分で挽いた器にお菓子をのせて そっと棺に入れた。
火曜日にお通夜。
水曜日にお葬式。

木曜日、朝礼が終わるとすぐに休暇届を提出する様に言われて
翌日の準備に追われるみんなをよそに ひとり作業場に行った。
休暇届に日付を記入しようとしたら 今が何月だったのか 分からなくなっていた。
夏なのか冬なのか、それすら分からない。
1月....?
あれ2月....?
完全 ひとりパニック。
気が狂ったのかと思う程 泣いた。
人が生きて行く上で 当たり前に通る道なのに どうしてこうも堪え難いのだろう?
どうして自分だけが こうも弱いのだろう?
午前中ずっと 泣きながら仕事 ← ゴメンナサイ。
ふんわりそおぉぉっっと優しい心遣い、ちゃんと気付いてます ← アリガトウ。
金曜日は入荷作業。
結果 重ならなくて助かったけれど 入荷作業におけるあまりの人数不足に
この日が 通夜になろうとも 葬儀になろうとも 必ず出社しようと決めていた。
そして翌週から久し振りの残業が 数日続く。
段取りをしてくれているS氏に ただただ「頑張るね、頑張るからね」を繰り返した。

これが私の近況です。
私は元気です。
大丈夫。
根拠はひとつ。
なぜなら、愛されて育ったから。
ちゃんと仕事もしています。
私を通して [アンティーク家具] というモノに興味を持って下さる方が
少なからずいることをひしひしと感じ 心から感謝しながらも
今はもう ここに仕事のことを書くことはしないし
あえて自分の職場を売り込むことも 一切を止めてしまったけれど
ハタチの頃からこれだけ家具を続けていても
いまだに日々 良くも悪くも新鮮な驚きを感じられるということは
社会生活をおくる上で 極めて貴重なことだと思う。
興奮のあまり 思わずO氏を呼んでしまった ← 鉄骨ラーメン構造。
(注:ラーメンはドイツ語でフレームの意)

葬儀の後は みんな揃って おばあちゃんが大好きだった松坂屋へ。
私も行ってみたかった「梅の花」。
自分の思う様に動けなくなった頃「松坂屋に行きたい」が口癖だったから
母も叔母も、孫一同も 誰しも納得の精進落しでした。