信じれば真実、疑えば妄想…

季節は巡り、繰り返しと積み重ねの日々に、
小さな希望と少しの刺激で、
今を楽しく、これからも楽しく

妄想劇場・歴史への訪問

2017年08月09日 | 妄想劇場

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリー


キリシタン宣教師達は、日本やシナをスペイン
の植民地とすることを、神への奉仕と考えた。



キリシタン宣教師の野望

■日本布教は最も重要な事業のひとつ■


イエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは
日本に3年近く滞在した後、1582年12月14日付けで
マカオからフィリッピン総督フランシスコ・デ・サンデに
次のような手紙を出した。

私は閣下に対し、霊魂の改宗に関しては、日本布教は、
神の教会の中で最も重要な事業のひとつである旨、
断言することができる。何故なら、国民は非常に高貴且つ
有能にして、理性によく従うからである。

尤も、日本は何らかの征服事業を企てる対象としては
不向きである。何故なら、日本は、私がこれまで見てきた
中で、最も国土が不毛且つ貧しい故に、求めるべきものは
何もなく、また国民は非常に勇敢で、しかも絶えず
軍事訓練を積んでいるので、征服が可能な国土では
ないからである。

しかしながら、シナにおいて陛下が行いたいと
思っていることのために、日本は時とともに、非常に
益することになるだろう。
それ故日本の地を極めて重視する必要がある。

「シナにおいて陛下が行いたいと思っていること」とは、
スペイン国王によるシナの植民地化である。
日本は豊かでなく、強すぎるので征服の対象としては
不向きだが、その武力はシナ征服に使えるから、
キリスト教の日本布教を重視する必要がある、と
いうのである。

■シナ征服の6つの利益■

スペインの勢力はアメリカ大陸を経て、16世紀半ばには
太平洋を横断してフィリピンに達し、そこを足場にして
シナを始めとする極東各地に対し、積極的な貿易と
布教を行っていた。

宣教師達はその後もスペイン国王にシナ征服の
献策を続ける。
1570年から81年まで、10年以上も日本に留まって
イエズス会日本布教長を努めたフランシスコ・カブラルは、
1584年6月27日付けで、スペイン国王あてに、シナ
征服には次の6つの利益があると説いている。

第1に、シナ人全体をキリスト教徒に改宗させる事は、
主への大きな奉仕であり、
第2にそれによって全世界的に陛下の名誉が高揚される。
第3に、シナとの自由な貿易により王国に多額の利益が
もたらされ、
第4にその関税により王室への莫大な収入をあげる
ことができる。
第5に、シナの厖大な財宝を手に入れる事ができ、
第6にそれを用いて、すべての敵をうち破り短期間で
世界の帝王となることができよう、。

このようにスペイン帝国主義と、イエズス会の布教活動とは、
車の両輪として聖俗両面での世界征服をめざしていた。

■日本人キリスト教徒の「ご奉公」■

さらにカブラルはシナ人が逸楽にふけり、臆病であるので
征服は容易であると述べ、その例証に、13人の日本人が
マカオに渡来した時に、2~3千人のシナ人に包囲されたが、
その囲みを破り、シナ人の船を奪って脱出した事件があり、
その際に多数のシナ人が殺されたが、日本人は一人も
殺されなかった事件をあげている。

私の考えでは、この政府事業を行うのに、最初は7千乃
至8千、多くても1万人の軍勢と適当な規模の艦隊で十分
であろう。・・・

日本に駐在しているイエズス会のパードレ(神父)達が
容易に2~3千人の日本人キリスト教徒を送ることが
できるだろう。
彼等は打ち続く戦争に従軍しているので、陸、海の戦闘に
大変勇敢な兵隊であり、月に1エスクード半または
2エスクードの給料で、暿暿としてこの征服事業に馳せ参じ、
陛下にご奉公するであろう。

日本に10年以上も滞在したイエズス会日本布教長は、
日本人を傭兵の如くに見ていたのである。

■人類の救済者■

宣教師は教会のほか、学校や病院、孤児院を立てた。
地球が球形であることを伝え、一夫一妻制を守りるよう
説いた。
これらにより、キリスト教の信者が西日本を中心に増えた。
この当時、キリスト教とその信者をキリシタンといった。

中学歴史教科書の一節である。同じページにはザビエルの
肖像画があり、そこに記されたIHSという文字について、
「イエズス会の標識で『耶蘇、人類の救済者』の略字」と
説明される。
キリシタン宣教師達は、まさに未開の民に科学と道徳を教え、
社会事業を進める「救済者」として描かれている。
数ページ後には家康によるキリシタン弾圧が次のように
描かれている。

家康は貿易のために、はじめキリシタンを黙認していた
が、やがて禁教の方針をとった。信者に信仰を捨てるよう
に命じ、従わない者は死刑にした。[1,p130]

さらに家光が、「キリシタンを密告した者に賞金を
出すなどして、キリシタンを完全になくさせようとした」
事を述べ、厳しいキリシタン取り締まりに島原・天草で
約4万人の農民が一揆を起こして、「全滅」した事を
述べている。

この教科書を読んだ中学生は、「救済者」達に対する
なんと野蛮な宗教弾圧かと思うであろう。しかし、なぜ
家康は黙認から禁教へと方針を変えたのか、については
一言も説明がない。

秀吉も同様に、初めのうちはキリシタンを奨励していたのに、
急に宣教師追放令を出している。
いずれもキリシタン勢力から国の独立を守ろうとする
秀吉や家康の防衛政策なのである。

■日本準管区長コエリョの秀吉への申し出■

キリシタン宣教師の中で、イエズス会日本準管区長
ガスパル・コエリョは、最も行動的であった。
当時の日本は準管区であったので、コエリョはイエズス会の
日本での活動の最高責任者にあたる。

天正13(1585)年、コエリョは当時キリシタンに好意的であった
豊臣秀吉に会い、九州平定を勧めた。
その際に、大友宗麟、有馬晴信などのキリシタン大名を
全員結束させて、秀吉に味方させようと約束した。
さらに秀吉が「日本を平定した後は、シナに渡るつもりだ」
と述べると、その時には2艘の船を提供しよう、と
申し出た。当時、日本には外航用の大艦を作る技術は
なかったのである。

秀吉は、表面はコエリョの申し出に満足したように見せかけ
ながらも、イエズス会がそれほどの力を持っているなら、
メキシコやフィリピンのように、我が国を侵略する野望を
持っているのではないかと疑い始めた。

■コエリョの画策とバテレン追放令■

翌々年、天正15年(1587)に秀吉が九州平定のために
博多に下ると、コエリョは自ら作らせた平底の軍艦に
乗って、大提督のような格好をして出迎えた。
日本にはまったくない軍艦なので、秀吉の軍をおおいに
驚かせたという。

その前に秀吉は九州を一巡し、キリシタン大名によって
無数の神社やお寺が焼かれているのを見て激怒していた。
秀吉は軍事力を誇示するコエリョに、キリシタンの野望が
事実であると確信し、その日のうちに宣教師
追放令を出した。

コエリョはただちに、有馬晴信のもとに走り、キリシタン
大名達を結集して秀吉に敵対するよう働きかけた。
そして自分は金と武器弾薬を提供すると約束し、
軍需品を準備した。しかし、この企ては有馬晴信が
応じずに実現されなかった。

コエリョは次の策として、2,3百人のスペイン兵の
派兵があれば、要塞を築いて、秀吉の武力から教会を
守れるとフィリピンに要請したが、その能力がないと
断られた。
コエリョの集めた武器弾薬は秘密裏に売却され、
これらの企ては秀吉に知られずに済んだ。

■秀吉のキリシタンとの対決■

秀吉の朝鮮出兵の動機については諸説あるが、
最近では、スペインやポルトガルのシナ征服への
対抗策であったという説が出されている。
スペインがメキシコやフィリピンのように明を征服したら、
その武力と大陸の経済力が結びついて、次は元寇の時を
上回る強力な大艦隊で日本を侵略してくるだろう。

そこで、はじめはコエリョの提案のように、スペインに
船を出させ、共同で明を征服して機先を制しよう、と考えた。
しかし、コエリョが逆に秀吉を恫喝するような態度に
出たので、独力での大陸征服に乗り出した。
その際、シナ海を一気に渡る大船がないので、
朝鮮半島経由で行かざるをえなかったのである。

文禄3(1593)年、朝鮮出兵中の秀吉は、マニラ総督府あてに
手紙を送り、日本軍が「シナに至ればルソンはすぐ近く
予の指下にある」と脅している。

慶長2(1597)年、秀吉は追放令に従わずに京都で
布教活動を行っていたフランシスコ会の宣教師と
日本人信徒26名をわざわざ長崎に連れて行って処刑した。

これはキリシタン勢力に対するデモンストレーションであった。
一方、イエズス会とマニラ総督府も、すかさずこの26人を
聖人にする、という対抗手段をとった。丁々発止の
外交戦である。

■天草をスペイン艦隊の基地に■

全国統一をほぼ完成した秀吉との対立が決定的になると、
キリシタン勢力の中では、布教を成功させるためには
軍事力に頼るべきだという意見が強く訴えられるようになった。
1590年から1605年頃まで、15年間も日本にいた
ペドロ・デ・ラ・クルスは、1599年2月25日付けで次のような
手紙を、イエズス会総会長に出している。
要点のみを記すと、

日本人は海軍力が弱く、兵器が不足している。そこで
もしも国王陛下が決意されるなら、わが軍は大挙して
この国を襲うことが出来よう。
この地は島国なので、主としてその内の一島、即ち
下(JOG注:九州のこと)又は四国を包囲することは
容易であろう。
そして敵対する者に対して海上を制して行動の自由を奪い、
さらに塩田その他日本人の生存を不可能にするような
ものを奪うことも出来るであろう。・・・

このような軍隊を送る以前に、誰かキリスト教の領主と
協定を結び、その領海内の港を艦隊の基地に使用
出来るようにする。このためには、天草島、即ち志岐が
非常に適している。なぜならその島は小さく、軽快な船で
そこを取り囲んで守るのが容易であり、また艦隊の航海に
とって格好な位置にある。・・・

(日本国内に防備を固めたスペイン人の都市を建設する
ことの利点について)日本人は、教俗(教会と政治と)共に
キリスト教的な統治を経験することになる。・・・
多くの日本の貴人はスペイン人と生活を共にし、
子弟をスペイン人の間で育てることになるだろう。・・・

スペイン人はその征服事業、殊に機会あり次第敢行すべき
シナ征服のために、非常にそれに向いた兵隊を安価に
日本から調達することが出来る。

キリシタン勢力が武力をもって、アジアの港を手に入れ、
そこを拠点にして、通商と布教、そしてさらなる征服を進める、
というのは、すでにポルトガルがゴア、マラッカ、マカオで進
めてきた常套手段であった。

また大村純忠は軍資金調達のために、長崎の領地を
イエズス会に寄進しており、ここにスペインの艦隊が
入るだけでクルスの計画は実現する。
秀吉はこの前年に亡くなっており、キリシタンとの戦いは、
徳川家康に引き継がれた。

■国家の独立を守る戦い■

家康が何よりも恐れていたのは、秀吉の遺児秀頼が
大のキリシタンびいきで、大阪城にこもって、スペインの
支援を受けて徳川と戦うという事態であった。
当時の大阪城内には、宣教師までいた。
大阪攻めに先立って、家康はキリシタン禁令を出し、
キリシタン大名の中心人物の高山右近をフィリピンに
追放している。

1624年には江戸幕府はスペイン人の渡航を禁じ、さらに
1637~38年のキリシタン勢力による島原の乱をようやく
平定した翌39年に、ポルトガル人の渡航を禁じた。
これは鎖国と言うより、朝鮮やオランダとの通商は
その後も続けられたので、正確にはキリシタン勢力との
絶縁と言うべきである。

キリシタン宣教師達にとっては、学校や病院、孤児院を
立てることと、日本やシナを軍事征服し、神社仏閣を
破壊して唯一絶対のキリスト教を広めることは、
ともに「人類の救済者」としての疑いのない「善行」であった。

その独善性を見破った秀吉や家康の反キリシタン政策は、
国家の独立を守る戦いだった。これが成功したからこそ、
我が国はメキシコやフィリピンのように、スペインの
植民地とならずに済んだのである。
・・・・

おしまい



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むかしむかし、ある空き寺に、源哲(げんてつ)という
名前の新しい和尚(おしょう)さんがやって来ました。
村人たちは新しい和尚さんにあいさつをしようと、
畑仕事を途中で終えるとお寺にやって来ました。

「こんにちは、和尚さん。・・・?」
「はて? どこにも、おらんようじゃが」
村人たちが和尚さんを探すと、何と源哲和尚は
お堂の屋根の上でお酒を飲んでいたのです。

これには村人たちも、すっかりあきれて、
「坊主のくせに、昼間から酒を飲んでおるとは」
「あんなやつ、相手にしとれんわい」と、
みんな帰ってしまいました。

村人たちからは相手にされなくなった源哲和尚ですが、
裏山に住む子ダヌキたちには気に入られて、
「和尚さん。 おらたちに、何か教えてくれ」と、
子ダヌキたちは人間の子どもに化けて、
遊びに来たのです。

「いいとも、いいとも。それじゃあ、読み書きを
教えてやろう」
子ども好きの源哲和尚は、子ダヌキたちに
喜んで勉強を教えてやりました。

「和尚さん。お月さまって、どう書くんじゃ?」
「和尚さん。おらには、山と海じゃ」
子ダヌキたちは熱心に勉強をして、読み書きが
とても上手になりました。

すると村の子どもたちもやって来て、一緒に
勉強を教えて欲しいと言いました。
「ああ、遠慮はいらんぞ。仲間は多ければ多いほど、
はげみになるからのう」
こうして子ダヌキと村の子どもたちは、一緒に
勉強をする様になりました。

ある日の事。村の子どもたちが近くの川でとった魚を、
源哲和尚に差し出しました。
「勉強を教えてくれる、お礼だよ。
酒のさかなに、してくれろ」

その日の帰り道、子ダヌキたちは集まって
相談をしました。
「人間の子が、和尚さんに勉強を教えてくれる
お礼をしたぞ。おらたちも、何かお礼をせんとな」
「ああ、恩は返さんとな。しかし、おらたちは何をする?」

「うーん。そう言えば和尚さんは、雨の日に酒を
買いに行くのがなんぎじゃと言うとったぞ」
「それじゃ! 雨の日は、おらたちが酒を買いに行こう」

それから雨の日になると、子ダヌキたちは人間の
子どもに化けて酒屋にお酒を買いに行き、
源哲和尚に届ける様になりました。

ところが酒屋の主人が、雨の日に子どもたちが
お酒を買いに来ると、お金の中に木の葉が
まじっている事に気づいたのです。

「あの子どもたちは、きっとタヌキかキツネに違いない。
今日こそは、尻尾をつかんでやる!」
そうとは知らない子ダヌキたちは、いつもの様に
木の葉をお金に変えてお酒を買いに行きました。

すると酒屋の主人が店の入り口にカギをかけて、
太鼓(たいこ)を『ドン!』 とならしました。
いきなりの太鼓にびっくりした子ダヌキたちは、
尻尾を出してタヌキの姿に戻ってしまいました。

「やっぱり、お前らはタヌキじゃったんだな! 
このいたずらダヌキめ!」
酒屋の主人にひどいめにあわされた子ダヌキたちは、
それからは二度と人前に姿を現さなくなりました。

この話を聞いた源哲和尚は、ぽろりと涙を
こぼしました。
「あの子たちが、タヌキじゃったとはな。
よく勉強の出来る子どもたちだったのに、
わしの為にかわいそうな事をした」

でも、この事で村人たちは源哲和尚のやさしい人柄
(ひとがら)を知り、それからはお寺に親しく
行き来する様になったそうです。
・・・・
おしま



鬼が餅つきゃ、閻魔が捏ねる、そばで
  地蔵が食べたがる

 

長い間引き取り手がなく悲しみに暮れていた猫。
手を差し伸べてくれた一人の女性によって
別猫に生まれ変わる・・・


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P R :

Bu

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