マカリオイ ホイ プトーコイ トーイ プネウマティ
ギリシア語で書かれた新約聖書の「山上の垂訓」は、
この言葉で始まっています。
日本聖書協会『新約聖書』では、
「こころの貧しい人たちは、さいわいである」と訳されています。
よく考えられた訳だと思います。
それでいいのだと思います。
ただ さらに解釈が必要な訳ではあります。
ギリシア語を直訳すると、
「幸いである(マカリオイ)、
プネウマにおいて(トーイ プネウマティ=ト プネウマの与格)
貧しい人たちは(ホイ プトーコイ)。」
そこでプネウマを辞書で引くと大体「霊」という意味が最初に来ますが、
もともとは「風」とか「息」という意味です。
そしてこの「息」は「命の息」でもあります。
「命の息の貧しい人たち」とは、
病いや老い あるいは貧困で 生きる力が乏しくなっている、
そういう人々のことではないでしょうか。
天国はかれらのものなのだ、
とイエスは語り続けます。
ギリシア語で書かれた新約聖書の「山上の垂訓」は、
この言葉で始まっています。
日本聖書協会『新約聖書』では、
「こころの貧しい人たちは、さいわいである」と訳されています。
よく考えられた訳だと思います。
それでいいのだと思います。
ただ さらに解釈が必要な訳ではあります。
ギリシア語を直訳すると、
「幸いである(マカリオイ)、
プネウマにおいて(トーイ プネウマティ=ト プネウマの与格)
貧しい人たちは(ホイ プトーコイ)。」
そこでプネウマを辞書で引くと大体「霊」という意味が最初に来ますが、
もともとは「風」とか「息」という意味です。
そしてこの「息」は「命の息」でもあります。
「命の息の貧しい人たち」とは、
病いや老い あるいは貧困で 生きる力が乏しくなっている、
そういう人々のことではないでしょうか。
天国はかれらのものなのだ、
とイエスは語り続けます。