生涯学習の部屋

資格取得数238。6つの修士と18の学士と2つの短期大学士。MBAサラリーマンの生きがい発見生涯学習奮闘記。

資料完成~♪

2012年04月14日 23時48分15秒 | 放送大学大学院
明日の第一回ゼミに持参する資料が完成した。

内容は研究計画書を手直ししたものであり、かかった時間はわずか15分程度。その程度のもののために、ずっーーと精神的にプレッシャーを感じ続けていたわけである。

無論、この程度のものでいいのかという問題もあるのだが、初心にかえって、「できばえのよいもの」より、「当初自分の考えていたもの」を優先することとした。そもそも、試験を受けた際の研究計画書と違うものを提出するのは、あまりにも指導教官をバカにした所業ではないかと思い直したのである。

私が合格の判定を与えられた原点・・・それは、昨年の夏に提出した研究計画書である。その内容を変えて、ゼミの資料とすることが許されるのだろうか?第一回ゼミでダメだしを喰らってからでないと、仁義を切ったことにはならないだろう。ゆえに、もともとの内容に補足説明を加えただけにとどめることとした。

それはそうと・・・どんな服装で行けばいいのだろうか?やはりスーツで行くべきなのだろうか。発表があるのに、カジュアルで行くのも勇気がいる。オリエンテーションだけなら、服装にはこだわるつもりはなかったのだが。
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本日の機構!

2012年04月14日 20時56分44秒 | 大学評価・学位授与機構
放送大学多摩学習センターの隣が独立行政法人大学評価・学位授与機構である。

そう、我等が「機構」である。この「機構」について、私は放送大学大学院で修士論文を書く予定であり、明日の第一回ゼミで、その旨説明しなければならない。

まだ、何一つ作業していない「資料」をベースに・・・このまま、白紙の資料を持参したら、即刻「破門」だろうな。

でも、きっと、寝ているうちにコビトさんが出てきて、明日の朝には「資料」が完成していることでしょう・・・

後方から見た機構の風景も載せておきます。
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桜散る・・・

2012年04月14日 20時52分42秒 | 小平
せっかくきれいに咲いていた桜の花も、このところの不安定な天気に翻弄されている。

放送大学多摩学習センターの周りに咲いていた桜も、そろそろ葉桜になりそうな雰囲気である。


花びらも、この通り、散り積もっている。


本当に、花びらの絨毯のように。
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放送大学多摩学習センターへ!

2012年04月14日 20時34分15秒 | 放送大学
借りていた本を返却しに放送大学多摩学習センターへ行ってきた。

雨が降っている生憎の天気であったが、歩いていける距離なので傘をさしてテクテク学習センターへと行ってみた。5冊返却して、学部4冊と大学院6冊で合計10冊を新たに借りることとした。

ついでに失効していたCiNiiの登録も完了!

学習センターの図書室へはカバンを持ち込むとができないので、カバンはコインロッカーに入れることとなる。


コイン式で、100円は後ほど返却される。取り漏れの無いように注意が必要。
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「書けない病」との闘い

2012年04月14日 11時35分55秒 | ちょっと立ち止まって・・・
前の記事に続いて「書けない病」について・・・

この病気(いや、精神的な甘え)から復活する方法は2つある。1つは「締切」である。明日発表の資料なら、明日の発表に間に合うくらいのタイミングで、とりあえず、一旦、病気は癒える。留年や退学を決意しているのなら別だが、一応、学生としての本分をクリアする気概が残っているのなら、たとえ、「ヘボ資料」となるリスクを含んでいても、なんらかの「作品」は完成するはずだから。

あとはリハビリ。読書をするとか、モチベーションのあがりそうな話を聞くとか、あるいは「お仲間の頑張り」なんかを見ていると、ついつい、「自分も頑張らないと!」と思ってしまう。そんな流れから書き始めることができる時もある。

そもそも自分の本業は銀行員であり、「作家」でもなければ、「アカデミックな研究家」でもない。書かなくても生きていけるし、書かなくてもその日の暮らしにこまることはない。

しかし、人として生まれてきた以上、人にしかできないこと・・・すなわち、自分の考えを書きあげて、他者に伝えるということを排除する必要はないだろう。ブログの記事のように、好き勝手に、気ままに書くだけではなく、師匠に師事し、テーマをいただく、あるいはテーマを自分で決めて、それについて研究し、書き綴ることも、また大切な修行といえよう。

そして、その修行を乗り越えた証が「学位記」なのだから、何枚あってもいいものなのかもしれない。

時には、精神的に追い詰められることもあるが、何度もやっていると、その「ストレス度」というか、「強度」というものがわかってくる。だから、その範囲において「書けなくなる」のかもしれない。それが、健全であり、知らず知らずのうちに、防衛機能が作動して、あえて、自分の心理が書かないようにしているともいえる。

適度なストレスがないと人間は生きていけない。そして、一定の負荷がなければ、成長もありえない。自己の成長のためとはいえ、ストレスはストレス。頭でわかっていても、気持ちがついていかない。それが「書けない病」の正体である。

この苦しさこそが、自分をたくましくしてくれる。簡単な運動では筋肉がつかないのと同様、苦しみ、悩み、それを乗り越えることで自己成長が促進されるのだから。ゆえに、つらくても耐えていかねばならない。少なくとも、私の目指す「生涯学習」というものは、「楽しみ」こそあれ、「楽」というカテゴリーではありえない。

そして、そんな苦しみに併走してくださる「同志」をありがたく思っている。

たとえば、リンク先の1つである「番頭さん」の今日の記事。昨日の深夜にレポートを完成させ、通常なら15円で済む切手代を350円に換えて、速達で提出。

このような記事を見ると、一見「もったいない」という感情を持つ人もいるかもしれないが、それは、修羅道に身を置いたことのない人の率直な感想である。我々、楽に生涯学習をしていないカテゴリーの同志は、このような「生涯学習の実践」を、とてつもなく理解できるし、共感してしまうし、リスペクトしてしまう。

還暦を超えても博士課程に挑戦する「と~ま君」さん還暦を超えても年間50単位も履修している「ゆず」さん。他にもいろいろな方々を紹介したいのだが、このような方々の姿を見て「何かを感じる人」と「何も感じない人」に分類され、「何かを感じる人」の中でも「共感できる人」こそ、私が同志と呼べる人なのだろう。

「無用の用」。こんなことをしなくても、生きていけるし、生活に支障が生じるわけでもない。いわば「無用」なものである。しかし、その「無用」なものが「必要」となることがあるかもしれない。だから、あらかじめ「天命」として、「無用」なものを学ぶ。それこそが「無用の用」というものであろう。本当、呆れるくらい「アホちゃう?」と思ってしまう方々であるが、私が尊敬してやまない方々でもあるのだから。

さて、そろそろ私も書かねばならぬし、動き出さなければならぬ。少なくとも、明日は同期10名とアイマミエルわけなのだから。どのような猛者と一緒に学べるのかワクワクしてくる。きっと、とんでもない人もいるだろうから、楽しみである。
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「書けない病」に苦しむ・・・

2012年04月14日 11時16分59秒 | ちょっと立ち止まって・・・
明日は放送大学大学院のオリエンテーションであり、第1回ゼミが開催される。

その際、20分程度の質疑応答用の資料としてA4で1枚~2枚を準備しなければいけないのだが、未だ、作成に至っていない。ようは、毎度の「書けない病」に罹患中というわけである。

この病気、本当に「書けない」わけではない。書こうと思えば、すぐにでも完治する「精神的な病」なのであるが(いや、病というカテゴリーにしてしまうことすらおこがましい、一種のわがまま)、どうしても、書けないわけである。

頭の中には、概ね完成形は出来上がっているのだが、打鍵できないし、したくない。そう、逃げてしまいたいという気持である。この気持ちに陥るのは私だけだろうか。意外と、多くの学生が陥る精神的なものなのかもしれない。

「やればできる」

そういう見極めができているから、全然、やる気にならないのである。まだやらなくていいや・・・という甘えた気持ち。そして、この「やらなければならない第一候補」がいる限り、他の前向きな課題に取り組むことも困難となってしまう。

「負の連鎖」というか、「マイナスのスパイラル」というか・・・非常に残念な状況が「書けない病」といえるのかもしれない。

とはいえ、わかっていても書けないのだから仕方がない。自分自身、凡夫であるから、優秀な方のように、なんでも、きっちり計画通りに仕上げることができない、とても弱い存在なのである。

まあ、これで大学や大学院に所属していなければ、易い方、易い方へと流れ、流されて、「全く何もしない自分」というものに成り下がることは確実であろう。だから、コストをかけて、大学というフィールドで学習をしているのである。
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