ついでといってはなんだが。 「彼女」 のことについて語ろうか。
彼女と出会ったとき、彼女はすでに、わたしには理解できない、ある 「コミュニティ」 に属していた。 あまりにも無知だったわたしは、その 「コミュニティ」 のことをまったく知らなかったのだが。
いつも、人と会っているか、電話をしているか、携帯電話メールの読み書きをしている彼女は、電話番号登録のメモリが足りない、と、こぼしていた。
わたしが、何件までメモリ登録できるのか、とたずねると、彼女は、「五百件」 とこたえた。
五百人もの 「友だち」 がいる彼女には、いろいろなところに連れて行ってもらった。
いわゆる celebrity とでもいうのか、有名人・著名人が集うお店。
雑誌やテレビなどで紹介されるような人気の場所。
わたしひとりでは、決して足を踏み入れることができないような豪華なパーティ。
彼女を介さなければ、ぜったいに相まみえることもないであろう人とも出会った。
彼女の 「友だち」 の乗る、イタリア製の車にも乗せてもらった。
さいしょはたのしかった。
正直にいうと、いろいろな体験をさせてもらえることに魅力を感じていたのも事実だが、それにもまして、いつも明るくて、人生に対して前向きな考え方をもつ彼女が好きだった。
けれど、徐々に徐々に、なにかがおかしい、と思うことがあらわれはじめ、彼女の属している 「コミュニティ」 の存在とその実態を知り、衝撃を受けた。
彼女の言う 「友だち」 は、ぜんぜん、友だちなどではないじゃないか、と。
或る雨のふる夜、彼女から飲みに行こうと誘われ、近所のバーでおち合った。
いったい、急になんだろう。 あの 「コミュニティ」 に関わることだろうか、と不安になった。
けれども、いつもどおりに彼女が、おかしな話をとめどもなくつづけていたのでほっとしていたのだが、わたしがふたりに共通の知人の名まえを口にした途端、表情をこわばらせたかと思うと、堰を切ったかのように、とつぜん泣き出した。
声を殺して。 肩をふるわせながら。
そのとき、わたしは、 「その人」 と彼女とのあいだになにかあったのだ、ということを悟った。 おそらく、彼女にとって、なにかのぞましくないできごとが。 そして、勝手な想像だが、彼女があの 「コミュニティ」 にたずさわっていることが大きく関係しているのではないか、と。
わたしは、だまってハンカチを差し出した。 お気に入りの、Vivienne Westwood.
五百人もの 「友だち」 がいる彼女が、まだ、出会って数ヶ月しか経っていないわたし ―― メモリ登録がその半分もないような ―― の目の前で、小さな子どものように泣いているさまを、わたしは、ただ、じっと見守っていた。
その数日後に会ったときの彼女は、いつもどおりの彼女だった。
いろいろな苦悩をかかえているのだな、と思った。 そして、その苦しみをうちあけられる 「ほんとうの友人」 がいないのだな。 と。
そのときから、わたしは、彼女の 「友だち」 になった。
いまでも友だちである。
もっとも、あの 「コミュニティ」 の 「あれ」 は、もう購入してあげることはしなくなったけれど。
なかには、わたしがいまだに彼女と交遊しているのを訝る(いぶかる)人もいるが。
「○○の人と付き合ってると、** ちゃんも、周りから変な目で見られるかもよ」 なんてね。
なんとまあ、ありがたいことばだ。 涙が出てくらあね。
太宰 治の 『人間失格』 の挿話を思い出す。
なんどもなんども失敗を重ねる主人公に対し、学友だった男が、「これ以上は、世間が、ゆるさないからな」 と言う。 主人公は、世間とはいったいなんのことか、と考え、ふいに 「世間というのは、君じゃないか」 ということばが舌先まで出かかる ... という部分。
わたしも、変な目で見るのは、「周り」 ではなく、あなたでしょう? と言いかけたが、『人間失格』 の主人公のように、そのことばをのみ込んで、「そうかなあ」 なんて言って、わらってごまかした。
まあ。 「忠告」 ももっともだ、という気もする。
けれども、ほかの多くの人と同じように、わたしまで彼女から離れてしまったら、彼女がなにかのきっかけで目を覚まし、あの 「コミュニティ」 から脱出しようとするとき、いったいだれが、「こちらがわ」 から手を差し伸べてあげることができるのだろうか?
... なんて言ったら、かっこつけすぎかしら?
BGM:
The Kinks ‘Living on a Thin Line’
Leon Russell ‘Tight Rope’
彼女と出会ったとき、彼女はすでに、わたしには理解できない、ある 「コミュニティ」 に属していた。 あまりにも無知だったわたしは、その 「コミュニティ」 のことをまったく知らなかったのだが。
いつも、人と会っているか、電話をしているか、携帯電話メールの読み書きをしている彼女は、電話番号登録のメモリが足りない、と、こぼしていた。
わたしが、何件までメモリ登録できるのか、とたずねると、彼女は、「五百件」 とこたえた。
五百人もの 「友だち」 がいる彼女には、いろいろなところに連れて行ってもらった。
いわゆる celebrity とでもいうのか、有名人・著名人が集うお店。
雑誌やテレビなどで紹介されるような人気の場所。
わたしひとりでは、決して足を踏み入れることができないような豪華なパーティ。
彼女を介さなければ、ぜったいに相まみえることもないであろう人とも出会った。
彼女の 「友だち」 の乗る、イタリア製の車にも乗せてもらった。
さいしょはたのしかった。
正直にいうと、いろいろな体験をさせてもらえることに魅力を感じていたのも事実だが、それにもまして、いつも明るくて、人生に対して前向きな考え方をもつ彼女が好きだった。
けれど、徐々に徐々に、なにかがおかしい、と思うことがあらわれはじめ、彼女の属している 「コミュニティ」 の存在とその実態を知り、衝撃を受けた。
彼女の言う 「友だち」 は、ぜんぜん、友だちなどではないじゃないか、と。
或る雨のふる夜、彼女から飲みに行こうと誘われ、近所のバーでおち合った。
いったい、急になんだろう。 あの 「コミュニティ」 に関わることだろうか、と不安になった。
けれども、いつもどおりに彼女が、おかしな話をとめどもなくつづけていたのでほっとしていたのだが、わたしがふたりに共通の知人の名まえを口にした途端、表情をこわばらせたかと思うと、堰を切ったかのように、とつぜん泣き出した。
声を殺して。 肩をふるわせながら。
そのとき、わたしは、 「その人」 と彼女とのあいだになにかあったのだ、ということを悟った。 おそらく、彼女にとって、なにかのぞましくないできごとが。 そして、勝手な想像だが、彼女があの 「コミュニティ」 にたずさわっていることが大きく関係しているのではないか、と。
わたしは、だまってハンカチを差し出した。 お気に入りの、Vivienne Westwood.
五百人もの 「友だち」 がいる彼女が、まだ、出会って数ヶ月しか経っていないわたし ―― メモリ登録がその半分もないような ―― の目の前で、小さな子どものように泣いているさまを、わたしは、ただ、じっと見守っていた。
その数日後に会ったときの彼女は、いつもどおりの彼女だった。
いろいろな苦悩をかかえているのだな、と思った。 そして、その苦しみをうちあけられる 「ほんとうの友人」 がいないのだな。 と。
そのときから、わたしは、彼女の 「友だち」 になった。
いまでも友だちである。
もっとも、あの 「コミュニティ」 の 「あれ」 は、もう購入してあげることはしなくなったけれど。
なかには、わたしがいまだに彼女と交遊しているのを訝る(いぶかる)人もいるが。
「○○の人と付き合ってると、** ちゃんも、周りから変な目で見られるかもよ」 なんてね。
なんとまあ、ありがたいことばだ。 涙が出てくらあね。
太宰 治の 『人間失格』 の挿話を思い出す。
なんどもなんども失敗を重ねる主人公に対し、学友だった男が、「これ以上は、世間が、ゆるさないからな」 と言う。 主人公は、世間とはいったいなんのことか、と考え、ふいに 「世間というのは、君じゃないか」 ということばが舌先まで出かかる ... という部分。
(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)
わたしも、変な目で見るのは、「周り」 ではなく、あなたでしょう? と言いかけたが、『人間失格』 の主人公のように、そのことばをのみ込んで、「そうかなあ」 なんて言って、わらってごまかした。
まあ。 「忠告」 ももっともだ、という気もする。
けれども、ほかの多くの人と同じように、わたしまで彼女から離れてしまったら、彼女がなにかのきっかけで目を覚まし、あの 「コミュニティ」 から脱出しようとするとき、いったいだれが、「こちらがわ」 から手を差し伸べてあげることができるのだろうか?
... なんて言ったら、かっこつけすぎかしら?
BGM:
The Kinks ‘Living on a Thin Line’
Leon Russell ‘Tight Rope’
太宰治の引用部分、すごく、キた…(;_;)
わたしも、その部分を書きながら、クッとキて、泣きそうになってしまいました ...
(PC のディスプレイに向かい、カタカタカタカタ入力しながら、涙ぐむ女 ... あやしすぎますよね ... )
ほんとうはじぶんのことばで書けたらいいのですが、才能がないので、天才のことばを引用してしまいました。
いつかじぶんのことばだけで、満足のいく記事を書き上げられたらいいのですが ...
太宰が出てなくても。
しかし、この引用部は、命を捨てている人の言葉だと、今、感じました。
いえいえ、やはりあの引用が、この記事を最大のやまではないか、と思います。
(そんなたいしたものではないと思いますが ... )
あれがなかったら、なにを伝えたいのかわからなかったかもしれません。
やはり太宰治は天才ですね。
この記事は、かなりやけっぱちで書きました。
個人的には、太宰治の作品にも、「やけっぱち」なところ、というか、「やけっぱち」な主人公の苦悩や苦闘、悲哀、ペーソスなどがにじみ出ているように感じることがあります。そこにひかれるのかもしれません。
また、この記事、先に本文を書き、タイトルはあとで考えました。
綱渡り人生のような意味を出したくて、なんとなく「タイトロープ」としました。
これに共感される方がいらっしゃるというのはおどろきますが、似たような危機感をいだいているということでしょうか ... ?
雲雀さんほど切実じゃないんですが。
(詮索するようなことを書いてしまって、失礼いたしました ... )