トトラの馬

元々はエコロジーやスローライフについて書いていましたが、とりとめなくなってきた。

句集 『海の蝶』

2006-08-28 22:30:55 | 読書
祖母が句集を出しました。
『海の蝶』です。

今年、89歳の祖母、2冊目の句集です。

はじめは
「(1冊目はすべて自分で選んだけど、今回は)他の人に選んでもらって、
納得のいかない句が載っているから・・・」
と、あまり満足いかない様子だったそうですが、
朝日新聞の書評(ローカル版?)に紹介されたとのことで問い合わせが入るようになり、
今は良かった、と思っているようです。

しかし。
実はわたしも読んだのですが、俳句の世界はまるきり分からないため
せっかくの句集もなにやら難解です。

季節ごとに章が分かれており、冬の章に「寒卵」という言葉が何度か出てくる
ことに気づきました。
土曜日に訪ねた夫の家族も読んでくれていて、土曜日は俳句の分からないもの同士、「寒卵」とはなんだろうか?という話で盛り上がりました。

「きっと、霜柱とか氷柱とか、そんなものがある時期丸く凍ることがあるのでは?」
「いや、きっと寒いから卵みたいに丸くなることに違いない!」
「ねえねえ、冬ってミカンを凍らせて食べるじゃない?丸いミカンが真っ白に凍って卵みたいに見えるんじゃないかな?」
と好き勝手に想像し、なんとなく納得して帰宅したのですが、
早速調べてみると「寒卵」とは、寒いときに産んだ卵は他の季節に比べて
滋養があることから、「ふだんよりあり難いもの」「価値のあるもの」を
表す季語なんだそうです。

わたしたちの盛り上がりはあさっての方向に全力疾走していたみたい・・・

ちなみに、寒卵を季語に使った句はこんなもの。

「寂しさはひとりがよろし寒卵」

おばあちゃん、冬は寂しがっていたものなあ・・・
と思う一方、「ひとりがよろし」ってことはその寂しさも楽しんでいたのかな?
と、肉親ながら甚だ心許ない。

俳句の分からないわたしが、すごいと思ったのはこの句です。

「青梅雨の書院ネガティヴとして父」

いや、89歳にして、「ネガティブ」を「ウ」に点々で書くなんて
カッコイイな・・・ってくらいなんですけど・・・。
青梅雨を、「あおつゆ」と読むのか「おうめあめ」と読むのかも分からないでけど・・・。

もう少し、祖母の気持ちに近づくには地道に俳句のことを勉強したほうが
いいでしょうね。

でも、分からないながらもこの句集にこんな素敵な装丁が付いていたり、
膨大な句の中から、この一冊に纏め上げる選句をしていただいたり、
帯に暖かい帯文を頂戴していたり、書評にお問い合わせをしてくれる方が
たくさんいたり・・・ということだけでも、祖母がどんな人間関係を築き、
どんな方々に心温かく見守っていただいてるのか伝わってきて、
ありがたいことだなあと胸が一杯になります。

そして、早くに夫を亡くして長いこと独りで暮らしながら、多くのことに
チャレンジし、たくさんの人と交流して、こんな素敵な仲間達に囲まれている
祖母にも頭が下がる思いです。
孫バカかも知れませんけどね・・・。

予定のない金曜日

2006-08-25 22:21:44 | できごと
今日は、なーんにも予定のない金曜日。

整骨院までの3.2kmをてくてく歩き、

マッサージしてもらって弛緩しきって、

2.2km歩いて家まで帰り、

「あー、もう限界!」ってくらい喉が渇いたところで、

早速枝豆を茹でて冷えたビール。



ネットをふらふらと徘徊して、

傍らにはまだ読んでない十数冊の本。

土曜日の夫の家族との約束と、日曜日のわたしの家族との約束。

あー、なんて幸せなんだろ。

などと思うわたしは、ビールはや6本目・・・。

セロリ

2006-08-24 21:43:34 | 食べ物、飲み物
「今日の夜、何が食べたい?」
と夫に聞いたら、
「セロリ!」
と即答が返ってきた・・・。

夫はとんでもないセロリ好きで、1株買ってくれば1株全部、
生のままバリバリと食べてしまうのです。
夕食にセロリだけでも、きっと文句を言わない。
いや、それどころか、食卓にセロリをたくさん出してしまうと
「セロリでお腹一杯だから、他のものはイラナイ!」
とか言いかねない!!

焦ったわたしは、
「じゃあ、セロリも買ってくるけど、ほかに 料理で 食べたいものはないの?」
と聞き方を変えてみることに。
夕食のメニューを聞いて、野菜名を答えられるのもなんだか悲しいですしね。

すると、
「うーん、うーん・・・・」と散々考えた挙句に、
「あ、じゃあ、トマトのやつの廣田家風で!」

これはどんなものかというと、鳥スティックやじゃが芋、人参、玉葱、コーンを入れて煮込んだトマトシチューをご飯にかけて食べるのです。
そんな料理があるのかどうかは知らないけれど、うちの母親は良く作っていて、夫はわが家で何度か食べたのを気に入ってくれてたんですね。
ほかの家では食べない料理なので、なんとなく気後れして作ったことなかったんです。

廣田家風、と命名してくれたことにちょっと嬉しくなり、おまけにこれなら普段毛嫌いしている麦や雑穀を混ぜたご飯を炊いても食べてくれるので、ペルー料理はお預けにして今日は「トマトのやつの廣田家風」。
ただいま鋭意煮込み中です。鳥の骨までほろっとなるくらい煮込むとおいしいんですよ。

でも、暑い日の煮込み料理は地獄だ~、という認識も新たにした本日のお料理でした。
セロリは別腹らしいので、後から与えよう・・・。

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先に食べちゃいました。セロリは抜きで。


カエルの万華鏡

2006-08-23 23:17:17 | かえるグッズ
仙台泉区の自宅で万華鏡のギャラリーをしている母の昔からの友人に、カエルの万華鏡を頂きました!
万華鏡ギャラリー桴館(バチカン)」

万華鏡の筒のまわりには、カラフルなカエルたちがたくさん描かれていて、きれいでしょう?
カエルの絵がリアルなところも、わたし好みです。

先週末に実家に戻ったとき、万華鏡のギャラリーに遊びに行った母から渡されたのですが、ちびっこの姪も興味津津といった感じで眺めていました。

中をのぞくと、中にもしっかりとカエルたちが映し出されるんですよ。
上を向いてカラフルな筒を覗き込むわたしに興味を覚えたのか、そばに座ってこちらをじっと眺めている姪にものぞかせてあげましたが、まだ小さいところを覗く行為は難しかったみたいです。


夫になんとか撮ってもらった、万華鏡の中の写真がこちら。↓
(名誉のためにお断りすると、超お手軽なわたしのデジカメで撮影)




こういう、筒を覗き込むタイプの万華鏡はとってもオーソドックスですけど、オイルが落ちる様を見るものとか、風車のようなホイールにガラス板が付いているものをまわしながら見るものとか、本当に色々な種類があるのです。
そして、手のひらに包み込めるような小さなものから、大きな台がないと載せられないような小型家具のようなものまで、素材やつくりもさまざま。

このギャラリーのオーナーは、海外の万華鏡愛好者とも常に連絡を取っていて、万華鏡のイベントがあるといってはアメリカに出かけ、素敵なアーティスト作品が見られるといってはヨーロッパへ出かけ・・・、そして、そのコレクションを自宅で開放しているんです。

万華鏡といったら筒タイプしか知らなかったわたしは、彼女のギャラリーに行って、さまざまな海外のアーティストの作品や貴重なアンティークを見て、すっかり万華鏡に対する認識を新たにしました。
ロマンですねー。

坂東眞砂子氏の「子猫殺し」に考える対話の難しさ

2006-08-23 00:40:17 | Weblog
ここ数日ネット上で話題になっている、作家の坂東眞砂子氏の「子猫殺し」についての反響を見て、人と人との対話って難しいなあと思っています。

話の発端は、坂東氏が18日の日経新聞に寄せた猫の子殺しに関する話題。
坂東氏の記事は、
痛いニュース(ノ∀`): 作家の坂東眞砂子が18日の日経新聞で日常的に子猫を殺していると語る
に引用されています。

こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている。
世の動物愛護家には、鬼畜のように罵倒されるだろう。
動物愛護管理法に反するといわれるかもしれない。
そんなこと承知で打ち明けるが、私は子猫を殺している。
家の隣の崖の下がちょうど空地になっているので、生れ落ちるや、
そこに放り投げるのである。


子猫を殺すことにした経緯については、いろいろと考えた結果であると断った上で、以下のような思考経路を公にされています。
すでにこの話題をご存知の方は読み飛ばしていただいて結構です。

・子猫が野良猫となると、人間の生活環境を害するので、何らかの処理が必要だ。

・獣の雌にとっての「生」とは、盛りのついた時にセックスして、子供を産むこと。
その本質的な生を、「避妊手術」で奪うことに納得ができない。

・人間の都合を優先させるのであれば、避妊手術も生まれてすぐの子猫を殺すのも同じことだ。

・そもそも獣を飼うこと自体が自然に反することであり、それでも飼いたいならば飼い主が最も納得できる方法を選ぶべき。

・飼い主である自分は親猫の「生」の充実を選び、子猫殺しの痛み、悲しみも引き受けた上で社会に対する責任として子殺しを選択した。


自身も「どんなに糾弾されるかわかっている」と言うように、さまざまな意見が飛び交っています。

わたしが考えたのは、もし、これが例えば飲み屋のテーブルで、自分に投げかけられた議論だったらどうだろうか?ということ。
多くの意見やコメントの中で「倫理の線引きの問題で、優劣はつけられない」「本人が批判覚悟であることを見ても、判断は覆らないだろう」と述べる人がいるとおり、これは感情で判断しようとするとどこまでも糸口の見つけられない会話になりそうです。

人と人との対話には、接点が必要です。
もしこれが、「避妊より子猫殺しの方が可愛そう」「いや、避妊の方が可愛そう」という議論になるのなら永遠に平行線をたどり、糸口となる接点がありません。
どちらがより可愛そうかというのは感じ方の問題ですから、2人の人間がいたら感じ方が異なるのは当たり前のことです。
感情で対話することの難しい点は、ここにあります。

「ゴキブリを殺したり、牛肉を食べることはなんとも思わないのに、子猫を殺してはダメというのはおかしい」という意見も同様の難しさをはらんでいると思います。
「猫や犬は可愛いからダメ」「イルカや鯨は賢いからダメ」といっても、可愛さや賢さに対する価値観、つまり感じ方が違うのです。

もし、わたしがこうした会話に参加することになったら、何を言うだろうか?と考えます。感情では交わることのない会話に、接点を見つけるとしたら・・・?
まずは、記事を読んでの一番の疑問点をぶつけるでしょう。

「猫の生の本能は、“盛りのついた時にセックスして、子供を産むこと”ではありません。 それは、猫の本能のごく一部に過ぎない。
 猫は一時的な性の享楽や出産体験を求めているのではなく、遺伝子を残そうとしている。
 そのプロセスの中に交尾や出産が含まれているのであって、子猫を殺されたら親猫の生の本能も全うできないのです。
避妊も子猫殺しも“猫の生の充実”を蹂躙していることに変りはないのではないですか?」

と。

でも、その先、はたと行き詰ってしまうのです。

獣を飼いならすこと自体が人間のエゴと知っているならば飼わなければ良いと思います。
でも、等しく“猫の生の充実”を蹂躙するのであれば、わたしは生まれた子猫を殺すことよりも避妊を選んで欲しいと思う。

“子猫を野に増やさない”という社会的責任の意味ではどちらも同じことかもしれません。しかし、親猫を避妊手術するのは一度で、そして一匹に対するエゴの行使で済みます。猫の本能に対する制限も、一部です。
それも決して手放しで賛成できることではない、という意味では坂東氏の記事も問題提起を含んでいるといえます。
でも、もし猫を野放しにして坂東氏の言うところの“猫の生の充実”を中途半端に謳歌させ、成り行きに任せて生まれた子猫を殺すとしたら、一体何匹の猫の「生」自体を奪わなければいけないのでしょう。

でも、これも結局は感情論なのです。
人との対話となったとき、こうした会話は成立するのでしょうか?

坂東氏の行動に対する自分の意見ははっきりしています。
でも、人と人との対話の中で何かを見つけたいと思うとき、自分のどんな意見表明がその糸口となるのか、わからない気持ちがしています。

ペルー料理はおいしいよ!

2006-08-21 23:49:40 | 食べ物、飲み物
ペルー食材購入!

会社の仲間達とペルー料理を食べに行ったら、みんな気に入ってくれて、
通販サイトで共同購入と相成ったのでした。

「ペルー料理」というと、多くの人が最初は
「えっ?どんなもの食べさせられることやら・・・」
って怪訝な顔をするのだけど、食材の種類も多く、調理法も豊かでおいしいんですよー。
わたしは高校生のときペルーに留学していたのですが、1年間毎日食べても全然飽きることはなかったです。日本食も恋しくなるヒマなかった!

今回買ったのは・・・
奥の箱が「ポン・デ・ケージョ」の粉。
これだけブラジル料理だけど、母が日本語を教えているブラジル人に作ってもらって以来すっかり気に入って、「作ってみたい!」と言っていたので購入。
わが家にはオーブンがないし、実家に持っていって「やってみたら?」といってそそのかし、お相伴に預かることにしましょう。

左の袋は「オジュキート」。どうやらフリーズドライらしい。
実は、わたしはこれを「ジュカ」という芋と間違えて買ってしまったので、どんなものだか良く分からないのです。
肉と一緒に炒め煮にするようなので、挑戦してみることにします。
ちなみに、わたしのホストマザーはよくわたしの名前「じゅんこ」を間違えて、「オジュキート」と呼んでいました。(^_^.)

右の袋は、「アヒ・デ・ガジーナ」という鶏肉料理のソースを粉にしたものです。
鶏肉を茹でて細かく裂き、このソースの中で少々煮込んだらできあがり。
ご飯に添えて食べます。
インスタントで簡単なので、今週中に1回は作って食べる予定です。

そして、真ん中の瓶が本日の真打!
「アヒ・アマリーヨ」という、ペルーの黄色い唐辛子をペーストにしたものです。
ペルーには「パパ・ア・ラ・ウワンカイーナ」というジャガイモ料理があって、この前ペルーレストランに行ったときにもみんなでそれを頼みました。
わたしの大好物なんですが、みんな気に入ってくれて、「あのソースを買いたい!」ということで、今回の共同購入が決まったようなものです。
本当は、みんなでこの料理のインスタントなソース(粉)を頼んだのですが、残念なことに売り切れ。
そんな訳で、本当だったらインスタントソースをミルクで溶くだけで食べられる目論見だった「パパ・ア・ラ・ウワンカイーナ」は、このペーストを使って一から自分で作ることになってしまいました。

レシピを探していたら、とってもおいしそうな写真と共に載せている、日本在住のペルー人の方のBLOGを見つけました。
この方のレシピで、週末チャレンジしてみようと思います!
日系ペルー
わたしがインスタント袋を買った、「アヒ・デ・ガジーナ」の写真も載ってますよ~!

「宇宙エレベーター」読了

2006-08-20 23:11:47 | 読書
トルコ人初の宇宙飛行士候補であるアニリール・セルカン氏の著作、「宇宙エレベーター」(大和書房)を読みました。
「友達の元カレが書いた本なんだけど・・・」といって貸してもらった本なので、さほどの期待なく・・・というより、「ちょっと怪しい?」などと思いながら読み始めたのですが、良いほうに期待を裏切ってくれる一冊で、一気に読了。

本の帯に、分かりやすく著者と本の内容がまとめられていますので紹介します。

ATA宇宙エレベーターの考案者としてNASAをはじめ各国の宇宙開発に参加する、トルコ人初の宇宙飛行士候補アニリール・セルカン。ケンブリッジ大学物理賞、アメリカ名誉勲章など数々の栄誉に輝く著者が贈る、21世紀のガリバー旅行記。

本書の中では、宇宙、次元、原子などの科学的な問題に触れながらも難しい内容ではなく、興味を呼び起こすような例えや自身の子どものころの体験談を紹介していきます。
自然エネルギーだけを利用するサッカースタジアムの模型を、たった一人で作って科学コンテストに臨んだ9歳のときのチャレンジ。
仲間達とともに、タイムマシン作成に挑んだ15歳のときの試行錯誤。
そして、科学の発展と神話や聖書の世界にまで想像力の羽を伸ばし、なんとシュメール語の石盤までご自身で調べ、訳しています。

想像すること、創造すること、自由な発想を持ち、行動に移すこと、そして可能性を信じることの大きな力を教えてもらえる、すばらしい本でした。
帯に「21世紀のガリバー旅行記」とあるように、この人の人生は創造の旅です。
そして、ガリバー旅行記と同じく、こどもにも大人にも大きな夢と冒険心を与える本として、お勧めしたい一冊。
多分、この本は将来のセルカンたちへの贈り物として書かれたような気がします。

書店で手に取っている人を見かけたら、「ぜひ読んでみて!」と声をかけてしまいそう。
お借りした本ですが、身近に置いておきたい一冊として購入しようと思っています。

風呂掃除は危険がいっぱい

2006-08-17 21:55:10 | できごと
久しぶりに腰の状態が悪くなり、痛みが強くなってきたので、普段は週に一度通っている整骨院に続けて出かけました。
夫が先週の金曜日にはじめてのぎっくり腰になり、暖めた方がいいかな、と風呂掃除をした時に痛めたみたいなんです。
お風呂の掃除は腰が痛くなるんだよなーと分かってはいるんですが、始めてしまうとついつい中腰のまま力を入れて洗ったり、へんな体勢で手を動かしたりしてしまうので、腰には良くないのです。

そんな話をしながら整骨院でマッサージを受けていると、
「お風呂は危険だからねー。ぎっくり腰になったり、肋骨折ったりする人がいっぱいいますよ」
と、整骨院の先生(といっても、従兄弟なのですが)。
「え?!肋骨って、どういうこと?」
と聞くと、浴槽の外から中を洗うのは危ないそうなんです。

浴槽のふちにお腹のところが差し掛かるような体勢で、身体を伸ばして外から浴槽の中を洗っているとき、何かの調子で足を滑らせたりすると、全体重が浴槽のふちにのった肋骨に集中し、簡単に折れてしまうそうです。
体重が軽い人でも、40キロからの力が一気に細い肋骨にかかるのですから、こういう事故が多いとのこと。
わたしもよく、そんな洗い方をしているので、今度から気をつけよう・・・。

それに、わたしの場合爪が薄いのか、夢中で洗っているうちに爪が裏返ることがあるのです。
激痛です。
裏返った折り目のところは爪に白い線が残り、その下の皮膚が真っ赤になって後からもズキズキ痛みます。
これからは、手袋もしたほうがいいかもしれません。

ところで、鍼を初体験したのですが気持ちいいですね。
外から押したのでは絶対に得られない、ずどんと来る痛みが心地いいです。
病み付きになりそう。
普段の電気治療、ローラーベッド、マッサージに鍼を加えて600円なり。
保険制度ってすばらしい。

無農薬、無肥料のりんごジュース

2006-08-15 21:54:02 | 食べ物、飲み物
環境gooのときのお仲間に、誕生日プレゼントとして“奇跡のりんごジュース”を頂いちゃいました!

青森で、肥料・農薬・堆肥などを一切使わずにりんごを育てている木村秋則さんのりんごジュース。
環境goo時代、わたしは「スローライフ談話室」という掲載コンテンツのイベントで、初めて木村さんのりんごに出会いました。
そして、フランス料理シェフ山崎隆さんの作った「りんごスープ」の味、そしてそのりんごを育てた木村さんのお人柄にすっかりノックアウトされてしまったのです。

木村さんは、通常十数回行われるというりんごへの農薬散布を一切行わない農法を、たった一人で何年もかけて生み出してきた方です。
初めはまったくの手探りで、何年もの間収穫はなく、アルバイトで生活費を稼ぎながら独自の工夫を重ねたそうです。
「とにかくりんごのことで精一杯で、歯を治すヒマもお金もなかったんですよ」と言って二カッと笑う笑顔が最高に素敵でした。

イベントで味わったりんごスープは、じわっと酸っぱくて最後にさっと甘みが残り、すっきりとしたりんごの味がしました。
今度頂いたりんごジュースは、ふんわりしてやわらかい甘みのまーるい味。

知らずに飲んだ夫は無添加のラベルを見て、
「これ、甘いねー。本当になんにも加えてないのかな?」
との感想を漏らしたほどのりんごの甘みなんですよ。
でも、あとにはいい香りだけが残って口の中にはべたべたした甘みはなんにも残らない。溶けるようなりんごジュースです。

1リットル入りを3本、木曜日の夜に受け取って、残りはや1本。
大切に飲みます!




ダイアログ・イン・ザ・ダークに行ってきました

2006-08-10 23:41:08 | できごと
「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」に行ってきました。
「暗闇の中の対話」というタイトルどおり、まっくらな中を歩く体験をするワークショップ形式の展覧会です。

わたしたちのグループは、一緒に参加した友人2人とここで初めて出合った5人の計8人。
入り口の薄暗い空間で白い杖を渡され、この暗闇の案内人「セトセット」さんの先導で、いざ、暗闇の世界に踏み出しました。
緊張と期待が高まります。
一歩中へ踏み込むと、そこはわたしが今まで一度も体験したことのない、本当の暗闇でした。1cm先に手をかざしてもなーんにも見えない、何分いても目が慣れることのない闇の世界なのです。
自分がどこからどこまで広がっているのかわからなくなるような感覚でした。
白い杖で一歩先を探るのですが、探った先と自分の足の位置関係もよくわかりません。
そろり、そろりと最初の探索が始まりました。

会場の中には、森や牧場などなど、さまざまな場面が用意されています。
案内人のセトセットは、わたしたち8人を道順どおりに案内してくれるだけでなく、
「地面はどうなっていると思いますか?」
「手で触ってみてください」
「どんな音がしていますか?ここはどんな場所だと思う?」
「まだ皆さんが見つけていないアイテムがありますよ。探してみて」
などと、わたしたちの体験がより豊かなものになるようにガイドしてくれます。
たった今まですぐ隣から声が聞こえていたかと思えば、次の瞬間には意外な方向からセトセットの声がするのが驚きでした。

暗闇の最初の衝撃が過ぎ、おぼつかなかった白杖の感覚が頼もしい手がかりに感じられるようになって来る頃、いつの間にか8人みんなが「あ、ここに池がありますよ!」「階段、一段目下りました」「匂いが変った!」と大声で話すようになっていました。
声のする方向で、遠近感や高低差、向きなど本当に色々な情報が伝わるのですね。
みんなの声で、自分がちゃんとみんなと一緒に行動しているのだとわかり、誰かが新しく見つけたものを分かち合うことができることが、本当に頼もしく感じました。

暗闇の中では、聴覚はもちろんのこと、嗅覚、そして皮膚感覚を含めた触覚もフル動因されることも実感できました。
会場の場面が変る一瞬前に、匂いや空気が変わります。
白い杖て触れる地面が、足が進む一歩手前で道の状況を伝えてくれます。
会場の中では、味覚を使う体験も用意されています。
暗闇の中で飲んだビール、おいしかった!
どの感覚も、普段以上に強く敏感に感じ取ることができ、まさに最高の体験でした。

途中、バス停とベンチがありました。
それまで、森や田んぼなど自然の環境の中を歩いてきましたが、突然日常のものが現れたのです。
そのとき、私は突然「ああ、視覚というのは予知能力なんだな」と実感しました。
視覚を使えば、遠くから見てもそこにバス停があり、ベンチがあることをあらかじめ知ることができます。
でも、見えない世界ではバス停は気づかなければバス停ではなく、ベンチはぶつかっただけでは柵なのか障害物なのか分からないのです。
座面まで触って初めて、それがベンチだと分かりました。
視覚障害者は、きっとわたしがこのツアーで体験したときの何倍もの視覚以外の感覚を研ぎ澄ませてまわりの情報を収集し、予知につなげているのでしょう。
でも、わたしたちは視覚障害者が行動しにくい社会を知らぬ間に作っているのかもしれない。

例えば、見えない世界では突発的な行動が危ないというのを、今回初めて実感したのです。
いつものとおり、思い立った時に振り向いたり、向きを変えたり、しゃがんだりして、わたしは何度か他の人にぶつかってしまいました。
それで、自然に「いまから私は後ろにさがりますね」「しゃがみますよ」などと声を出すようになっていたのでした。

光のない世界の旅は、約1時間でおしまい。
セトセットが「光のある世界に戻ります」と言った時、「ああ、もっと歩きたかったのに」と残念な気持ちがしたほど、あっという間の1時間でした。
明るいところに出たとき、セトセットがこう言いました。
「さあ、わたしのガイドはここでおしまいです。光のある世界では、こんどは皆さんが僕をガイドしてください」
わたしは、この言葉を象徴的な思いで聞きました。
光があるかないかは、目の見えるわたしたち参加者にとっての違いであって、暗闇で自由に動き回っていたセトセットにとっては、勝手知ったるこの会場の光のある場所でも行動するにはなんの違いもないはずです。
先ほど、ベンチのところで感じたことが、また蘇ってきました。

この「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」、9/12まで開催されているので、ぜひ参加をおすすめします。本当にいい体験ができますよ!
ツアーの最中はとにかく盛りだくさんで「楽しい!」の一言。
わたしは、期間中にもう一度行ってみたいな、と思っています。