最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

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2011-05-14 10:08:55 | 日記

自己嫌悪

 ある母親から、こんなメールが届いた。「中学二年生になる娘が、いつも自分をいやだとか、嫌いだとか言います。母親として、どう接したらよいでしょうか」と。神奈川県に住む、Dさんからのものだった。

 自我意識の否定を、自己嫌悪という。自己矛盾、劣等感、自己否定、自信喪失、挫折感、絶望感、不安心理など。そういうものが、複雑にからみ、総合されて、自己嫌悪につながる。青春期には、よく見られる現象である。

 しかしこういった現象が、一過性のものであり、また現れては消えるというような、反復性があるものであれば、(それはだれにでもある現象という意味で)、それほど、心配しなくてもよい。が、その程度を超えて、心身症もしくは気うつ症としての症状を見せるときは、かなり警戒したほうがよい。はげしい自己嫌悪が自己否定につながるケースも、ないとは言えない。さらにその状態に、虚脱感、空疎感、無力感が加わると、自殺ということにもなりかねない。とくに、それが原因で、子どもがうつ状態になったら、「うつ症」に応じた対処をする。

 一般には、自己嫌悪におちいると、人は、その状態から抜けでようと、さまざまなな心理的葛藤を繰りかえすようになる。ふつうは(「ふつう」という言い方は適切ではないかもしれないが……)、自己鍛錬や努力によって、そういう自分を克服しようとする。これを心理学では、「昇華」という。つまりは自分を高め、その結果として、不愉快な状態を克服しようとする。

 が、それもままならないことがある。そういうとき子どもは、ものごとから逃避的になったら、あるいは回避したり、さらには、自分自身を別の世界に隔離したりするようになる。そして結果として、自分にとって居心地のよい世界を、自らつくろうとする。よくあるのは、暴力的、攻撃的になること。自分の周囲に、物理的に優位な立場をつくるケース。たとえば暴走族の集団非行などがある。

 だからたとえば暴走行為を繰りかえす子どもに向かって、「みんなの迷惑になる」「嫌われる」などと説得しても、意味がない。彼らにしてみれば、「嫌われること」が、自分自身を守るための、ステータスになっている。また嫌われることから生まれる不快感など、自己嫌悪(否定)から受ける苦痛とくらべれば、何でもない。

 問題は、自己嫌悪におちいった子どもに、どう対処するかだが、それは程度による。「私は自分がいや」と、軽口程度に言うケースもあれば、落ちこみがひどく、うつ病的になるケースもある。印象に残っている中学生に、Bさん(中三女子)がいた。

 Bさんは、もともとがんばり屋の子どもだった。それで夏休みに入るころから、一日、五、六時間の勉強をするようになった。が、ここで家庭問題。父親に愛人がいたのがわかり、別居、離婚の騒動になってしまった。Bさんは、進学塾の夏期講習に通ったが、これも裏目に出てしまった。それまで自分がつくってきた学習リズムが、大きく乱れてしまった。が、何とか、Bさんは、それなりに勉強したが、結果は、よくなかった。夏休み明けの模擬テストでは、それまでのテストの中でも、最悪の結果となってしまった。

 Bさんに無気力症状が現れたのは、その直後からだった。話しかければそのときは、柔和な表情をしてみせたが、まったくの上の空。教室にきても、ただぼんやりと空をみつめているだけ。あとはため息ばかり。このタイプの子どもには、「がんばれ」式の励ましや、「こんなことでは○○高校に入れない」式の、脅しは禁物。それは常識だが、Bさんの母親には、その常識がなかった。くる日もくる日も、Bさんを、あれこれ責めた。そしてそれがますますBさんを、絶壁へと追いこんだ。

 やがて冬がくるころになると、Bさんは、何も言わなくなってしまった。それまでは、「私は、ダメだ」とか、「勉強がおもしろくない」とか言っていたが、それも口にしなくなってしまった。「高校へ入って、何かしたいことがないのか。高校では、自分のしたいことをしればいい」と、私が言っても、「何もない」「何もしたくない」と。そしてそのころ、両親は、離婚した。

 このBさんのケースでは、自己嫌悪は、気うつ症による症状の一つということになる。言いかえると、自己嫌悪にはじまる、自己矛盾、劣等感、自己否定、自信喪失、挫折感、絶望感、不安心理などの一連の心理状態は、気うつ症の初期症状、もしくは気うつ症による症状そのものということになる。あるいは、気うつ症に準じて考える。

 軽いばあいなら、休息と息抜き。家庭の中で、だれにも干渉されない時間と場所を用意する。しかし重いばあいなら、それなりの覚悟をする。「覚悟」というのは、安易になおそうと考えないことをいう。

心の問題は、外から見えないだけに、親は安易に考える傾向がある。が、そんな簡単な問題ではない。症状も、一進一退を繰りかえしながら、一年単位の時間的スパンで、推移する。ふつうは(これも適切ではないかもしれないが……)、こうした心の問題については、①今の状態を、今より悪くしないことだけを考えて対処する。②今の状態が最悪ではなく、さらに二番底、三番底があることを警戒する。そしてここにも書いたように、③一年単位で様子をみる。「去年の今ごろと比べて……」というような考え方をするとよい。つまりそのときどきの症状に応じて、親は一喜一憂してはいけない。

 また自己嫌悪のはげしい子どもは、自我の発達が未熟な分だけ、依存性が強いとみる。満たされない自己意識が、自分を嫌悪するという方向に向けられる。たとえば鉄棒にせよ、みなはスイスイとできるのに、自分は、いくら練習してもできないというようなときである。本来なら、さらに練習を重ねて、失敗を克服するが、そこへ身体的限界、精神的限界が加わり、それも思うようにできない。さらにみなに、笑われた。バカにされたという「嫌子(けんし)」(自分をマイナス方向にひっぱる要素)が、その子どもをして、自己嫌悪に陥れる。

 以上のように自己嫌悪の中身は、複雑で、またその程度によっても、対処法は決して一様ではない。原因をさぐりながら、その原因に応じた対処法をする。一般論からすれば、「子どもを前向きにほめる(プラスのストロークをかける)」という方法が好ましいが、中学二年生という年齢は、第二反抗期に入っていて、かつ自己意識が完成する時期でもある。見えすいた励ましなどは、かえって逆効果となりやすい。たとえば学習面でつまずいている子どもに向かって、「勉強なんて大切ではないよ。好きなことをすればいいのよ」と言っても、本人はそれに納得しない。

 こうしたケースで、親がせいぜいできることと言えば、子どもに、絶対的な安心を得られる家庭環境を用意することでしかない。そして何があっても、あとは、「許して忘れる」。その度量の深さの追求でしかない。こういうタイプの子どもには、一芸論(何か得意な一芸をもたせる)、環境の変化(思い切って転校を考える)などが有効である。で、これは最悪のケースで、めったにないことだが、はげしい自己嫌悪から、自暴自棄的な行動を繰りかえすようになり、「死」を口にするようになったら、かなり警戒したほうがよい。とくに身辺や近辺で、自殺者が出たようなときには、警戒する。

 しかし本当の原因は、母親自身の育児姿勢にあったとみる。母親が、子どもが乳幼児のころ、どこかで心配先行型、不安先行型の子育てをし、子どもに対して押しつけがましく接したことなど。否定的な態度、拒否的な態度もあったかもしれない。子どもの成長を喜ぶというよりは、「こんなことでは!」式のおどしも、日常化していたのかもしれない。神奈川県のDさんがそうであるとは断言できないが、一方で、そういうことをも考える。えてしてほとんどの親は、子どもに何か問題があると、自分の問題は棚にあげて、「子どもをなおそう」とする。しかしこういう姿勢がつづく限り、子どもは、心を開かない。親がいくらプラスのストロークをかけても、それがムダになってしまう。

 ずいぶんときびしいことを書いたが、一つの参考意見として、考えてみてほしい。なお、繰りかえすが、全体としては、自己嫌悪は、多かれ少なかれ、思春期のこの時期の子どもに、広く見られる症状であって、決して珍しいものではない。ひょっとしたらあなた自身も、どこかで経験しているはずである。もしどうしても子どもの心がつかめなかったら、子どもには、こう言ってみるとよい。「実はね、お母さんも、あなたの年齢のときにね……」と。こうしたやさしい語りかけ(自己開示)が、子どもの心を開く。

++++++++++++++++

 たった今、MT氏に、これだけの回答を、メールで送った。時間にすれば、(返信)(コピー)(送信)で、一〇秒足らずでできたのでは……。改めて、インターネットのすごさに驚く。昔なら、つまりこんなことを手紙などでしていたら、数日はかかったかもしれない。
(031014)

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【4】フォーラム∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

孫論

 孫の世話が、かくも大変とは、思ってもみなかった。まさに一瞬たりとも、気が抜けない。自分の子なら、まだ無責任になれる。しかし孫だと、そうはいかない。今日も、息子夫婦は、孫を私たちに預け、買い物に出かけた。

 「孫はかわいい」と、世間一般の人は言う。たしかに「かわいい」。しかし「かわいいはず」と押しつけられるのも、困る。どうして、こんなにも、疲れるのか。

 そこで私は、なぜそうなのかを、考えた。

 理由の第一。生活のリズムが、完全に狂う。若いときならともかくも、四〇歳、五〇歳ともなると、自分の生活のリズムができてくる。たとえば私のばあい、朝五時ごろ起きて、原稿を書く。七~八時ごろ、朝食をとって、それから一、二時間、眠る。あるいは昼過ぎに、仮眠をとることもある。

 そういったリズムが、完全に狂う。おかげで、この一〇日間、生活のリズムは、狂いぱなし。これがどうやら、疲れる原因らしい。

 つぎに、若い人たちは、自分のリズムで、子育てを考える。そしてその延長線上で、「孫」を、勝手に位置づけてしまう。「おじいちゃん、おばあちゃんなら、孫の世話をしていれば、幸福のはず」「孫の世話なら、喜んでするはず」と。

それは、祖父母の立場で、たとえて言うなら、夕食に、ピザを押しつけられたような感じ。お茶漬けを食べたいと思っていたら、食卓にピザが並んだ! さあ、あなたなら、どうする?

 「おいしい」「おいしい」と笑いながら、ピザを食べるか? それとも自分たちだけ、お茶漬けを食べるか?

 ……というようなグチを言っても始まらない。しかし、おかしなものだ。自分の子どもを育てるときは、それほど重労働だとは、思わなかった。そういう点では、無我夢中だった。しかし孫の世話は、本当に、たいへん! 体力、気力の勝負。

ワイフは、こう言った。「やっと子育てから解放されたと思ったら、今度は、孫の世話。これじゃあ、体がいくつあっても、足りないわね」と。もっとも、ワイフのばあい、むしろそれを楽しんでいる様子?

 今、私は、自分の生活の中で、新しいドラマを展開しつつある。どんなドラマになるかわからないが、こうした苦労が、また別の新しい喜びを生み出す。それがわかっているから、私は、じっと、耐えるしかない。

 さあ、来い! 孫でも、何でも、来い!、と。

 この先、私は、どうなるか。それは私にも、わからない。どんなふうに考えるようになるかも、わからない。近所のMさん(六〇歳、女性)は、こう言った。

 「孫が遊びにくるのは、楽しみだが、一週間もいられると、ヘトヘトに疲れる。帰るとき、孫が、『おばあちゃん、また来るからね』と言う。私は、一応、『また、おいでね』と答えるが、本当のところ、もうたくさん」と。

 そのMさんの気持が、よくわかる。が、ひとつの参考にはなるが、私はMさんのようには思いたくない。ヘトヘトに疲れることの中から、新しい何かを見つけたい。しかし、それができるかどうか……? 私は、今、かつて経験したことのない、未知の世界にいる。(少し、大げさかな……。)このつづきは、また報告する。
(031012)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

無文化の国

 恐らく、アメリカ人自身は、そうは思っていないだろう。しかし日本人の私たちから見ると、それがよくわかる。

 アメリカ人の嫁さん(二五歳)を見ていると、日本人とは違う、何かを感ずる。その一つが、伝統や文化に対する考え方が、まったく違うということ。「違う」というより、そういうものを理解する素養が、まったく、ない?

 その嫁さんは、アメリカでも中南部の、牧場で育っている。昔見た、映画「ローハイド」の世界である。カウボーイが行きかう、「荒野の決闘」の世界である。あのあたりは広いだけで、何もない?

 逆の立場なら、日本の古い神社や寺を回りたいと思うが、そういうものには、興味を示さない。フラワーパーク(浜松の西にある、花園公園)や、動物園へは行く。大きなショッピングセンターにも行く。

 昨日も、ワイフが、「今度のパーティに着物を着たいの?」と聞くと、「ママ(=ワイフ)が、そうしてほしいなら、そうする」と。日本の着物(和服)にも、あまり興味を示さない?

 そこでワイフと、こんな会話をした。

 「アメリカ人には、文化や伝統を理解する、その素養すらないのでは?」と私。
 「それは感ずるわ……」と私。
 「あるいは、日本の文化や伝統は、文化や伝統ではないと思っているのかもしれない」
 「アメリカ式の合理主義かもしれないわね。すべてを合理的に考える」
 「それもある」と。

 もっとも、いろいろなアメリカ人がいる。数か月前、私の家にホームステイしたオーストラリア人夫妻は、時間を惜しんで、あちこちを回っていた。だから嫁さんだけを見て、「アメリカ人は……」と論ずるのは、危険なこと。それはわかっている。

 「だったら、日本のよさを、教えてあげなければならない」と私。
 「日本のよさって?」とワイフ。
 「どこかの寺に連れていき、そこで、静寂な心を楽しんでもらうとか……」
 「でも、押しつけであってはいけないわ」と。

 いろいろ気を使う。改めて言うが、日本人の嫁さんなら、こういう気を使うこともないのだが……。あああ。

 しかし反対に、日本の小さな祭を見たりすると、インディアンの儀式のように思うかもしれない。そういう気持も、何だかわかるような気がする。

 それにアメリカ人というのは、心の動きが、まったくストレート。日本人なら、相手に合わせて、自分をごまかしたりするが、そういう習慣そのものがない。それだけにわかりやすいと言えば、わかりやすい。しかしその分だけ、奥ゆかしさがない?

 先日も、「どこかで焼きそばを食べようか?」と声をかけると、「ノー。私は、焼きそばは、嫌いです」と。

 日本から送った、インスタントの焼きそばの印象が悪かったらしい。しかしそう、はっきりと断られると、返す言葉がなくなってしまう。日本人の嫁さんなら、こうまではっきりとは言わないだろうなと思いつつ、こちらも黙ってしまう。比較しては、いけないのだが、つい比較してしまう……。

 さてさて、本当に、いろいろある。毎日、頭の中で、バチバチと脳細胞が、ショートしている感じ。

 さて、今日は、結婚記念日とか。孫の誠司を預かってほしいとか。二人でどこかで食事をしたいとか。

 またまた、はやし浩司は、孫の世話でござ~る。
(031014)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

先祖思想

 少し前だが、抗議のメールをもらった。しかしこうした抗議は、もううんざり。その人(女性)は、こう言った。

 「ご先祖様を大切にするのは、日本人の心です。あなたは、どうしてそれを否定するのですか?」(埼玉県K市)と。

 私は、一度だって、先祖を否定したことはないのだが……?!

 しかしここで冷静に考えてみてほしい。

 仮にA家という「家」があったとする。そのA家は、代々つづく、名家だったとする。それはそれでかまわない。で、その家に、B家という家から、一人の女性が嫁いできたとする。問題は、このとき、起こる。

 A家の祖先は、もとからそこに住んでいた人にとっては、先祖かもしれない。が、その女性にとっては、先祖ではない。その女性にとっては、B家の祖先が先祖ということになる。

 が、その女性は、A家に嫁いできたとたん、A家の祖先を、自分の先祖と思わなければならない。そして夫の祖先を、「ご先祖様」「ご先祖様」と言わなければならない。

 ……となると、その女性の「人権」は、どうなるのか? あるいは女性というのは、ただの財産(家の付属物)に過ぎないのか。抗議をしてきた人が、男性なら、まだ話はわかる。そのときは、その人が女性だっただけに、たいへん気になった。

 話をもどす。つまりその女性は、A家に嫁いできたとたん、それまでの過去を断ち切られ、A家のモノとなる。事実、少し前まで、日本には、そういう風習が、まだ色濃く、残っていた。「嫁にくれてやる」「嫁をもらう」という言い方も、ごく一般的になされていた。

 昔は、女性は、「夫」と結婚するのではなく、その「家」と結婚した。「嫁」という漢字にしても、「家の女」と書く。

 私は、そういう風習はおかしいと言っている。それだけのことである。結果として、先祖思想を否定することになるかもしれないが、それは私の知ったことではない。

 結婚は、あくまでも一組の男女の合意と、納得の上でなされるもの。そこに「家」が介在する余地など、まったく、ない。いわんや、女性を、モノに考えてはいけない。またそういう思想を許してはならない。

 そのメールをもらったとき、即座に、そのメールは、削除した。こうした抗議は、反論するのも疲れる。しかしそれからしばらく時間が過ぎた。多分、その人は、もう私のことなど、忘れているだろう。だから、一応、こうして反論の記事を書いておくことにした。

 どうぞ、ご勝手に。私は私。あなたは、あなた。
(031012)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

基底不安

 乳幼児期に、母子との関係で、基本的信頼関係の構築に失敗した子どもは、そののち、「不安」を基底とした、生き方になってしまう。つまり、どこにいても、何をしていても、不安の影から逃れることができなくなる。こうした不安感を、「基底不安」という。

 この状態は、子育てをしていても、解放されることはない。「この子は、無事、おとなになれるのかしら?」と思ったとたん、言いようのない、不安が心をふさぐ。あとは、不安の連鎖。

 しかし問題は、この先。

 親が不安になるのはし方ないとしても、その不安を、子どもにぶつけてしまう人がいる。「こんなことでは、A中学に行けないわよ」「こんなことで、どうするの!」と。

 このタイプの親は、子どもの将来を心配しているようで、その実、自分の不安を子どもにぶつけているだけ。それはそれだが、しかしこの基底不安と戦うのは、容易ではない。「根」が深い分だけ、自分の意思では、どうにもならない。

 ただ、自分が、そういう人間であることに気がつくことにより、その不安を、自分の中だけで、とどめておくことができるようになる。不安になっても、「ああ、これは本当の私ではないぞ」と。

 どんな人にも、それぞれ心の問題がある。ない人は、いない。基底不安もその一つ。だから大切なことは、そういう心の問題を発見したら、それと戦って、どうこうしようとすることではなく、うまくつきあうこと。

 基底不安についても、それを感じたら、そのテーマから、逃げるとか。あるいは別のテーマに、自分の頭を切りかえるとか。

 私も、無数の、心の問題をかかえている。で、長い間の経験から、自分で自分がおかしいと感じたら、そのときは、穴の中に入ることにしている。

 その問題は考えない。結論を出さない。口を閉じて、静かにしている。行動をしない、など。それを私は、「穴の中に入る」と言っている。以前は、そういう自分がいやで、何とかしようと考えた。一時は、禅道場に通ったこともある。しかし根気がつづかなかった。

 で、結局、あきらめた。心の問題は、顔のキズと同じで、消そうと思っても、消えるものではない。そう結論を出すのは危険なことだが、私は、そう思った。そう思って、自分を納得させた。居なおった。

 総じてみれば、日本中の親たちが、その基底不安なのかもしれない。その基底不安の中で、子育てをしている。いや、日本の社会そのものが、基底不安の上にある? まさにどこを向いても、不安だらけ? そして皮肉なことに、その不安が、日本の原動力となった?

 私たちの年代の男たちは、働いていないと、落ちつかないという。休みになっても、考えるのは、仕事のことばかり。話が、ぐんと脱線した感じだが、基底不安というのは、そういうもの。さてさて、あなたはだいじょうぶ?
(031012)

Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。
12・11 ……入野小学校
11・18 ……三重県紀伊長島町(紀伊長島町PTA連絡協議会)
11・16 ……愛知県立田村・教育委員会
11・ 8 ……江西中学校区健全育成会(浅間小学校にて)
10・23 ……北浜東小学校区小中学校合同
10・23 ……奥山小学校
10・18 ……天竜中学校区健全育成会(天竜中、中ノ島小、和田東小、和田小合同)
詳しい講演日時は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page042.html
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
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自分でできる6分間心身症改善術 (心身症改善術)
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