文屋

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■パーヴォ・ヤルヴィのブルックナー9番、「さようなら」が消えていく。

2012年03月09日 18時35分27秒 | 音楽
パーヴォ・ヤルヴィ指揮、フランクフルト放送響で、ブルックナーの交響曲9番を聴く。ブルックナー、最後の未完交響曲。未完であるのに、完全に、閉じていく。全3楽章、65分39秒。彼の曲はだいたい80分くらいあるのが多いが、確かに短く感じられる。この9番を聴くといつも、「ああ終わってしまった」と思ってしまう。ずっと聴いていたいと思う。彼の他の交響曲とは、なにかが違う。諧謔や、楽想や小さな躍動がまったくない。企画がないといってもいい。それだけ自然に全楽章が流れていく。美しい諦観といったらいいか、はじまりから終わりまで、「さようなら」が繰り返される。墨絵のように淡彩で、それが、さっと書かれて「消えてもいいよ」と言っている。
第一楽章の最後に、この「さようなら」が喉に満ちて、息が詰まって、全休止で音が止まる。ここで、いつも感興が高まって、目前の絵が一瞬で、消え去る。
長谷川等伯が書いた、あの松林図のように、淡く空白と酷似してくる。この部分、指揮者や楽団、ホールトーンなどいろんな条件によって異なってくる。
ギュンター・ヴァント指揮ベルリンフィルの演奏では、平面の絵が空白に変わるというよりも、立体的な目前の世界が、一気に瓦解していく様が見える。その意味で、淡彩ではなく、あるいは掠れているのではなく、デジタルなスイッチを発動させて、建物がざあーっと崩れていくのである。世界が面ではなく、造形されたなにかに感じられる。
パーヴォ・ヤルヴィの当盤は、この響きがやわらかなフランクフルトの「アルテオパー」のその空間に楽団の音を、ざざざあと摩耗させるように消している。美しい。
もともと、ヤルヴィは、ヴァントが来日して北ドイツ響とともにこの9番を演奏したのを聴き、強く影響を受けたと言明していたそうである。ヤルヴィは、その意味でも、自らの解釈を具現化しようとしたのだろう。ヴァントに比べて、全体に、ゆったりとしている。

きょうは、京都も一日雨降り。春を呼ぶ、慈雨だろう。でも終日、夜のように暗かった。
65分39秒があっという間に過ぎた。そして、もう一度一から、65分39秒を繰り返し聴いている。ブルックナーがまた、「さようなら」を繰り返している。
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