部長ブログ@箕面市役所

箕面市役所の部長が、市のホットな話題を語ります!
市の動きや仕事紹介、副市長、教育委員会委員などのつぶやきも。

北急延伸 着々と工事が進む!

2017年07月18日 | 市政統括

こんにちは、政策総括監の柿谷武志です。

北大阪急行線延伸工事は、今年1月19日に開催した起工式後、本体工事に着手して約6ヶ月が経過し、目に見えて工事が進んできました。
現在、掘削工事等により新御堂筋(国道423号)の本線を4車線から3車線に減少しているため、日によって交通渋滞が発生し、通行の皆さまにご不便、ご迷惑をおかけしています。10月末には、本線を4車線に戻しますので、今しばらくのご理解とご協力をお願いします。

さて、今回は、北大阪急行線延伸工事の進捗状況と交通規制、北急延伸と周辺まちづくりに関する説明会などの最新情報をお知らせします。

 


 

 

●延伸線の概要
北大阪急行線延伸工事は、高架区間、地下区間(開削)、地下区間(シールド)の3つの区間に分けて実施しています。
高架区間と地下区間(開削)は箕面市が、地下区間(シールド)は北大阪急行電鉄(株)が実施主体です。

 

 


●平成29年度の工事進行イメージと現在の進捗状況
平成29年度における各工事区間の進行イメージは次のとおりです。引き続き大規模な工事が進みます。

 


【高架区間における現在の工事進捗】
高架区間の(仮称)新箕面駅付近では、工事用スペースの確保に向けて、地下埋設管の移設やバス停の移設を実施するなど工事用スペースの確保を進めるとともに、基礎杭を作る準備を進めています。

 

高架区間の線路部では、仮の河川に切り替えて、工事用スペースを確保しました。現在、基礎杭を作る準備を進めています。
また、一部区間で用地買収が必要となることから、土地所有者など権利者の方々にご協力をお願いしています。



高架区間の交通規制は、工事用スペースを確保するため、現在、国道423号(新御堂筋)南行き側道の一部区間では、仮歩道を設置するとともに、3車線から2車線減少させて車道は1車線となっています。通行の皆さまにご不便、ご迷惑をおかけしています。

 

 

【地下区間(開削)における現在の工事進捗】
地下区間の開削工法による地下駅等の築造では、土留め壁を作りながら土を掘っていくことになります。現在、ドリルのような形状をしたアースオーガーで地面に穴を開け、そこに鋼支柱を挿入して土留め壁を作るとともに、その上に鉄板を敷いて工事用スペースの確保を進めるとともに、土を掘る準備も進めています。

 

国道423号(新御堂筋)本線の交通規制は、現在、本線4車線のうち北行き2車線を1車線に減少し、本線3車線となっています。10月末には本線を4車線に戻しますので、今しばらくのご理解とご協力をお願いします。

 


国道423号(新御堂筋)側道の交通規制は、現在、南行き側道の一部区間で、仮歩道を設置するとともに、3車線から2車線減少させて車道は1車線となっています。通行の皆さまにご不便、ご迷惑をおかけしています。

 


【地下区間(シールド)における現在の工事進捗】
地下区間のシールド工法によるトンネル築造では、地上での工事は発生しませんが、トンネル内から地上に換気を行うための中間換気所を設置する必要があります。
現在、新千里東町1丁目交差点付近で中間換気所の設置工事を実施しています。
この工事による交通規制は、交差点付近の南行き側道で、仮歩道を設置するとともに、3車線から1車線減少させて車道は2車線となっています。通行の皆さまにご不便、ご迷惑をおかけしています。

 


シールド工法によるトンネル築造は、シールドマシンで(仮称)箕面船場駅から千里中央駅に向けて、モグラのように地下を掘り進むので、地上での工事は発生しません。シールド工事は平成30年度から平成31年度の実施を予定しています。

 


●説明会を開催しています
北急延伸と周辺まちづくりの取り組み状況を市民の皆さまに随時ご説明するため、毎年、「北大阪急行線延伸と周辺まちづくりに関する説明会」を市内各地で開催しています。
今年度も昨日(市民活動センター)から開催しています。

説明会は、毎回、1時間程度で、北急延伸工事に進捗状況と今後の予定、新駅周辺のまちづくりの検討状況などについて説明した後、質疑にお答えしました。
引き続き21日の金曜日まで毎日、市内各所で開催しますので、どうぞお気軽にご参加ください。

◆7月18日(火曜日)  午後7時30分~  総合保健福祉センター
◆7月19日(水曜日)  午後7時30分~  中央生涯学習センター
◆7月20日(木曜日)  午後7時30分~  とどろみの森学園
◆7月21日(金曜日)  午後7時30分~  東生涯学習センター

また、「出張説明会」も随時開催します。
10人程度以上の方に集まっていただければ、出張して説明させていただきます。
例えば、自治会の会合やサークルなどの集まりの後で説明するなど、ご都合に合わせて出張いたします。こちらもお気軽にご相談ください。

■お問い合わせ :地域創造部 鉄道延伸室 
                          電話番号 072-724-6907
                          ファクス   072-722-7655

 


●工事の広報
箕面市と北大阪急行電鉄(株)は、毎月「工事予定のお知らせ」を作成して、工事箇所周辺の掲示板などで、広報しています。
また、広域的な広報として、国道423号(新御堂筋)、国道171号、府道大阪中央環状線に横断幕や電光掲示板でお知らせするとともに、ラジオによる道路交通情報も実施しています。
なお、毎月の「工事予定のお知らせ」は、ホームページでもご覧いただけます。
※箕面市の施工区間(地下区間(開削)、高架区間)は、【こちら】をご覧ください。
※北大阪急行電鉄(株)の施工区間(地下区間(シールド))は、【こちら】をご覧ください。

 

 

●工事期間中、ご迷惑をおかけします
北急延伸工事は平成32(2020)年度の開業に向けて、平成30年度以降も次の工事進行イメージのとおり、大規模な工事が継続します。
また、交通広場、駐輪場など新駅周辺のまちづくりも、鉄道開業に合わせた開設に向けて、順次工事に着手することになります。

 


工事期間中、工事車両の通行や工事の騒音、振動、交通規制など、市民の皆さまにご不便、ご迷惑をおかけしますが、安全には十分配慮いたしますので、ご理解とご協力をお願いします。

 


 

 

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箕面のまちづくりと鉄道(3) ~昭和30~40年時代~

2017年06月23日 | 市政統括

こんにちは、政策総括監の柿谷武志です。

前回のブログでは、郊外住宅地としての環境に恵まれていた箕面が、観光地化から住宅地化へと軸足が移って行った大正時代から昭和時代前期(昭和31年市制施行まで)をご紹介しました。
今回は、箕面が住宅地都市として飛躍的に発展していく戦後の昭和30年代から40年代のまちづくりと鉄道についてご紹介します。

昭和49年当時の西部地域(市役所東側の土地区画整理)

 


●市街化の変遷
箕面市の市街化は、明治43年(1910年)の箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)の梅田―宝塚間(宝塚本線)・石橋―箕面間(箕面線)開通に始まり、これ以降、昭和初期にかけて、箕面、牧落、桜井の各駅を中心に、沿線地域で区画の大きい良好な住宅地の造成が進んできました。【詳細は前回のブログ参照

昭和30年代においても箕面線の沿線では、民間による住宅地開発だけでなく、府営住宅や住宅供給公社住宅などの公営団地が建設されるなど、西部地域で市街化が進みました。


昭和38年当時の西部地域(箕面・新稲)

 

昭和40年代には、箕面市及びその周辺で、千里ニュータウンの開発や日本万国博覧会の開催に伴い北千里駅(吹田市域)や千里中央駅(豊中市域)が開設されるとともに、広域幹線道路である国道171号、新御堂筋(国道423号)、府道2号大阪中央環状線が整備されました。
交通施設が整ってくると、西部地域よりもまちづくりが遅れていた中部地域・東部地域において、道路整備による利便性を活かした宅地開発が進められるようになりました。


昭和49年当時の東部地域(粟生間谷)

 

昭和49年当時の中部地域(船場繊維卸商団地)


 

また、中部地域・東部地域の大規模な宅地開発では、開発者が負担して北千里駅や千里中央駅への路線バスを開設するなど鉄道駅のアクセスも同時に確保されました。


 

 

●北千里駅の開設
北千里駅は、箕面市小野原地区の市域境界から南へ約700mに位置する千里ニュータウンの吹田市古江台に昭和42年(1967年)3月1日開設されました。
駅に至る線路は、踏切がないように盛土をして敷設したことから、北千里駅は線路とホームは3階に、改札口やコンコースは2階にある高架構造の駅です。

完成間近の北千里駅(阪急電鉄提供)

 

完成間近の北千里駅と千里ニュータウン(阪急電鉄提供)

 


開業当時の北千里駅(阪急電鉄提供)

 


また、北千里駅は開業と同時に、日本で初めて自動改札機が設置されました。自動改札の方式が定期券用と普通乗車券用とでは異なっていたため、改札口も分かれていたようです。


開業当時の北千里駅改札口(阪急電鉄提供)


開設後、昭和45年(1970年)に開催された日本万国博覧会への対応として増便するため、駅の終端から北側に留置線が整備されました。
この留置線は、千里ニュータウンのさらに北の箕面市東部地域への延伸を見据えたもの(?)と当時話があったと聞きますが、正式なものではなく、現在、千里線延伸の話はありません。


 

●千里中央駅の開設
千里中央駅は、箕面市船場地区の市域境界から南へ約800mに位置する千里ニュータウンの豊中市新千里東町に昭和45年(1970年)9月14日開設されました。
ホームは地下2階で、改札口の地下1階の天井まで吹き抜けになっている地下駅です。また、地下1階の改札口まわりの通路には飲食店などが取り囲むように配置されています。


開業当時の千里中央駅(北大阪急行電鉄提供)

 


千里中央駅は、現在の場所で駅が開設する前の昭和45年2月24日から9月13日までの202日間だけ、別の場所に仮設駅として設置されたことがあります。
仮設駅は、日本万国博覧会へのアクセスとして大阪中央環状線内側、現在の中国自動車道上り車線の敷地に線路が敷設された会場線の千里阪急ホテル前付近に設置され、地上2階に橋上駅舎が簡易に設けられ、そのまま大阪中央環状線と中国自動車道を跨ぐ北新田橋の歩道部分につながっていました。


万博期間中の(仮設)千里中央駅(北大阪急行電鉄提供)

 

日本万国博覧会終了後、万国博中央口までの会場線が廃止され、仮設の千里中央駅も撤去され、跡には中国自動車道の上り線が整備されました。地上に出るトンネル坑口部分は埋められましたが、現在も千里中央駅手前のトンネル区間では、分岐していく当時の会場線トンネルの一部を車窓から見ることができます。


トンネル坑口からすぐの(仮設)千里中央駅(北大阪急行電鉄提供)


現在の千里中央駅は、日本万国博覧会の開幕前にすでに完成しており、閉幕後すぐに線路が切り替えられて、閉幕翌日に開業しました。
千里中央駅のホームの北端から更に北側に約70mトンネルが整備されており、当時、箕面市域への延伸も視野に入れたものと思われます。


工事中の現在の千里中央駅(北大阪急行電鉄提供)

 


●人口と人口集中地区(DID)の変遷
箕面市の人口は、昭和35年が約3.4万人、昭和40年約4.3万人、昭和45年約5.7万人、昭和50年約7.9万人、昭和55年では約10.4万人となり、20年間で約3倍の人口に急速に増加していきました。

人口集中地区(DID)の変遷を地図上で追っていくと、阪急電鉄箕面線の沿線から西部地域全体へ、その後、中部地域・東部地域へと市街化が進展していく過程がよくわかります。
昭和35年に300haであったDID 区域面積は、昭和45年には490haと約1.6倍に、昭和55年には1,180haと、20年間で急速に拡大していきました。
※DIDとは、1haあたり40人以上の人口密度のある地区で、実質的な市街地の範囲を表す指標とされています。


 

●急速な市街化への対応

【戦後の都市計画】
昭和30年代に始まった経済の発展や産業構造の変化等に伴って、全国的に産業と人口の都市への集中が激しくなり、広く都市化現象が進行しました。
特に大都市周辺部では、農地、山林が虫食い的に宅地化されて無秩序に市街地が拡散し、「スプロール現象」が生じていました。

このような状況に対応するため、昭和43年に(旧)都市計画法が廃止され、同じ名称の法律が新たに定められました。(新)都市計画法では、高度成長期の市街地化の進展に対応し、段階的かつ計画的に市街化を図るため、区域区分(いわゆる線引き制度)や、開発許可制度が定められました。

線引き制度は、都市地域をおおむね10年以内に市街化を促進する区域として「市街化区域」に、当面市街化を抑制する区域として「市街化調整区域」に区域区分するものです。
また、この区域区分を担保するとともに、良好な市街地を形成する手段として、開発を許可制とし、宅地造成と合わせて必要な公共施設の整備を義務づけました。

箕面市では、昭和45年6月に全市域を「市街化区域」、「市街化調整区域」に区域区分する都市計画が決定しました。当時の市街化区域は全市域の約28%の1,361ha、市街化調整区域3,474haでした。現在の市街化区域は1,985haで、全市域の約41%となっています。


【箕面市の独自条例】
(新)都市計画法の制定に相前後して、急速な乱開発に悩んでいた地方自治体は、国の法の不備を補完するため、宅地開発,住宅建設に伴う地方公共団体の財政負担の軽減や良好な都市環境の整備を目的に行政指導の指針として、いわゆる「開発指導要綱」を制定しました。

日本最初の本格的な開発指導要綱は、昭和42年(1967年)に兵庫県川西市で制定されたものと言われており、内容は道路、公園などの技術基準、計画人口などの基準で、その後、大都市及びその近郊を中心に全国で3割の地方自治体が制定したと言われています。

一方、本市では当初、開発指導要綱を制定していましたが、当時の急激な市街化による人口増を抑制し、計画的なまちづくりや生活環境の保全を図るためには、要綱による行政指導ではなく、条例により規制・誘導する必要があるとして、昭和52年(1977年)に市独自の条例(旧:環境保全条例、現:まちづくり推進条例)を制定しました。

この市独自の条例により、人口密度規制や住宅敷地規模の規制、道路、公園の設置基準など、他市にはない厳しい基準を設けて、開発だけでなく小規模な建設行為も合わせて規制・誘導してきたことから、本市が大都市近郊にありながら、良好な住環境を備えた「みどり豊かな住宅都市」として発展していきます。

 

 


以上が、戦後の昭和30年代から40年代時代についての鉄道と箕面のまちづくりです。

次回は、条例による規制・誘導により、箕面が住宅地都市として、さらに飛躍発展していく昭和50年代以降のまちづくりをご紹介したいと思います。

 

 

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箕面のまちづくりと鉄道(2) ~大正時代・昭和時代前期~

2017年05月29日 | 市政統括

こんにちは、政策総括監の柿谷武志です。

前回のブログでは、明治43年(1910年)の箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)の開通以後、鉄道を線として考えるのではなく、面として捉え、動物園や観覧車などの観光地化や郊外住宅の分譲が始まった明治時代をご紹介しました。
今回は、郊外住宅地としての環境に恵まれていた箕面が、観光地化から住宅地化へと軸足が移って行った大正時代から昭和時代前期(昭和31年市制施行まで)についてです。

住宅地開発工事中の写真(大正時代)

 

●箕面駅周辺の観光施設が移転
箕面動物園は、開園した約6年後の大正5年(1916年)3月31日に閉園しました。
箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)は、新たに動物園も併設したレジャー施設を宝塚駅周辺に作ることとし、大正13年(1924年)に宝塚ルナパーク(後の宝塚ファミリーランド)が開業しました。
また、劇場だった箕面公会堂も開館した約9年後の大正8年(1919年)に宝塚に移転し、歌劇場として活用されました。

 

●箕面駅周辺の住宅地化

【ラケット型線路内が住宅地化】
箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)は、箕面公会堂の移転後、箕面駅のラケット型を廃止し、ラケット型線路内の運動場を大正11年(1922年)から造成に着手し住宅地としました。
今の駅前住宅地の道路が行き止まりとなっているのは、当時のラケット型線路の形状内で住宅地化したなごりです。

当時のラケット型線路と施設を重ねた現在の地形図


【箕面地区の住宅地】
現在の箕面三丁目から五丁目にかけたあたりの住宅地は、箕面土地株式会社(箕面有馬電気軌道や箕面動物園の出資者でもあった岸本汽船社長の岸本兼太郎が経営主)が、大正11年(1922年)から開発に着手し住宅地としました。

また、岸本氏は住宅地の開発だけでなく、「箕面学園尋常小学校」を大正15年(1926年)に設立し、英語教育など当時としては斬新な教育を実践したと言われています。
住宅地開発の経営主であり学園校主である岸本氏は、行政や地域の運営にもさまざまな協力をしていましたが、戦争の影響で各種の事業から手を引かざるを得なくなりました。
ちょうどその頃に、新しい学校の設立を計画していた箕面村は、「箕面学園尋常小学校」の校舎、土地、備品すべてを買取り、昭和20年(1945年)4月に北小学校(当時は北国民学校)として開校しました。

今はさらに緑豊かで閑静な住宅街となり、桜並木は「大阪みどりの百選」にも選ばれています。


 

 

●牧落駅の開設
牧落駅は、当時の住宅地開発会社や箕面村の多くの人々の働きかけと寄付により誘致が実現し、明治43年の箕面有馬電気軌道の開業から遅れること約11年後の大正10年(1921年)12月30日に開設されました。
駅といっても長らくホームがなく、木製のはしごが2つ置いてあり、前後の乗降口をはしごの位置に合わせて停車したそうです。

現在の牧落駅は、箕面小学校南側のホーム下が大きく掘りこまれて道路になっていますが、この場所は当時駅ではなく踏切があり、小学校に通う児童の安全のため、昭和5年(1930年)に踏切を廃止して地下道としたなごりです。

 

●牧落駅周辺の住宅地化

【百楽荘の住宅地】
牧落駅前の百楽荘は、当時の住宅地開発会社の関西土地が、大正11年(1922年)から開発に着手し住宅地としました。
百楽荘の開発は、箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)の指導を受けたようですが、生け垣や石畳を敷いた側溝があるまちなみは、関西土地が独自に設計したようです。

住宅地は、当初「新桜井住宅地」と名付けられていましたが、大正13年(1924年)11月ごろから「百楽荘」と宣伝されています。住宅のほか、売店、派出所、ビリヤード場、遊園地、下水などが整備されていました。

今も小学校につながる広い道路の両側に石畳や生け垣が続く美しい街並みが維持されています。


【桜ヶ丘住宅地】
桜ヶ丘住宅地は、当時の住宅地開発会社である田村地所部や大同土地が、大正8年(1919年)から開発に着手し住宅地としました。
当時は、資材調達や天候、資金などの問題により造成は遅れぎみだったこともあり、田村地所部は経営を軌道にのせる起爆剤として、住宅改造博覧会の誘致を進め、主催者である日本建築協会に道路と上下水道の整備を提案したと言われています。

桜ヶ丘住宅地は、郊外としての空気・水・景観のよさに加え、交通の便もよく電力供給があるとともに、開発会社が道路と上下水道を整備することから、日本建築協会の理念を実現するうえでも最適地だったようです。
その結果、実践的な生活改善のモデルを提案したい日本建築協会と、経営を軌道にのせたい田村地所部の思惑が一致して「桜ヶ丘住宅改造博覧会」が実現しました。

今も博覧会当時の展示住宅も残っており、国の登録有形文化財に指定されている住宅もあり、美しいまちなみが形成されています。


【桜ヶ丘住宅改造博覧会】
桜ヶ丘住宅改造博覧会は、大正11年(1922年)9月21日から11月26日にかけて、日本建築協会により開催されました。生活の洋式化を推進する生活改善のとりくみの集大成といえる博覧会です。

この博覧会では、理想のまちと家のモデルを実際につくり、終了後に展示住宅を土地付きで販売するという画期的な試みがされました。日本建築協会は、博覧会開催前に住宅設計図案を募集し、入選作品住宅も実際に建築、販売されました。

会場は約1万5000坪(約5万平方メートル)あり、東側5000坪(約16,500平方メートル)には、住宅設計入選図案の実物住宅や建築会社など全14社からの出品による合計25戸の住宅が建ち並びました。(当時の工事中写真)

 

西側には、150品目をこえる物品の展示がおこなわれた住宅博覧会本館あるとともに、野外会場には噴水、音楽堂、活動写真館、飛行機遊具、休憩所など、憩い遊べる施設もありました。(当時の本館全景写真)

 

●その他の住宅地化

【桜井南天荘の住宅地】
現在の桜井三丁目から豊中市宮山町にかけたあたりの住宅地は、当時の住宅地開発会社の清光社が、昭和9年(1934年)ごろに開発し住宅地としました。
住宅地は桜井南天荘と名付けられ、分譲の案内には自動車道の開通、上下水道の整備、電力電灯電話の開通、さらに景観が特に良いことなどが記されていました。

 【東箕面田園住宅地】
現在の今宮三丁目から四丁目にかけたあたりの住宅地は、当時の住宅地開発会社の小谷工務店が開発し、昭和4年(1929年)に分譲を開始しました。
当時では唯一、鉄道の箕面線から離れた住宅地で、東箕面田園住宅地と名付けられていました。


 

 

●箕面の都市計画
大正8年に施行された(旧)都市計画法は、急激に近代化する経済状況への対応を主な課題として、新たな交通機関整備のための道路拡幅、大火対策のための減歩手法による土地区画整理事業など公共の基盤施設の整備が中心でした。

昭和8年に改正された(旧)都市計画法は、適用範囲が全ての市と町村は大臣が指定することとなり、大阪府内では大阪・堺都市計画区域の外縁にに位置した箕面村や池田町、豊中町、高槻町など14町村が指定を受けました。

箕面の都市計画は、戦前に計画を立案しましたが、戦争の影響で認可や補助がおりず戦後あらためて計画を立案し、都市計画道路として阪急電鉄箕面線と並行する「牧落公園線」が昭和27年12月に箕面で初めて都市計画決定されました。

桜井駅から牧落駅に至る途中のカーブを曲がったところから箕面駅までの線路沿い道路で、現在は全線が整備済みとなっています。

整備済みの都市計画道路牧落公園線


以上が、大正時代から昭和時代前期(昭和31年市制施行)までの鉄道と箕面のまちづくりです。
郊外住宅地の人気により観光地化から住宅地化へと軸足が移った時代でした。当時の住宅地では、現在、緑豊かで閑静な住宅街となり風格さえ感じさせる成熟したまちなみが形成されています。
次回は昭和時代後期から現在までの「箕面のまちづくりと鉄道」をご紹介したいと思います。

 

 

箕面市では、2017年4月1日(土曜日)から2017年7月31日(月曜日)まで、「病気やけが、何かあったら#7119救急安心センターおおさかへ!」を統一キャンペーンとして実施中です。


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箕面のまちづくりと鉄道(1) ~明治時代~

2017年05月02日 | 市政統括

こんにちは、政策総括監の柿谷武志です。
4月1日付けで担当する事務が、北大阪急行線の延伸及び関連まちづくり等の事業だけでなく、技術に関する全般と特命による重要施策も加わりました。今後も社会経済情勢の変化に対応した政策を推進するとともに、行財政運営の効率化を図ってまいりますので、よろしくお願いします。

さて、箕面のまちは明治43年(1910年)の箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)の開通以後、鉄道とともに発展してきました。鉄道が単なる輸送装置ではなく、まちを支え続けるスーパーインフラとして、箕面のまちそのもののあり方に影響を与えてきました。
箕面の発展の礎となり、実に1世紀にわたって箕面のまちや人の暮らしを支え続けてきた鉄道と箕面のまちづくりの沿革をお知らせしたいと思います。今回は明治時代についてです。


当時(明治時代後期)の箕面駅付近


 

●箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)の開通
明治43年(1910年)3月10日に、箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)が開業しました。
当時、梅田から農村地帯を経由して紅葉(箕面)や温泉(有馬)の観光名所を結ぶ路線ということで、「遊覧電車では利用者が少ないのではないか?」など、誰もが鉄道開業に対して消極的だったそうです。

それを覆すアイデアとして、観光名所を結ぶ路線という考えだけでなく、人口が明治33年に95万人から明治44年には127万人と増加が著しかった大阪市内の狭い住居の暮らしと比べ合わせ、「郊外に住宅地を新たに作り、その居住者を市内へ電車で運ぶ」という、その後の私鉄経営の基礎となる考えに至り、最初の路線として梅田ー宝塚間の宝塚線と石橋ー箕面間の箕面支線が開業しました。

箕面支線の開業時は、すでに大阪府営箕面公園となっていた箕面山の玄関口に、箕面駅(当時の駅名は箕面公園駅)のみが開設されました。

 

 

 

 

●箕面駅はラケット型線路
箕面駅(当時の駅名は箕面公園駅)の構造はとてもユニークなもので、線路はテニスのラケットのような形で降車場と乗車場が別々につくられ、折り返しせずに石橋駅に戻れるものでした。
当時の鉄道技術では、電車を折り返す設備器械もあったようですが、乗客に対するアトラクション効果を狙って、ラケット型線路を作ったとも言われています。


  当時のラケット型線路と建物             現在の地形図に重ねたラケット型線路の位置

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

山手(北側)から見た箕面駅とその周辺

 

アトラクション効果を更に高めるため、降車場から箕面公園に向かう滝道の入り口には二本の電飾塔(金星塔)も作られていました。塔には、箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)の「M」と「A」を組み合わせた社章が付いていました。

 

 


●箕面駅の周辺は観光地化
◆箕面公会堂は、明治44年(1911年)4月16日に劇場として開館しました。ラケット形線路内の運動場南端に建てられ、建物の中央部分には屋根がない回廊様式の建物でした。
この建物は、大正8年(1919年)に宝塚に移築され、歌劇場として活用されたようです。

 

◆箕面郵便局は、明治43年(1910年)8月21日に開局しました。電飾塔(金星塔)の西側に建てられた洋館で、玄関が飛び出し、2階にはバルコニーもある六角形のユニークな形状の建物です。

 

◆カフェパウリスタ箕面喫店は、明治44年(1911年)6月25日に開店しました。電飾塔(金星塔)の東側に建てられた洋館で、建物の東西の壁にはカフェーパウリスタのマークがついていました。
専門店としてコーヒーを提供する店としては、大阪で1、2を争うほど早い時期の開店で、カフェーパウリスタでは店のことを「喫店(きってん)」と呼んでいたそうです。

 

 


◆箕面動物園は、明治43年(1910年)11月1日に開園しました。場所は、現在のみのおスパーガーデンのあたりで、箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)が設置しました。
箕面動物園は面積がおよそ3万坪(約10万平方メートル甲子園球場総面積の約2.5倍)もある日本一の動物園と宣伝されました。


山の地形を活かして動物を配置したほか、当時珍しかった噴水や観覧車などの施設があり、園内各所には季節の花木が植えられていました。眺望が良かったのも人気だったようです。

 

箕面動物園は、大正5年(1916年)3月31日に閉園します。その後しばらくは箕面駅前ラケット形線路内運動場に動物を移し、無料公開しました。ゾウやトラなど大型の動物は、前年に開園していた天王寺動物園にひきとられたようです。


◆観覧車は、明治44年(1911年)7月15日からの納涼台開きにあわせて、営業開始しました。
箕面動物園内の山腹に設置され、観覧車には座席がなく、立ち乗りでした。観覧車の外側には二重に電飾がついており、夜になると電気がともり、山腹に輝く観覧車が見えたと思われます。
同年7月13日付け大阪朝日新聞広告では、「涼しい空をぐるぐる大廻転車」とあります。


 

 

●桜井駅の開設
桜井駅は、箕面駅より約1か月遅れの明治43年(1910年)4月12日に開設されました。当時は、駅から東の牧落踏切までの線路は、旧西国街道(現・市道桜井一番通り線)の南端に沿って敷設されていました。

箕面支線は軌道条例(現・軌道法)により整備されたため、路線のどこかで道路と線路を併用する必要があったため、桜井駅付近の旧西国街道南側に用地を確保して併走させたと言われています。

しかし、牧落踏切あたりが急カーブだったことなどから、大正15年(1926年)ごろに道路と併走せず専用線として、さらに南側に変更して現在の位置になったと言われています。

現在の桜井駅から牧落踏切までの旧西国街道(現・市道桜井一番通り線)は、以前の軌道部分も道路となったことから広い道路となっています。

現在の地形図に重ねた開業当時の線路位置

 

●桜井駅の周辺は住宅地化
桜井住宅地は、当時の桜井駅のすぐ北側に位置する約18.1haを箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)が開発し、明治44年(1911年)6月15日に分譲を開始しました。箕面における最初の大規模開発であり、住宅都市へと歩む第一歩となった住宅地です。

「郊外に住宅地を新たに作り、その居住者を市内へ電車で運ぶ」との考えのもと、鉄道の建設と同時に進められた沿線の宅地開発としては、池田室町住宅地(約8.9ha)に続く2番目です。
新しい住宅地に用意する家屋にもこだわり、土地の豊かな郊外らしく、長屋ではなく広い区画の一戸建てとし、また郊外では石油ランプでの生活も珍しくなかった時代に電灯の設備も用意し、場所・家屋ともに豊かな暮らしを提案されていました。

さらに、持ち家が資産家など一部の層に限られていた時代に、「頭金として売値の2割程度、残りを約10年間月賦で払い込むと住宅の所有権を移転させる」という、土地・住宅を担保とした現在の住宅ローンの走りとも言える住宅販売方法を提案して、サラリーマン層などの多くの人たちが、マイホームを持って豊かに暮らす機会を作り上げられました。

当時の桜井住宅地は、土地付きの分譲住宅が1,200円の均一価格で販売され、「保証金200円を払うと大阪市内の家賃と変わらない月12円で、土地・建具つきの家が買える。」と広告が出されています。

この方法は見事に功を奏し、理想の沿線住宅地を増やし、鉄道の利用者も増加していきました。

 当時の桜井新市街案内

 

以上が、明治時代の鉄道と箕面のまちづくりです。鉄道を線として考えるのではなく、面として捉え、観光地化だけでなく、気候も空気も水も風景も良い“健康な生活がいとなめる”郊外住宅地での夢と憧れのライフスタイルを提供するという地域・都市戦略であったと考えられています。
次回は大正時代から昭和時代についてお知らせしたいと思います。

 

 

箕面市では、201741日(土曜日)から2017731日(月曜日)まで、「病気やけが、何かあったら7119救急安心センターおおさかへ!」を統一キャンペーンとして実施中です。 


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さあ、新年度にむけて!

2017年03月28日 | 市政統括

みなさん、こんにちは。市政統括監の藤迫です。

平成29年第1回定例会も本日をもって閉会となります。昨日は、平成29年度箕面市一般会計予算など予算関係議案19件、箕面市税条例等改正の件など条例関係議案13件、財産取得の件など2件、箕面市副市長の選任について同意を求める件など人事案件6件、その他2件、計42件の重要議案を可決いただき、平成29年度に向けて動き始めることになります。

また、来年度に向けての人事異動内示も3月22日にあり、異動対象になった職員もそうでない職員も市役所の中ではざわざわ動き始め、こちらも、いよいよ平成29年度に向けて具体的に動き出しました。

 

さて、私ですが、誠にお恥ずかしい話なのですが、人事異動内示が終了し、市役所全体や自分の所管である市政統括の来年度の動きが見え始めてきたことから、ちょっとほっとしたのか、そもそも月曜日くらいから悪かった体調が急激に悪化しました。がまんしきれずその日の夕方に病院に行くと、なんと「インフルエンザa型」と診断され、25日土曜日まで出勤停止となりました。この年度末の忙しい中、また、議会の真最中に職場のみんなにはご迷惑をかけました。不幸中の幸いは本会議を欠席することは免れたことです。

萱野小学校での3年半の間は、冬になるとこのインフルエンザには悩まされました。子どもたちには、ことあるごとに注意を呼び掛け、また、学級閉鎖、学年閉鎖など、学校行事との狭間で頭が痛い場面が続いたのを懐かしく思います。そんな緊張感の中では、自分自身がインフルエンザに罹患する暇はなかったのでしょう。病院の先生の話では、この時期になって、また、インフルエンザが流行っているようです。皆さんも気をつけてください。

その出勤停止期間中に、本市でも、子どもたちの学力支援などで協力をいただいているNPOあっとすくーるの法人設立5周年記念シンポジウが行われました。あっとすくーるさんには、萱野小学校時代にもお世話になりましたので、参加する予定にしていました。そして、その取り組みを、部長ブログで紹介することも事前に了解を得ていましたが、自宅療養のため参加はかないませんでした。しかし、今回のテーマと直接関係する教育委員会事務局の職員が、参加し、写真を撮ってきてくれましたので、少しだけ紹介します。
今回のテーマは、「どんな家に生まれても、子どもたちが豊かな未来を描ける地域を創る」で、このテーマに対して、行政・民間それぞれの立場のパネリストとともに参加者全員で一緒に考えるという企画です。倉田市長と、実際に現場で子どもたちの支援を行っている団体の方たちのシンポジウムでは、必要な情報共有のあり方や相互の信頼関係づくりなどについて議論がなされたとのことです。今後、行政と民間団体が協力関係を深め、取り組んでいくべき分野だと痛感しました。

 

さて、冒頭で述べた昨日の本会議の採決状況ですが、その中には、私の「箕面市教育委員会教育長の任命について同意を求める件」も含まれていました。議会の皆様から同意をいただき、改めてその重責に身が引き締まる思いです。一人の力は小さくても、みんなで力をあわせれば、時として信じられない力を発揮できます。皆様の期待に応えられるよう精いっぱいがんばりますのでよろしくお願いします。

 

「自転車事故ゼロ」をめざして「ながら運転」をなくすために、箕面市では2017年3月31日(金曜日)までの間「絶対ダメ!ながら運転 自転車を安全に乗りましょう!」を統一キャンペーンとして展開します。

 


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