読書 「もう一度読みたかった本 」柳田邦男著

2014-04-28 07:04:28 | 読書
10年程前はよく再読もしていたのだが、最近は そんな力もない、作品の評論とか、感想文とかを読むことがなんとなく多い。この 柳田邦男の本は、心の、命の生き吹きを感じさせる作品、24冊を取り上げている。人生懐顧ではないが、読んだ本といえども自分の記憶になかった場面の記述によく出くわすのだ。

まずはじめは、井上靖の「あすなろ物語」である。故郷生地の中学校同窓会の名前が「あすなろ会」という、一度しか出席していないが、案内状は毎年届く、有り難いものだが、自分史をひもとくと、いつも ひのきになりたくてもなれない「あすなろ」という木の名前の語感が未来を目指しつつも、叶わぬ夢ゆえに、どことなく哀愁を帯びていたという井上靖の文に重なる。国家というのは、時代の風をつくる。高度成長に資本家のさらなる育成に組み込まれ、個にしては勇躍、都会?に出たものの、時代の変わり目に応じきれない。本来生き物は「あすなろ」と個が堅実に積み木を築きながら生きていくものだ。

小林秀雄「モオツァルト」は、受験勉強時に触り読みしたような覚えがあるが、その名前程度しか記憶にないほど、難解という記憶だ。モオツァルトは、天才だが、奇人、変人ぶりは枚挙にいとまがない。義兄や義妹が彼の才能を、いや周りの人も、応援した。奇を衒う、若き青春であるが、99%は普通の生活という大人へ成長する。

自分がと、ここで登場すべきだはないが、身内の人、青春の欠点を見つけるのはすごかった、身内の、兄嫁の、送り込んだ女、女と責めそのあげくその傷を大げさに周りに告げ亡き者にしょうと眉間に皺をよせ鬼畜そのものだった。あの勝ち誇ったような形相はいまだにトラウマとなった自分に残っているのだからたまらない。

サマセット・モーム「雨」も聖職者にしてもしかりと、オスメスはまた社会の基幹である。モームには、月と六ペンス、人間の絆 もあり 前者は日常から抜け出し、後者はその反対だが、生まれ育った環境、階層に帰るといういわゆる「同窓会」の世界だ。74歳になっても、お金儲けしている友等は、みんな同じだーで見ることができないのは哀しい。夢を懐かしむ同窓会なのだ。


著者の柳田さんには、「犠牲」という本があり、息子さんの自死が綴られ、その才能の稀有さが、社会では生きづらいのを書いている。一言で言えば、柳田さんは、人の哀しみのわかる方である。

少し逸れ、時事放談になるが、地震や津波などの大震災、また 戦争、交通事故などの人災による死は、その哀しみはまずは個々のものだろうと思うのだが、その共有が政治的に一般化し、纏めての敏腕弁護士の腕を振るう場となっているのは哀しいことでもある。死んだら帰ってこないのだから、それ相応の補償(あらかじめ決められた基準)でいいのではないか。日本を覆う賠償、補償というお金の雲だ、どんよりと政治雲となって青空を包み込む。交通事故、殺傷事件もあくまで個人個人の哀しみとして捉えたいものだ。加害者に対しては刑としては重く、実刑労働として社会に尽くすように法を制定してはどうか。

この本に取り上げられた「作品」は、人生を振り返りながら老年者には再読する値打ちがありそうだ。